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フォローしただけなのに
フォローされて、フォローする。
単純だからこそ美しい関係性。
でも、どこでも光があれば闇があるように、善意があれば、その対極には必ず悪意が存在する。
その苦しみの時間は、ある人にフォローされたので、フォローしたことから始まった。一文をそっくりそのまま無断使用されたことを皮切りに、同じ表現を後出しで使われることが常態化、しまいには文体までそっくりにされた。
そのストーカーのような行為に嫌気がさし、私は書くことをやめた。
何も書かれていない真っ白な画面を開くたびに、わくわくする。
そこは何を書くのも自由で、どんな世界を作り上げてもいい。
私だけの世界。
さて、どんな言葉を綴ろう。
今日はすらすらと書けるだろうか、それともいつものように言葉に悩みながら書き進めていくのだろうか。そんなことを思い、あーでもないこーでもないと、一つひとつの言葉とじっくり向き合う。
そして黒い文字が、真っ白な画面をだんだんと埋めてゆく。
楽し気に歌っている言葉もあれば、居心地悪そうにもじもじしている言葉もある不完全なものだけれど、私にしか書けないもの。
noteでの時間は、書く喜びと苦悩を知り、画面を通して見知らぬ人とつながる不思議を体験した、楽しい時間だった。
先日、私の気持ちを代弁してくれるコメントを見かけ、胸がスッとした。
みんなで話してたアイディアをさも自分のアイディアかのように発表する子や、おすすめしたお店をさも自分が開拓したように話す子。そういうのは「盗用」とまでは言えないんだろうけど繰り返されると流石に気分が悪いし耐えられない。意図的にやってるなら性格悪いし、気が付かなかったというなら記憶力に問題があるわ。
自分の考えと人の考えの区別があいまいで、なんでも自分の発言だと思い込んでしまう人をこれまでに何人も見てきた。
現実の世界なら関わらないでいられる、だけどネットの世界では一方的に追いかけてこられて防ぎようがない。
それがネットの恐ろしさなのかもしれない。
ネット上にいるのは、いい人ばかりではない。
あちこちで目にし耳にしてはいたけれど、どこか他人事で、自分が気をつけていれば問題ないと思っていたことが、とんでもない思い違いだったことに気づかされた。
自分から行かなくても、危険は向こうからやってくる。
人の考えをただ模倣しても、実力はつかない。
模倣イコール自分には才能がないと公言していることに、どうして気づかないのだろう。
そんなことをアメブロで書いたことがある。 ↓↓↓
再び書くことはないだろうと思っていた。
でも半年が過ぎた頃、「なんで私がやめないといけないんだ」と、あまりにも当たり前の感情がやっと湧き、でもやっぱりnoteは心情的に無理で、他のところを探してアメブロに辿り着いた。
だけど、また同じ目にあったらと思うとフォローはできなくなった。
それからさらに月日が流れ、noteをじっくり見ることが出来るまでに復活した。
久しぶりに開いたnoteは、熱くておもしろい。
しんみりさせられたかと思えば、思わずくすっと笑ってしまったり、「そうそう」と同感したり、なんでもござれの力作揃いで時間を忘れて読みふけった。
盗用の判断は難しいのかもしれない。
でも、本人には分かる。
たとえ周囲が似たようなものなんていくらだってある、そう言ったとしても。
最初は驚き、戸惑い、注意しても言葉が届かないことに失望し、やがて怒りになり、そして憎しみになった。
でも憎しみもすぎれば、諦めになる。
ただその人が、私に飽きるのを待つしかない。
二度と私に近づいてほしくない。