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10夜連続お題公募エッセイ第六夜「がらんどう」

 がらんどう、という言葉が、じつはかなり好きだ。自分自身が疲労困憊で身動き一つできない時、自分が〈がらんどう〉になっている、とよく感じる。そして、そんな〈がらんどう〉自体が生命体であるかのように、自分の意思とは裏腹に動き出す。その自分の中にいる自分以外の何かの気配。人っこ一人いるはずのない空洞に漂う気配。これを私は生命体としての〈がらんどう〉と呼んでいる。したがって、私のいう〈がらんどう〉は一般概念のそれに比して、やや動的なものである。

〈がらんどう〉は生きている。日頃はすべてこちらに委ねているように見えて、不意に空虚さに囚われたり、何もかもに投げやりな気持ちになった時に、どれどれ替われ、とでもいうようにしてここぞとばかりに〈がらんどう〉がやってくる。最近だと、締め切り前にこの〈がらんどう〉に乗っ取られることが多い。

 どういうことか。これは説明が必要だろう。要するに、私は怠惰な人間であるので、どうにも書く気力が起こらない。そうして時が刻一刻とすぎていく。やがて、時間の無駄遣いの極致で、焦りもむくりと顔を出す。それでも動けない。なぜか右手はずっとマウスに置かれ、人差し指でずっとツイッター画面をぼんやりスクロールし続けていたりする。イライラする。早く仕事に向かわねばならないのに、まだ〈私〉がいる。この〈私〉が立ちはだかっているかぎり、結局自分は小説なんて一文字も書けないのではないか、とすら思う。やがて、聴いているはずの音楽すらまったく耳に入らない状態が訪れる。画面もツイッター画面からWord画面に切り替わる。しかしその先のことがわからない。何しろ、そこに〈私〉がいないのである。そこにー〈私〉はーいませーん、と歌いたくなるくらいに、いない。そう、この時の自分は完全に〈がらんどう〉なのである。

 〈がらんどう〉は強い。圧倒的に強い。マーベルコミックのヒーローみたいに、次から次に問題を処理していく。とてもぐーたらな〈私〉にはできないことを次々とこなしていく。ついさっきまでプロットに対して編集者が入れてきた鋭いツッコミを前に「もう無理だ」「べつの企画に切り替えよう」と考えていたのが、あれよあれよと突破口を見つけていく。

 ところが、哀れにもこの〈がらんどう〉には活動のタイムリミットがある。文字通り、こいつは空洞であるので、空洞でなくなってしまうと、役に立たなくなる。たとえば、空腹に負けて何かを食べる。食べれば〈がらんどう〉は食べ物で満たされて行き場をなくし、いったん〈私〉にバトンを渡さざるを得なくなる。食べ終えた〈私〉はどうするか? 〈睡魔〉にバトンを渡す。「待ってくれ、まだ仕事が!」と〈がらんどう〉が叫んだって、私はもうバトンを回してしまった。こうなれば、〈がらんどう〉は機能できなくなる。

 そんなわけで、ウルトラマンなみに活動が制限されたマイヒーローのような存在である〈がらんどう〉。この存在を小説で表せないか、とかつて試行錯誤し、「無人飛行」という小説を書きかけてやめた。デビューよりもずっと前のことだ。どんな話か知りたい方は、noteをずっとずっとずーっと過去に遡っていただきたい。きっとその冒頭文に出会うことができるだろう。

 しかし結論から言えば、「無人飛行」はあまりうまくいかなかった。デビュー後に今度こそ、と続きを書こうとしたが、それでもダメだった。そんな作品ではあるが、その作品はじつは私の恩人でもある。

 私はデビュー前、装丁や漫画脚本、漫画家斡旋の仕事がとれないものかと方々の出版社を回り、その流れで早川書房にも足を運んでいた。そこで、「じつは昔、ミステリーズ短編賞に最終選考まで残ったことがあるんですが、結局それで落とされまして、それ以降あんまり書いてないんですが、最近ちょっとまた書いてみたんで、読んでもらえませんか。つまらなかったら、もうここで書くことはやめます」みたいなことを、営業をかけたついでに編集Yさんに言ってみた。

 Yさんはニコニコしながら「拝読します」と言ってくれた。で、数週間後、Yさんから連絡があり、「まだここで書くのをやめるのはもったいない」という言葉をもらった。それからしばらくしてYさんに長編原稿を預けた。幻想小説のような、そうでもないような代物だ。Yさんはそれも気に入り、当時の立ち上げたばかりのレーベルから出せるかも、と言ってくれた。

 ところが、編集長が読まないうちに(1年あったんだけどね)そのレーベルがつぶれてしまい、幻想めいた小説を出せる場は消えてしまった。
 それで、Yさんは言った。「代わりにはなりませんが、今度クリスティー賞っていうのができるんですよ。僕は森さんと知り合いなので送られても原稿を読めませんが、もしミステリー原稿が眠ったら送ってみてください」

 言うまでもなく、これが私のミステリー作家としてのデビュー作『黒猫の遊歩あるいは美学講義』誕生のきっかけだった。この時にクリスティー賞の存在を教えてもらえなければ、7年間もフロッピーディスクにほったらかしにしたままのデータを取り出して送ろうなんて思いつきもしなかったろう。そんなわけで、そのデビューにつながるきっかけには、「無人飛行」もほんの少しばかり寄与していたりするのである。だから、「恩人」なのだ。

 そう考えると、私の人生はもしかしたら私の人生ではなくて、〈がらんどう〉に操られている、と考えることもできるのではないだろうか。〈がらんどう〉もしくは、何でしょう、腹に棲む虫か何かなのか。まあ、何だってかまわない。どうせ私には一生見えやしないのだ。

 さてさて、〈がらんどう〉さん、『偽恋愛小説家、最後の嘘』はどんなもんでしょうね? 自信のほどはいかがですか? なんてことを考えていたらお腹が減ってきた。そろそろ夜食でも。ふふふ、そう、〈がらんどう〉、今夜は君の出番はもうすぐ終わるのだ。このエッセイも書き終えたしね。

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 新刊『偽恋愛小説家、最後の嘘』発売となりました!

「雪の女王」を題材に、真夏の凍死体、幻の遺稿争奪戦といった事象に夢宮宇多が巻き込まれる超エンタメミステリ長編です。どうぞよろしく。

今回は私のサイン本と夢センセの登場する特典小説が当たる企画があるようなので、ぜひこちらのサイトも覗いてください。

 なおこのお題公募エッセイはあと5日続きます。
タイトルもまだまだ募集中ですので(すでにご応募いただいた中からももちろん選ばせていただく予定です)、引き続き、#森晶麿エッセイタイトル、と付けて投稿してください。たくさんのご応募お待ちしております。

 

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