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2020/05/27 トライセラ「2020」を聴いて寝てみた話

こんばんは。今夜はそんなに長い話をするつもりはない。
ちょっと昨夜の奇妙な実験について、話しておきたいのだ。
その実験とはずばり「トライセラトップスの名曲『2020』をイヤホンで聴いたまま寝る」である。

まずトライセラトップス、と急に言われても、もしかしたら若い方はご存じないかも知れないので、簡単に説明する。

TRICERATOPS(トライセラトップス)は日本の3ピースロックバンドだ。メンバーはギター兼ボーカルの和田唱、ベース林幸治、ドラムス吉田佳史。1997年にデビュー後、99年に「GOING TO THE MOON」がヒットし武道館ライブも成功させている熟練バンドである。

デビューがGRAPEVINEと同期でもあり、いまだに交流があって対バンなども行なっているが、個人的にはトライセラが光でバインは闇というか、それくらい対極にあるバンドのように思う。それは彼らが、90年代にはまったく主流ではなかった「踊れるロック」を最初から志向していた、ということも関係するだろう。

2010年頃、気が付けばロック界は4つ打ちのディスコ的リズムが主流になっていたが、それよりも10年以上前からずっと四つ打ちロックをやっていたのがトライセラだった。じつを言うと私はずっと彼らのファンだったわけではなかった。初期のアルバムを数枚聞きかじった後は、むしろ追うのをやめていた期間が長かったのだ。

それが、2014年にたまたまアルバム『SONGS FOR THE STARLIGHT』を聴いてその音圧に驚いた。全体に骨太なサウンドでありながら、以前以上にPOPにきらきらしたサウンドを奏でている。デビューからこの時点で15年以上経過していたことを考えるとこれは驚くべきことだ。

ふつう10年以上経つと、まあそこそこいい音を聴かせてくれることは期待しつつも、大きく衝撃を受けるようなことはまずないのだが、このバンドは違った。じつはそれより数年前に自分はGRAPEVINEに対してもちょっとのブランクを挟んで大衝撃を受けたのだが、それとはまたちょっと違ったヴィヴィッドな驚きがその体験にはあった。

以来、トライセラは一通り聴きあさり、彼らのバンドとしての紆余曲折なんかもあれこれ後追いで調べたりした。そして、彼らの2002年の楽曲「2020」という楽曲に、妙に心惹かれるものを感じた。

この楽曲がどういう背景でつくられたのか詳しくは知らないが、おそらくはバンドのターニングポイントに作られたんじゃないかと想像する。それくらいそれまでのアルバムの激しく明るい曲調とはちがう。ポリスっぽい淡々としたアレンジで、静かに歌い上げる感じは、同じバラード調でも「if」より大人な感じがする。

そして、聞き込むうちにいろいろすごいんだけどやっぱり歌詞が何ともすごいなあと思った。GRAPEVINEと並んで90年代から現代までのロックシーンを牽引してきた彼らが2020年、東京オリンピックがあるはずだった年に武道館ライブをもう一度やり、その舞台でこの歌を歌ってくれるのではないか。

ブランクのあるファンながら、自分のなかに何となくこんな青写真ができあがった。とくに一昨年から、メンバーがみんなソロ活動に入ってトライセラとしての活動を休止させているので余計に再始動が愉しみだった。

ところが、ご存じの自粛期間に突入し、東京五輪も今年の開催はなくなった。ライブハウスもどこも相変わらず自粛を強いられている。こういうなかでは、どうも今年はトライセラの今年の武道館は難しいかな……こう思ったときに、自分のなかで「2020」という曲が何とも言えず哀愁を帯びて胸のどこかにくすぶるようになった。

そして昨夜、本当にふと思い立って「2020」を聴いたまま眠った。思いがけないほど圧倒的な映像が広がった。夢を見ながら、これは自分の中から出てくる夢ではないな、とすぐに気づいたくらい、それはあまりに美しく、映画のように完成されていた。

夢のはじまりは東京の街並みだった。私の視線は歩く男女の後ろ姿を追っていた。日韓共同のワールドカップが終わったあたりだろうか。とにかくざわざわと落ち着かない、どこか穏やかさと凶暴さが複雑に混じったような街並みだ。よく見知った渋谷かどこかの雑踏にも思えるが、明確にどことは言えない感じだ。そこに若い男女がいる。

二人は楽しそうに冗談なんかを言い合って歩きながら、2020年の自分たちを想像しているらしいが、その二人というのが実際の二人とはだいぶ外見が異なっている。単に年をとっているというより別人になっているのだ。

そしてふいに場面が切り替わり、実際の2020年の「二人」が映る。男はどこかでサラリーマンをしており家には家庭があるがそれはいま隣を歩いてる彼女とは違う。次に女の2020年が映る。やはり女はべつの場所にいて、洗濯物を畳みながら赤ん坊のハイハイするのを眺めている。もちろん、一緒にいた男との子ではあるまい。

また場面は切り替わる。2020年とは名ばかりの近未来都市を歩く若い男女。だが、どこか人工的な容姿をしている。二人はしじゅう笑い合っているが、よく聴くととくに何を語らっているわけでもない。

私は思った。これはもしかしたら二人のアバターかも知れない。

アバターの《君》とアバターの《僕》が「2020年」という仮想空間の街並みを歩いている。けれど現実の《君》と《僕》はたぶんぜんぜん違う人生を歩いている。二人が共に歩くことはなく、もしかしたら互いのことを思い出すこともないかもしれない。

ところが、そのように考えればその仮想空間「2020年」の光景は虚無感に溢れているはずなのに、そこにははっきりと静かな幸福が刻まれてもいる。アバターの《君》と《僕》の幸福は現実の二人の人生とはまったく無縁であるにも拘らず、そこにある幸福な光景がなぜか嘘なわけでもない、という妙な感覚。

そして再び時間が巻き戻り東京の雑踏を歩く若い二人の男女。彼らはこの先に待ち受ける未来のことなど何も知りもせず、「2020年の夜明けに映るぼくらどんなだろう」と考えている。

目が覚めたのは朝の5時50分くらいだった。なぜか何とも言えない虚脱感がある。まるでひとつ大きな出会いと別れを終えたみたいな感覚だ。前の晩に、スーパーシティー法案が通過しそうな予感や、芸能人の死を都合のいい口実にしてのネット発信者特定への制度改正など言論統制へつながりそうな動き。そういったものが何もかもがうやむやのまま、緊急事態宣言が解除されみんな忙しい日常に戻っていく。そうして怒りも悔しさも忘れ去って日常に溺れていくのに違いない、というようなことをぼんやり思っていたはずが、見た夢はあるカップルの出会いとその何十年後かの「2020」という未来を歩くアバターの夢だった。

この歌を作った当時の和田唱はまだ27歳。なぜ彼がそこから18年も先のことを想像したのかはわからない。だが、自分ひとりの人生を振り返っても、2002年から2020年というのは激動の18年間だった。とても2002年の段階で2020年の今なんて想像がつかないし、それは誰でもそうだ。ただ、そこで和田が「生まれた時から建っていたビルは跡形もなく無くなってしまった」と歌うように、18年というのは思い出の場所が消えてしまうくらいの十分な年月なのだ。

そんな年月のなかで、人間の《約束》が消えてしまわないわけがない。それでも、ファンタジーと知りつつ和田は「でも大丈夫さ、誰も壊せないものがここに一つだけ」と言う。

これは紛れもなくファンタジーだ。けれど、「共に生きる」とは何だろうか、とも思う。自分が夢でみた男女は果たして本当にばらばらの人生を送ったのだろうか? それはそうだろう。それぞれの人生を充足させ、それぞれのパートナーを喜ばせ、それぞれの幸福を追求していく。けれど一方でアバターの《君》と《僕》の姿にも嘘がないようだった。

そこで二人の共通項に思い至る。それはどちらもが「忘れる」ということと、「今に懸命になる」ということを選んだことだ。これはこの二人だけにできる共同作業だったのではないか、という気がする。これはもちろんトライセラの歌詞から離れた、自分の夢のなかの男女のことなのでどう思おうと自分の勝手ではあるのだが、しかし、その二人がトライセラの「2020」という歌から飛び出した男女であるのも、たぶん間違いないのだ。そして、たぶんいまこの2020年に聴かなかったら、この男女は登場しなかったのかも知れない。

このリモート期間を皆さんはどう過ごしただろうか。人によっては特に今までと変わらないという人もいるだろうし、今までのほうがよかったと言う人もいれば、もう以前のようには戻れないくらいリモートワークに慣れてしまった人もいるだろう。

しかし我々は雑草のようにたくましく、いずれはすべてを忘れて何事もなかったように日常に戻っていく。コロナ禍という傷跡は確実に、深刻に残るが、それでも前を向いていくだろう。

「2020」のなかで「でも君がいてここまで来れた。進まなきゃ意味がないのさ、これより先へ」という歌詞がある。たぶんそうなんだ。一時的に悔しさや怒りを共有した「我々」は、またここからべつべつの暮らしへ戻っていくのだ。進まなくては意味がないから。

そこはこれまで同様、嘘とごまかしにまみれて、誰も謝らない悪夢のような世界かもしれない。だとしても「僕ら」は歩いていく。そこにいる「僕ら」はアバターであって、実際にはそんなものはとっくに消えてしまいべつべつの人生に埋没していくのであるが、しかしもしかしたら、「共に歩く」とは「共に忘れる」とか「共に奥底にしまいこんでどこにしまいこんだかわからなくなる」ことと、どこかでは同じ意味だったりするのかもしれない。

最近よく思うのだ。シェイクスピアが『マクベス』のなかで「きれいはきたない、きたないはきれい」という台詞を書いているが、「覚えているは忘れる。忘れるは覚えてる」かも知れないな、と。

この2020年という年は、2040年にはどんなふうに見えるだろうか。そこにいる《君》と《僕》を想像してみるときの虚しさとかすかな切なさは、やはりトライセラの「2020」にもたらされたものだろうな、と思ったりした。

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