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青春掌篇「永い蜜」

ある秋の、月の明るい晩に、僕と結衣はR村で2ダースほどの殺戮をおこなった。避けられないことで、しかしもう二度と思い出したくもないことでもあった。

村人の顔は八割以上は覚えていない。だいたい、殺される直前の表情というのはみんな似通っているし、それに僕らにとってはちょっとした薪をくべるような作業にすぎなかったのだから。

2ダース分の殺戮を終えたあと、結衣は僕にこう言った。
「私たちは罪深い。でも、逆さ吊りにしてるわけだし、罪も蜜よね」
そのとおり、僕らは24人分の死体を逆さ吊りにして、その血をタンクにため込んだ。

罪深いが、逆さ吊りにしたから、「罪」は「蜜」に変わるわけだ。

「くだらない」と僕は鼻で笑った。本当のことをいえば、腹が立っていた。

数日前、冬の間の食糧が必要よ、と結衣が言いだした。僕としては、禁断症状が出てからでも遅くはない、という考えだったが、彼女は「それこそが危険な考えよ」と譲らなかった。

せっかく村人と仲良くなったところなのに。

当初は、村人の警戒心を解くことが狙いだった。五年くらいかけて、村人の中からあまり好ましくない人物をセレクトして、少しずつ「搾って」いく予定だったのだ。

僕らはよくいる友好的な新参者を演じ、村人たちの多くはそんな僕たちに心を許してくれた。

それが、急にあの晩、結衣は計画を変更したのだ。

結衣の言い分は至ってシンプルだった。
「飢えから自分自身を解放しましょう。飢えから自由でないかぎり、発想が貧困になっていくの。心に余裕がなくなるのよ。だから私たちはもう飢えと無縁な環境を作り出す時期なの」

もっともな考えではある。飢えを覚えれば、つねに目前の空腹を解決することばかり考えていなければならず、想像力豊かな選択などできるわけがない。

たとえば、南の島で優雅に始められるビジネスのためのチケットがあっても、飢えに瀕していれば、徒歩五分の家に住む住人を逆さ吊りにするほうを選んでしまう。そういうことだ。それはたしかに莫迦げている。

「備えあれば憂いなし。そうでしょ?」
そんな口車に乗せられて、僕らは24人の村人の命をたった一晩で奪った。

間違っているかどうかなんて考える暇もなかった。もはや決められたワークだったわけだから。機械的にこなし、何も考えない。

なかの数名とは酒を酌み交わし、友情さえ芽生えていたのに。しかし殺戮のうえでは、そういった感傷のスイッチは切った状態で臨んだ。感傷に耽ったまま殺戮を繰り広げられるほど、僕は異常ではなかった、ともいえる。

最後の一人は、恋人だった。僕はその子のことが好きで、その子も僕のことが好きだった。高校時代の同級生と少し似ていたのだ。

けれど、結衣はそれを許さなかった。人間に恋をするなんて私たちにとって何のメリットもないわよ、と結衣は僕を諭した。

僕は「わかってるさ、これは村人の警戒心を解くための演技なんだ」と話した。真っ赤な嘘だった。僕はその子を愛し始めていた。その子と触れ合う時、結衣と闇を生きるのとは違った胸の高揚があった。

もしかしたら、僕にはこの子と生きる道があるのではないか。そんなことさえ、ひそかに夢想しはじめていた。わかっていた。それが甘すぎる想像であることは。いずれ、思い知ることになる。だが、僕の想像では、それはずっと先の未来であるはずだった。

結衣があんなことを思いつきさえしなければ。

23人の村人を殺し終えると、結衣は満足そうにうなずいた。彼女の顔は、村人の血で真っ赤だったし、僕の顔も似たようなものだった。

僕らは小学校の体育館を貸し切って、そこで死体から血を搾っていたのだが、いざ引き上げようというタイミングで足音がした。

恋人だった。彼女は僕の名前を呼び、それからがたがたと震えた。僕がちょうど吊るしたのが、彼女の兄の死体だったものだから。なんだか、とても申し訳ない気持ちになった。僕だって彼を殺したくはなかった。だけど、結衣は「酒場にいる連中はもれなく」と言った。

酒場の男たちの血は、血中にアルコールが含有されており、その分独特の風味を醸す。それが、結衣の好物だったのだ。

僕は恋人を抱き寄せ、怖がらなくてもいいんだ、と話した。もう終わったこと、もう終わったことだから、と。彼女は僕の胸を激しく拳でぶったけれど、強く抱きしめているとやがてそれも収まり、嗚咽をもらした。

「仕方なかったんだ。生きていくために」
「……教えて……あなたは何者なの?」
「僕は……」

何者なんだろうか? 幼い頃から、それをずっと考えている。周りの誰ともちがって、周りの子たちが好きな食べ物を食べると必ず吐いてしまった。受け付けるのは、生き物の血液だけ。ときどき校舎の鶏を殺したり、近所の犬や猫を殺したりしていた。

いつも自分が恥ずかしくて、いやで仕方なかった。なんでみんなと違うんだろう。なんでこんな秘密を抱えながら生きなくてはならないんだろう。結衣と出会うまでは、そうやってこそこそと罪悪感を抱きながらどうにか生きてきた。

「僕は……ガラクタだよ」
そう言った。彼女はその言葉をなぞるように、唇を動かしかけた。

ただ、その途中で彼女の顔は僕を見つめたまま宙を舞い、天井近くまで上がると、回転をしながらころりと床に落ちた。

結衣は首の消えた恋人の体を蹴って転がし、足を持ち上げてロープをかけた。吊るされると、恋人のスカートは逆さになって胴体を隠し、形のよい脚が露わになった。

結衣は、その死体の真下にバケツを置いた。勢いよく、バケツめがけて血液が流れた。いろんな約束をかわし、何度も抱擁した体のぬくもりを保っていた赤い液体は、見ず知らずの冷たいバケツの中へと移されて戸惑っているようにみえた。

「これは、あなたが飲んだらいいよ。私の好みじゃないし」
結衣はそう言ってあくびをした。許せなかった。たしかに、飢えに備えることは重要だったし、その現場を見られた以上、ほかに選択肢はなかった。だけど、そう簡単に自分を納得させることはできなかった。

僕らはその冬を、予定どおり優雅に過ごした。

その間に、結衣はいくつかの資格をとり、僕は僕でありあまる時間のなかで小説を執筆し、出版社に持ち込んだ。

結衣は看護師の資格をとった。
「これでいつでも血液が採り放題。まあ、そのためには労働をしなければならないけど、永遠に飢えから解放されると考えれば大した問題じゃないわね」

僕はただ黙ってその言葉を聞いていた。
彼女の言う「永遠」が、もはや僕にはそれほど素晴らしいものには思えなかった。

僕は毎日、原稿のなかで恋人の在りし日の姿を求め続けていた。あるときには、うまく恋人を思い出すことができた。でもまたあるときには、まったく思い出せなかった。

ときどき、結衣は僕の体を求めた。僕たちはふつうの人たちみたいなセックスはしないけれど、僕たちなりのやり方で体を求めることはある。ただ、どうしても気乗りがしなかった。自分が本当に結ばれるべきは、あの恋人だったのだ、という感覚が、亡霊のようにまとわりついて離れない。

「ふん、だるいよ、あっちへ行って」
結衣は冷めた態度の僕を、なかば突き飛ばすようにしてベッドから離れた。寒い冬の夜だったけれど、彼女は一糸まとわぬ状態で、冷蔵庫から新しいボトルを出した。それが、恋人の血液が入ったボトルであることは、ラベルの色からわかった。

彼女はそれをキッチンのシンクに流し始めた。

「何してるんだ? よせよ!」
「あなたは自分が嫌いなんでしょ? ガラクタだから。だったら飢えなさい。飢えと戦いながら、みじめな自分を蔑んで、人間に恋をしたらいい」

僕は結衣の手からボトルを奪い取ったが、もうすでにボトルは空だった。

翌朝、出版社から連絡があった。僕の原稿に興味がある。ついては、一度喫茶店で会いたい、ということだった。僕は指定されたS街の喫茶店に向かった。そこにいたのは、眼鏡をかけた痩身の、色白の男だった。

「編集の車崎です。あなたの原稿はとても面白かった。ただ、一つだけ気になることがありまして……」
車崎はそう言いながら、僕の前に突然、真っ赤な液体の入ったペットボトルを置いた。思わず手を伸ばしたくなるのを、ぐっとこらえた。ただ、お腹は素直だ。ぐう、と音を立ててしまった。

「やはりそうでしたか。原稿の描写から、もしかしたら、と思ったんです。ご安心ください。僕もあなたと同じタイプなんですよ」
「え……?」
「ただ、いまの原稿だと、そのことが露呈します。ありていに言えば、人間の体内に流れる血潮への執着が、そこかしこに感じられるのです。たいへん耽美な作品ですが、そこの部分が、いささか度を越している。これから、その部分を少し改変する作業を一緒にしていきませんか?」

「……つまり、原稿を手直しするってことですね?」
「ええ。商業作品とするための作業です。もしも、この作業が成功すれば、あなたはプロの作家になれる。その場合、僕は原稿料のほかに、あなたが何不自由なく暮らせるように、これを手配します」
そう言って、彼はペットボトルを軽く振ってみせた。

その日のうちに、僕はS街の喫茶店の近くのアパートを借りた。それから、警察に連絡した。
「R村の殺戮について、お話したいことが。じつは現場から逃亡した女が、べつの街で暮らしているのを見かけたのです。場所は……」

電話を切ると、息が上がっていた。結衣が警察に捕まることはあるまい。牢獄で生きるとは、すなわち死を意味している。その前に結衣は自分で命を絶つか、あるいは警官に襲い掛かって殺されるかするだろう。それですべて終わりだ。

それから僕は原稿の修正に取り掛かった。たしかに読み返すと、血へのフェティシズムに満ち満ちていた。「太陽が、彼女の薄い皮膚の内側で燃え滾る血潮を美しく照らし出した」なんて一文は、とくに危険だとも思った。

翌朝、新聞もテレビも結衣のニュースで持ち切りだった。彼女は警察に包囲されて大暴れし、一斉に銃弾を浴びて死亡したようだった。そのニュースを見ながら、僕は結衣との出会いの日のことを思い出していた。

それはまだ雪のかすかに残る春先のことだった。僕の通っていた学校の校区のはずれにある山林の麓で、僕は一羽の鳩を捕まえ、その生き血を吸っていた。生まれた時から、動物の血ばかり吸ってきた僕にとっては当たり前の行動だった。

だが、それを木陰から見ていた、よその制服を着た子が僕の前にやってきてボトルを渡してきたのだ。それが、結衣だった。

「そんな不味いもんばかり口にして、一体何のために生きてるの?」
生きてるんだもの、楽しまなきゃ、いい思いをしなくちゃ。彼女はそう言って微笑んだ。

そう──あの時の僕にとって、間違いなく結衣は救いの女神だった。

あの時の僕にとっては──。

僕はテレビを消した。感傷は終わりだ。

それからまた原稿の修正に取り掛かった。

作家としてデビューしたのはその三か月後のことだった。デビュー作は飛ぶように売れた。車崎は「これであなたは当面は安泰です」と言った。

「当面」か。だが、「永遠」よりよほど信用ができる。

その後の打合せで、次回作はサスペンスを主軸にした警察小説に決まった。僕のデビュー作のなかにあるサスペンス要素から、警察小説にしたらさらに飛躍するのでは、という営業からの声があったらしい。

そこで、S街の病院に入院しているという、最近刑事を引退したばかりの老人に話を聞きにいくことにした。現役の刑事たちは忙しくて取り合ってくれないが、この引退した元刑事の大江は暇を持て余していた。

「よく来てくれた。知りたいことなら、何でも答えてやるさ」と大江はしわがれた声で、時折せき込みながら話した。
「そうですね。では、ご自身が担当された事件で、何か心残りのあるものってありますか?」

すると、大江はしばらく黙ってから、「まいったな、何でも答えてやると言っちまったからな……俺は嘘はつけない性分でね」とため息をついた。

「ただし、これからする話は、他言無用でたのむよ」
約束します、と僕は答えた。それでもなお、しばらくのあいだ、大江は気乗りがしなさそうに口を開けたり閉じたりを繰り返していた。


やがて「R村の事件の犯人逮捕のことだ」と切り出した。

「あれは、たしか無事に犯人を射殺して幕となったのですよね?」
「表向きは、そうだ。だが、それは警察がミスを隠したかったからだ」
「ミス……?」
 思わず身を乗り出した。
「どんなミスですか?」
 大江はふう、とため息をつき、遠い目をした。

「誤射だったんだ」

一瞬、周囲の音が消えて、またふたたび戻ってきた。
窓の外で、救急車のサイレンの音が聞こえた。

「……どういうことですか?」
「容疑者の女は、警察が踏み込む前から、何か予見していたらしく、アパートの下の階に住む女を監禁していた。そして俺たちに挑発的な態度をとり、一斉に射撃というタイミングで、その女を楯にして、自分は窓から逃げたんだよ。結局、その後の捜査でも女は見つからず……幸い、その階下の女は天涯孤独だったから、女の死体を容疑者の死体と偽証することにした」

「それじゃあ……容疑者の女は……」
「ああ、まだ行方もわからん」

それから、大江は不意にベッドから降りてスリッパをはいた。
「すまんな、年をとると、どうにも尿意の間隔が狭くてな」
そんなことを言いながら、彼は病室を出て行った。

僕は窓の外を眺めていた。さっきの救急車は、どうやらこの病院に緊急搬送されてきたようだ。その赤いライトの灯が部屋のカーテンに当たって、カーテンが赤くなる。

スライドドアが音もなく開いた。大江が戻ってきたのか。

「大江さんなら、もう戻りませんよ」

そう言って入ってきたのは、一人の看護師だった。

彼女はスライドドアに鍵をかけると、近くにあった背もたれのない椅子に腰を下ろし、足を組んだ。左手には注射針、右手にはメスが握られている。

メスはすでに赤く染まっていた。

「久しぶりね。どう? まだ覚えてる? 蜜の味を」

「……いいや、忘れたね。記憶力がわるくてさ」

「そう? それで──永遠を手放した気分はいかが?」

結衣の動きが豹よりも速いことを、僕はよく知っている。とても敵う相手ではないってことも。それでも僕は表情を変えることなく、こう言った。
「まあまあだよ。当面のあいだは、ね」

結衣はふふっと微笑んだ。まるで女神のように。僕は、一瞬の間にある永い永い蜜を吸いこむように、深く息を吸い込んだ。

 



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