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失われた薄い名作を求めて 第1回「読者に〈物語〉を探させる怪作『鏡よ、鏡』」

 今月から毎月一冊、最近忘れ去られているかもしれない名作(薄め)を紹介していこうと思います。入手のしやすさしにくさをあまり考えずに、ひとまずは厚さだけを基準に、好きなものを語っておりますので、「探したけど見つかりません!」とかはむしろ書店さんを通じて、または出版社に直接かけあってください。もしも絶版状態であれば、そうした読者の皆様の声の一つ一つが復刊につながる可能性もなくはありません。

 さて今夜は、知っている人は当然知っているけれど、知らない人は知らない(当たり前)スタンリイ・エリン著/稲葉明雄訳の『鏡よ、鏡』(ハヤカワ文庫)を語っていきます。

 この本に私が出会ったのは大学浪人中のこと。きっかけはたしか『このミス』の中で若竹七海さんの旦那様でもある小山正さんがバカミスのコーナーで紹介していたから。〈バカミス〉の提唱者である(たぶん)小山正さんが紹介するのだから、本作はたしかにある意味では〈バカミス〉ではあろう。

 ただこの〈バカミス〉という言葉も、最近ではあまり定義自体が曖昧になってきた感がある。私が理解している範囲で言えば、「あまりに馬鹿げた試みを、大真面目にとてつもない労力をかけて作り上げたミステリ」だろうか。

 しかしその大真面目な馬鹿というのも、本格トリックからハードボイルドまで多様であって、たとえば今でもバカミスと言えば名があがる蘇部健一『六枚のとんかつ』みたいなものはもとより、ブコウスキーの『パルプ』なんかもバカミスに入れていいと思う。「よくこんなものを書いたね」と呆れとともに感動がくるようなものは、ロジカルだろうがそうでなかろうがバカミスに括っていいんじゃないかな、と。

 とまあ、いつまでもバカミスの話をしていても仕方ないんですが、とにかく私が本書を知ったのは〈バカミスの一冊〉としてだった。しかし、後にスタンリイ・エリンという作家の全体像を知っていくにつれ、それが小山さんがより多くの読者のために設けた入口の一つにすぎないことも理解した。

 たしかに本書は「衝撃は衝撃だがなんじゃこりゃ…!」と叫びたくなる一冊であり、しかもそのための伏線が丁寧に張り巡らされているあたり完全にバカミスなのだが、同時にきわめてスタンリイ・エリンらしい名品でもあるのだ。

 と、ここでエリンについて少し。スタンリイ・エリンといえば誰もが『特別料理』(ハヤカワ文庫)を思い浮かべるだろう。「特別料理」については、日本人作家によるオマージュ作品などもあってけっこう認知度が高い。ちなみに、私はデビュー後すぐに書店巡りをしながら早川書房の営業さんに「『特別料理』文庫にしないんですか?」とそれとなくごり押ししたりしていて、その甲斐あってか文庫化された際には解説を担当させていただいたりもしている。私のエリン観についてはそちらを参照されたい。

 『特別料理』は〈奇妙な味〉の短編集の代表作で、ロアルド・ダールの『あなたに似た人』が西の横綱、『特別料理』が東の横綱などと言われるほど有名だが、そのせいかエリンには長編作家の印象が薄い。

 たしかに三冊ある短編集はどれも高く評価されているのに、長編は今やほとんどが入手困難な状況にある。じゃあそれらは評価が高くなかったのかというと、とんでもない。いずれも吸引力抜群の傑作ばかりである。そのすべてを今夜紹介しよう、なんて気にもなるくらいだがここでは差し控えるとして、とにかくまずは本書『鏡よ、鏡』を根性をだして書店をめぐり、古書店をめぐり、出版社に電話をかけ、などあれこれ駆使して手に入れていただきたい。それだけの価値はある作品である。

 言うなれば、〈奇妙な味〉の作家を代表する長編であり、〈奇妙な味〉と〈バカミス〉の稀有な交点でもある。
 
 とはいえ……「ああ面白かった!」とか「読みだしたら止まらない…」と言えるのかというと、ちょっとこれはまた複雑だ。ある意味では本書は非常に読む人を選ぶ。だから、これだけ言っておいてあれなのだが、読んでみて「ええ…? 森さんこれをそんな勢いで勧めたんですか?」なんて言われても、私は平然と「知らんがな」と言うかもしれない。

 ためしに、本書を読んでいける人間かどうかを試すには、そうですね、デヴィッド・リンチの作品を二、三本、サブスクなどで漁ってみるといいかもしれません。『マルホランド・ドライブ』でもいいし『ロスト・ハイウェイ』でもいい。ああいったものを最後まで見通したときに首をひねって終わるタイプでなければ、おそらくは本書を読む資格もあるでしょう。

 簡単にあらすじを書くと、ざっと以下のような感じだ。
 ある日、主人公のピーターは自宅浴室で見知らぬ女の射殺死体を発見する。だが、女が誰なのかピーターにはわからない。この女は何者で、自分とはどんな関係があるのか? 会社に残されていたおかしなメモの意味も謎めいている。死体のことを息子のニックには知られたくない。
 精神分析医に精神分析をされていたはずが、身内だらけの陪審員を前に、奇妙な裁判を受けることになり…? 
 
 読み進めるうちに、これは現実の出来事なのか? との疑問がすぐにわく。そして、そのとおりこれは主人公ピーターの精神世界の会話劇なのである。だからその内容の大半はピーターの内面で進んでいくし、だからなんでこいつがここで出てくるんだ? なんて展開もあり、時空も過去や現在を自在に行き来する。読みやすいか読みにくいかで言うと、んんどうなんだろう、200頁ちょいなので、読みにくかろうが読みやすかろうが、それほどの苦痛は感じないかもしれない。

 だが、とにかく最後の数ページに辿り着くやそんなことはすべてどうでもよくなる。迷宮の中をさんざん歩かされた末に、それらがすべてきれいに整った小さな一室であることに気付かされるような、譬えるならそんな衝撃に襲われる。この残り数頁の眩暈のためだけに、読む価値がある作品である。

 原書では後半が袋とじにされ、返金保証までされていた。その売り出し方が正しいかどうかはわからない。あまりにも特異な構成、特異な衝撃だから。

 昨今では、本の帯に「衝撃のラスト」とか「ラスト一行のどんでん返し」なんて言葉がよく踊っていて、それが売れてもいるので、そういった流れで本書にもう一度火がつくことも、もしかしたらあるかな、とも思っている。ただ、それでも何割かの読者は読み終えて「何を読まされたんだ?」と茫然とするかもしれないな、と思う。だから、私としては本書を「最後の衝撃がすごいから読んで!」みたいに、ラスト数頁の衝撃に全振りしておススメしたいとも思わないのだ。

 衝撃に重きを置きすぎても、結局本書の魅力のすべてを語りきることはできない。伏線の巧みさ、題材の秀逸さ、もちろんそれもそうだ。だが、しかしやはり、それがあのエリン特有の「ぎとぎとした文体」で語られていることのほうがより重要なのではないかな、という気がする。そもそも本書にストーリーというものがあるのかどうか。だが、結末とそれに至る伏線とを読み解くとき、そこにたしかに一つの一切無駄のない悲劇/喜劇が立ち上がる。そのようにして、読者たちがミステリの仕掛けと真相を通じて、自ら脳内にストーリーを構築していく、その際にその脳内でエリンの「ぎとぎとした文体」が作用する、というところこそが本書の真の魅力なのではないだろうか。

 最近の読書感想では、「主人公に感情移入できない」「この作品にはドラマがない」などといった言葉がよく見られる。だが、ことミステリに関して言えば、じつは作中人物への感情移入はミスリード以外の目的ではあってもなくてもいいし、ドラマというのも邪魔といえば邪魔である。

『容疑者Xの献身』というたいへん有名すぎる作品がある。私があの作品をすごいと思うのは、べつにトリックがすごいからではなくて、ほとんど真相と伏線のみによって、読者の脳内にドラマが立ち上がるからだ。小説の力ではなく、技巧によってドラマが立ち上がる、というのはミステリでは非常に重要なことなのだ。

 と、脱線したが、くれぐれも『鏡よ、鏡』が『容疑者X~』のような感動をもたらすという意味ではないので、そこは誤解しないでいただきたい。間違いなく「泣ける」ということはない。そこはむしろ保証する。だが、文体の力とか小説それ自体の力がアシスタントに留まり、ミステリの技巧によって物語が立ち上がる、という意味では同じ土俵にある、ともいえる。
 そういう作品は、じつはそれほど多くはない。そして、だからこそこの『鏡よ、鏡』は今こそ誠実に、新たな着眼点で読み解かれたい小説だと言える。

 ここ数年、世界は無秩序で混沌としてきている。こういう時代に、読者はただ提示されるストーリーを受け取る存在であるだけでなく、真相とそれに至る仕掛けから、自らストーリーを組み立てて、物語に出会うという存在にシフトしてもいいんではないか、なんてことをぼんやり考えながら、今夜のお話はこれでおしまいとしたい。『鏡よ、鏡』、すごい作品ですよ。ぜひ探してみてください。では。

 

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