「ミッドサマー」から見る、続きの人生を生きる為の同調心理と無常による防衛本能の恐怖とは?
例えば帷の中に悪夢はあるか?
悪夢だけなら日を見れば
次第に薄れゆくであろう。
その恐怖と嫌悪感が。
昨日記憶の引き出しの話をした。
必要な時に引き出したい。
記憶を辿りその時間に戻り懐かしむ。
光年に例えてもいい。
キラキラした脳髄液とともに。
意図もせずに急速に海馬に働きかけて
増大化を否めないのだ。
脳に植え付けられた断末魔の記憶を消すには一体どうすればいい?
泣き叫び思い出し眠り
目が覚め思い出し
泣き叫び放心する。
脳への侵襲が必要か?
そう。
必要なのは、その記憶を強く衝撃的に包んでしまう「脳への別の働きかけ」であろう。
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「混乱は混乱のまま楽しんで欲しい」
本作品の監督アリ・アスターの言葉だ。
前情報皆無の状態でこの作品「ミッドサマー」を鑑賞したが見終わった私の脳に生じたもやもやとした産物は「混乱を混乱のままで終わらせてたまるか」という抵抗だ。
この作品のあらすじを知りたい人は
「ミッドサマー あらすじ」で検索するといい。
本レビューでは筆者の執念によりそのあらすじには深く触れない。
これから観る人に「ミッドサマー」を単なる胸糞映画に思わせないために私は鼻息を荒くしながらレビューを書いている。
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死生観
生命のサイクル 命のバトン
本来生き物は子孫を繁栄し種を保存しながら進化してゆく。
そう、進化だ。
特に人間は「進化」と引き換えに「寿命」を持つ。
生死の定義により変わるが
クローンを作って生き延びるなら遺伝性に不死だ。単細胞が自身を分裂させるならこれも不死だ。
ここまで考えると監督の思惑のまま「混乱を混乱」のままで終わらすことになる。
ミッドサマーで描かれた村で起こる数日間の儀式は遥か昔、はたまたつい最近まで、あるいは現行して起こっているのかもしれない。
これほどの極端な描写はないだろうが。
何故そう思うかというと多様性で埋め尽くされた現在の世界は種の保存に消極的であるといえよう。
即ちミッドサマーで描かれている生命のサイクルは生物学的に考えれば倫理観とグロテスクな描写抜きに考えれば何ら疑問はないのかもしれない。
しかし狂っている。
吐き気を催す。
正気でない。
何故なら先に述べたような
「進化」する人類のための「寿命」が描かれていないからだ。
閉ざされた場所で延々と繰り返される
サイクルである。
共に笑う
共に踊る
共に恐怖を感じ
共に快楽を知り
共に嗚咽を漏らし
共に泣き叫ぶ
私が先に述べた言葉を思い出して欲しい。
断末魔の記憶を消すために必要なのは
その記憶を強く衝撃的に包んでしまう
「脳への別の働きかけ」なのだ。
主人公ダニーの最後の表情に注目しよう。
彼女のこの表情は彼女が得た「脳への別の働きかけ」だと強く思う。
そう。
究極の同調圧力による共依存の正当化だ。