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おっさんだけど、仕事辞めて北海道でチャリ旅するよ\(^o^)/ Vol,31 悪習

2024 0809 Fri
 
西暦2000年。
ミレニアムという言葉が流行った時期に20代前半で上京。そこでわたしは関西弁を話すという理由から、ある種の人たちに “大阪人” というレッテルを貼り付けられました。
「大阪人って会話すると漫才になるんでしょ?」
「ねえ、なんか突っ込んでよ!」
こんなことを本気で言う人たちがいたのですよ、当時の東京では。
なかでも、コンパ、いわゆる合コンですね、その飲み会で同い年くらいの女性に言われた言葉は忘れられません。
「あーホント面白いね、大阪の人は」

…アホらしいから寝るわ。

さんざんはしゃいで頑張って盛り上げて、その挙句にこのセリフ。本人に悪気はないのでしょうが、わたしは深く傷つきました。
“大阪人がオモロイんちゃうねよ、オレがオモロイねよ。そいに、オレは姫路の出やがい!”
まあこれ、単に男性としての魅力不足という側面があることは否めないですが、それにしてもアレでしたよ、当時のわたしとしては…。

そんな馬鹿どもは放っておくのです。あなたには、他にやるべきことがあるはずです。


それからときが経ち、現在。
北海道は網走のクラブで…。30歳前の青年がこんなことを語り始めました。
「僕、地元はここ(網走)なんですけど、高校は京都だったんですよ」
親元から離れ、違う世界を経験してみたい。中学生にしてそう考えた彼は、しかしながら京都の高校で、一時期、誰とも話さなくなります。
「いま考えたらアレなんですけど…。当時は “オチ” をつける話ができないことがツラくて…」
京都の高校で、同級生から会話に “オチ” を求められたという彼。北海道出身の彼にそんな経験はなく、思春期の彼は思い悩み…。結果として誰とも話さないという選択をしてしまったとのことでした。
それでも話し掛けてくれる心ある友人に恵まれ、やがて彼は高校生活を楽しむようになるのですが…。

テレビと現実の境界線がわからない奴らがいるんだろ? それってヤバくね?


わたしは声を大にして言いたい。
「会話に “オチ” を求めるのは、吉本興業の社内ルールに過ぎない!」
もう一度言いますよ。
「会話に “オチ” を求めるのは、吉本がテレビ用に作った社内ルールに過ぎないから! そんなの、関西のルールでもなんでもないから!」

おまえらのルールを押し付けんなよ。…そんなことおまえらだけでやってろよ。


吉本興業所属の明石家さんまが東京のテレビ界に進出し、ダウンタウンが全国区のタレントになってから、会話に “オチ” をつけるという手法がテレビを通して全国に伝わっていきました。するとやがて、テレビ放送に都合がよいという本来の理由を汲み取れない阿呆が
「面白い会話とはそうあるべき」
というよくわからない主張をするようになりました。そして、なかにはこういうことを言う輩まで現れだしたのです。
「それ、話の “オチ” は?」

いま「それ、オチは?」っつった奴、前に出ろ。…いや、もう遅えよ。…許さねえよ。


そもそも、会話にオチなど要りません。落としどころがあってもいいでしょうが、もちろんなくても構わない。
それって、笑いを履き違えているのです。

テレビの会話、いわゆるトークで “オチ” をつけるのは、笑いが欲しいからです。笑いというのは視聴率にかかわるでしょうし、編集の際に区切りがつけやすいんでしょうな。
そして、テレビで笑いを提供するのは、基本的に芸人、職業として芸を身につけた人たちです。彼らはお笑いを提供することを生業としています。
ですから、
「おまえ不細工やな!」
「そんなわけあるかい。…ホンマや!」
が成り立つわけです(これはオールドスタイルですが)。
ちなみに、“ツッコミ”で笑うというのも単なるローカルルールが全国に広まっただけであって、日本特有のものでも関西の伝統でもありませんからね。
つまり、テレビ用の、お笑い芸人が使う話術を、普段の会話に求める輩がいるわけです。
そんなこともわからない彼らは、当然の帰結として、“オモシロくないヤツら” なんですよね。

…認めろよ。おまえは面白くない奴なんだ。ユーモアのセンスがないんだよ。


最後にもう一度言います。
「会話にオチなんて要らない。楽しければそれでよい」
もう一つ言うとしたらこれですかね。
「“オチは?” とか “~からの?” とか言うのは、ユーモアを解さない詰まらん奴やから相手にするな」
会話とは、人と人とのコミュニケーションツールであり、人と人との潤滑剤です。そこに必要なのは、相手に対する思いやりの心です。
 
…お笑い至上主義って、ホントどうにかなんないですかね?

詰まらない奴って、自分でそのことに気付いてないからタチが悪いよね(笑)

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