4日後に産むワレ(仮)

9時半起床。

朝  バナナ、にんじん豆乳スムージー、トースト、ピスタチオ

ナッツの中でピスタチオが一番好き。

植物に水をやり、蒸し鶏にかけるためのにんじんドレッシングを作っておく。
三陰交に置鍼がいいと聞いた。米粒貼り付けておくのでもいいらしい。割ったチャナダルがちょうど良さそうだったので絆創膏で貼り付けておく。

「母親になって後悔してる」を読んで。
母親にならないことを決めている研究者による23人の「後悔」を持つ母親へのインタビューと考察で構成された本。作者はイスラエルの人でインタビューを受けた女性たちもそう。

この本は子供を愛せないとか、ネグレクトや虐待について書かれたものではない。それぞれ子供の存在は愛し肯定している。ただ母親になってしまったことの逃れられなさについて、その荷の重さをどうしても自分の人生の枷と感じることについて、そしてそのような感情は表に出せないという苦悩について書かれている。

本来やりたいことを諦めざるを得なかった人、子供と過ごす時間にどうしても興味を持てない人、家族やパートナーとの関係不良で子育ての全てを担わなければならなかった人、経済的事情でサポートを受けたり自分の時間をとることができず、働くことと子育てに終始する状況にあった人、自分の子供時代のトラウマを子育てによって思い出してしまう人、などさまざまな境遇の人がいる。

この本においてフォーカスすべきところは、人間関係や経済的な状況を理由にする以前に、女性の全てが母親になりたい訳ではなく、その役割は自分にとって合わない、やりたくない、やってみたがやはりダメだった、と綴られているところである。
そのことは日常では容易に口にできない。子供にとって「産むんじゃなかった」「時間を戻せるなら産まない」という意味が含まれることは、その言葉の核心が「母親である自分が嫌だから」であっても、家族を傷つける可能性が存分にあり、心療内科を紹介され、母親失格のレッテルを貼られるようなことだから。

母親に求められる忍耐と忘却。本来の自分自身を忘れるほど他者の世話に没頭し、惜しみなく与える存在。そのように自己犠牲的にあれという理想を社会は押し付けてくる。理想的な母の姿。無視できればいいが、そこからはみ出す自分に苦悩する女性も少なからずいる。

そうでなければ、キャリアを選びバリバリ仕事をこなして稼ぐ女性像があてがわれる。そのどちらも望まない人だっているということは案外抜け落ちている。女性の生き方の多様さを本質的には認めたがらない社会があるということが終盤に差し掛かるにつれて浮き彫りになる。
そして母親という役割の外でも女性に対して暗に求められる忍耐と忘却。昨今よく話題になるセクハラやパワハラとも繋がる。

仕事という名目でない自分のための創造的な時間、何もせずに自分を解放する空白の時間、五感を動かし、日々のタスクから思考を解放し、定められた役割だけでない自分自身を呼吸させることは誰にでも必要である。
自分の人生を「生きそびれた」と感じたい人はきっといない。生きそびれないためには、社会やコミュニティーにおける要請に応え続けるのではない仕方で、自分を生きる軸だけは手放さず、なおかつ、こうでなければならない自分に縛られないことである。

何より自分の時間を自由に確保し、就職したこともないまま好きなことをして生きてきた私は、これまでの時間を気に入っていた。長い間子供を持つことは絶対に自分を抑圧すると考えていたけれど、身体的なリミットが近づいて、自分の興味で子供を産んでみたいと思い、授かることができた。
人間がどういう過程で人間になっていくのか知りたかった。母親になりたいと思ったことはない。それでもお腹の中で動く小さな体の気配はとてもいとしい。



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