ど こ か で。
X が まだ、Twitter だった頃…
偶然目に止まった一つの文章に、私は瞬間で恋をした。
とりわけ、何が というわけではない。
感覚的なもの。
『 檸檬 』という名で綴られた そのツイートは、日常の 何も無い一コマを切り抜いただけなのだが…
そこに確かに在る、幸せを見つける手探りのやり方や、人生を豊かにする ' おまけ ' が詰まっていた。
X は、字数制限があるから よいのだ。
140 文字という限られた中で、読み手の頭の中に、言葉で絵を描いて、情景を魅せてくれる。
そしてその解釈は、読み手に拠って無限の可能性を生む。
また、エモさや、少しの 余白、心残り、行間がある。
全てのものは 揺らぎがあり、固定できるものなどない。
だから、芸術の意義がある。
私が好む比喩やメタファー、間接表現というのは、そこにあるべきものを一旦隠すということ。
喪失することで、そこに ' 余白 ' が生まれる。
その余白に向かって、鑑賞者は自己の中に在る様々なものを投入するようになるのだ。
少し 話は脱線したが、私を強烈に揺さぶってきた檸檬さんの X は、いつの間にアカウントが消え…
それでも尚、片想いで終えた初恋のよう、脳裏に深くひっかき傷をつけて、羨望の想いと共に 時々疼いた。
文字を綴っていると、スランプというか、自分の表現や言葉の限界を知り、行き詰まりを覚えることがある。
そんな時に ふと思い出し、一片の記憶を頼りに『 檸檬 』さんの名前を検索した。
— 棚木悠太
憧れの人は、一冊の小説を書き下ろしていた。
一目惚れしたツイートの文章を、そのまま覚えているわけではないが…
「 Twitter とは、想いや状況をメモ書きにし、小瓶に詰めて海に流すようなもの。
大海を漂い、岸に流れ着き、偶然拾った誰かが 私のそれに触れるのだ。」
のようなニュアンスだったと思う。
この文章も、小瓶に詰めた 一つのメモ書き。
但し、私の綴るものは 檸檬さんのような何気ない豊かな日常ではなく、心を雑巾のように絞り、頭を掻きむしって出した 声。
言わば、魂の慟哭。
喪ったものや、成りたいものに似て非なる自己を 嘆き、噎び、鼓舞するものが多い。
それでも、もう 私にはこれしかないのだ。
あなたが、偶然 この小瓶を拾い上げてくれたら…
どこかで。