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即興幻想掌説「コンクリートに滲むのは」

 私が現在のようになったのは、日差しの強烈な夏のある朝のことでございました。もう夏休みに入って幾日か経った頃です。蝉がうるさく鳴いていたのをよく覚えています。

 蝉というのは、明け方五時半ごろからはもう活動を始めるのですね。闇が醸すなけなしの涼しさが遠のいて、蝉の声が蒸し暑さを連れて蚊帳の中に押し寄せてくる気配で目覚めたのです。

 かといって眠いのは眠いので、ただだらだらと扇風機のぬるい風だけを生きる糧と心得てじっとベッドの上で体を横たえていたのでした。そうしていると、蝉の声がうっとうしいシャワーのように降り注いできます。まるで、この世界には蝉以外は存在しないとでもいうかのように。その大合唱が、私の存在を無にしてしまいそうで怖くなるのです。

 そんなわけですから、ドアの向こうから「渚起きなさい」と言われたとき、すぐにはそれが人の声だと思えなかったのです。何か、不快な音を発する別種の生き物の鳴き声のように思えたのですね。「ナギサオキナサイ」。ずいぶん汚い声の生き物だわ、などと私は思ったものでした。

 しかしじっとしていると、その生き物はしつこく繰り返します。ナギサオキナサイ、ナギサオキナサイ、ナギサ、ネエナギサ、キイテルノ、イイカゲンニシナサイ、ナギサ、ナギサ……うるさいなぁ、と思うのと同時に、ほかの生き物とちがってそれは家の内側にいるのか、という嫌な気づきがありました。

 そいつはドアの向こうにいて、ドアを叩いたりもたりもしています。かなり獰猛な生き物に違いない、そんなことを、まだ少し芯のあたりがぼんやりした頭で考えているのですね。しかし、少し経って、ああそうか、ここは家で、ということはドアの向こうにいるのは母じゃないか、と気づきました。

 私だって莫迦じゃありません。そりゃあいつまでも夢うつつの区別もなく体を横たえてばかりはいません。身を起こしてドアを開けました。けれど、不思議なのですが、そこにいるのは一匹の大きな蝉なのです。あの焦げ茶色の、いかにも固く、当たれば痛そうな体をもった蝉です。
 
 蝉は「マッタクナンカイサケバセルキナノ、コノコハ!」と叫んでいます。私はすぐに気づきました。これは昨夜カフカの「変身」を読んで寝たものだから、その影響を受けて寝ぼけた脳が変なものを見せているのだわ、と。蝉に見えるけれど、これは母に違いありません。

 私は蝉に従って階下に降りると、蝉の作った朝食を食べることにしました。ところが朝食の様子もなんだかいつもと違います。いつもどおりパンが皿に置かれているのですが、そこにはバターやハチミツではなくて、樹液が塗られているのです。

 メープルシロップかと思いましたが、それよりずっと渋くて嫌な味がします。まるで自分が甲虫にでもなってしまったような気分になります。「イツマデネボケテイルノ、アナタキョウハブカツデショウ」

 ブカツ……部活か。やはり、見た目は蝉であっても、母は母なようで、私が今日は部活に行く日だと教えてくれているわけです。蝉ではあってもありがたいのはありがたい。

 と、そこでふと正面に誰かいるな、と気づきました。それは父の席でしたが、やはりいるのは蝉でした。しかもその蝉は微動だにしません。私はふだんから父とはほとんど会話しないので、見なかったことにしました。父が死んだ蝉か、生きた蝉かなんて私にはどだい興味のないことだからです。

 朝食を終えると、私は自室に戻って着替えを始めました。支度を済ませると、玄関に向かいます。すると、そこで蝉がゴミ袋を引きずってやってきます。

「コレ、イキニステテイッテ」
 どうやら燃えるゴミを行きに捨てていけということのようです。私はゴミ捨てはあまり好きではありません。とくに燃えるゴミというやつが大嫌いなのです。なぜって、燃えるゴミは燃えないゴミと違ってとても匂うから。

 しかし私はしぶしぶそれを受け取ると、ドアを開けました。いっせいに体を突き刺すように蝉の声が降り注いできます。家の蝉とはちがって、小さな蝉たちが大合唱を浴びせ、私の歩く足音に驚いて飛び立ったり、慌てすぎて私の肩にぶつかってきたりします。嫌だな、と私は思いました。

 それでもどうにか燃えるゴミをもって橋の上のあたりまでやってきました。指がちぎれそうに痛くなったので、そこでいったんゴミ袋を下ろすことにしました。もうこれだけの移動ですでに汗びっしょりです。学校に着くころにはシャワーが必要なほど汗まみれになっていることでしょう。

 コンクリートにひた、ひた、と何かが垂れています。どうやら私の汗のようです。しかし、次の瞬間、ひた、ひた、ひた、とにじんでいくそれは、あっという間に大きくなって、人の形になったのです。

 なんと、それは私の影の形をしているではありませんか。まったくどうしたわけでしょう。私はそれを不思議に思いながら、またゴミ袋をもって歩きだそうとしました。しかし、すぐに違和感を抱きました。腕はさっきよりラクです。足だって快調なものですが、そんなことより私の体がまるでぬるい風に押されるようにずずずっと進んでいるばかりで、橋の上にゴミ袋を置きっぱなしにしているではありませんか。

 しかも、私自身は進んでいるのに、私の影が見当たりません。振り返り、驚きました。橋の上に、コンクリートに滲んだ影がそのままあるのです。
 慌ててもとの場所に戻ろうとしたところで、部活の木下先輩がちょうどやってきました。木下先輩は、みんなの憧れの存在です。「どうしたんだ? 渚、早く行かないと遅刻するぞ?」

 木下先輩はそんなことを涼し気に言います。きっと汗だってほとんどかかないにちがいありません。木下先輩の白い肌は太陽の光さえも跳ね返してしまえるのでしょう。けれど、木下先輩は私が動こうとしないので、急に意地悪な顔になって言いました。「なんだい、そんな抜け殻にでもなったような顔をして」。

 その言葉が、あまりに恐ろしくて、私はしばし茫然としてしまいました。抜け殻にでもなったような……。その言葉をなぞるように、またぬるい風が吹きました。すると私の体は何の抵抗も示さずに、ずずずずずっと木下先輩の厚い胸板にぶつかりました。木下先輩は私の体を支えてくれました。

「今日の渚はなんだか変だな。やけに軽いし」
しかし、それに応えることもできません。私はもはやただそこに立ち尽くしている抜け殻同然だったのです。

 先輩、ここから逃げてください。
 そう伝えたいのに、ちっとも声が出てきません。ああ、そうこうしているうちに、どうでしょう。コンクリートに滲んだ私の影から、何かが、もじゅらもじゅらと動き出しているではありませんか。

 もじゅら、もじゅらと動くそれは、羽化したばかりの緑がかった白い巨大な虫でした。きっと数時間もすれば立派に巨大な蝉になることでしょう。

 ようやく木下先輩は大きなそれに気づきました。
「うわ! 気持ち悪いなぁ」
 そう言ってそれを踏みつぶしました。

 木下先輩は、本当に虫が嫌いらしく、一度踏むだけでは気が済まなくて何回も踏みつけています。羽化したてのそれは、つぶれて形を失い、体液をコンクリートに流して息も絶え絶えです。

 私にはもとよりそいつを助ける義理はないわけですが、妙なものです、こうしてここに私が存在しているにも拘らず、もしかしたらそっちの気色のわるい蝉こそが私なのではないか、という気がしてならないのです。

 そして、そうだとしたら、たった今それは木下先輩によって殺されたということになるのではないか。そんなことを思うと、吐き気がしそうでした。しかし、実際には吐き気を感じることすら私にはもはや許されていなかったのです。

 木下先輩は、やがて踏みつけるのに飽きると、汗を拭きました。よかった、木下先輩でも汗はかくんだ、と私は思いました。それから、木下先輩は私のほうを向き直りました。そして私の頬をそっと撫でました。

「渚、君を持って帰るよ」

 それは半ば独り言でした。木下先輩は鞄からビニールを取り出すと、それを私の頭にかぶせました。真っ白な世界が私を覆います。その真っ白な世界が頭から足へ向けて一気に圧力をかけてきました。私の体は何の抵抗もなく、そのささやかな圧力にあっけなく押しつぶされて粉々になりました。しかし、ビニールの紐が完全に縛られてしまう間際、私は木下先輩の額から汗がコンクリートにひたっと落ちるのを見ました。

 もうすぐだわ。あの雫はきっと大きくにじんで人の形になる。

 もうすぐ木下先輩もこっち側になる。そうしたら、いつかどこかで、私たちは一つになれるのかもしれない。そんな幻想をあざ笑うように、ビニール越しの陽光がぼんやりと私を熱していました。

 こうして、私はここへやってきたのです。ここはずいぶん薬の匂いがしますね。木下先輩のおばあちゃんの抽斗の中なのですが、いえ、私がここでこうしてあなたに話しかけているのは、あなたが木下先輩によく似た娘さんだからです。きっと妹さんなのでしょうね。私はこの家の漢方薬になりました。

 でもごらんなさい。この家にはもうあなたしかいない。飛び交っている蝉たちのほかは。きっと世界はこんなふうにどんどん蝉ばかりになっていくのでしょうね。

 昔から、夏のたびに不思議に思っていたのです。この世界には蝉しかいないのではないか。そう感じるくらい、蝉の音に染められてしまうじゃないですか。ねえ、ですから、あなたもいずれは蝉になるのですよ。ほら、あそこでじたばたと飛んでいる、あなたのお兄さんのように。
 

 

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