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怪奇倒叙掌説「まがとり」

 柳原正一はごく普通のどこにでもいる心優しい高校教師だった。生徒からの人気も高く、保護者からもよく相談をされ、校長や教頭、学年主任、同僚からの信頼も厚かった。

 三年前に同僚の美奈代と結婚し、子どもも生まれた。元気な男の子だ。柳原はこの家族のためにこれからは生きていくのだ、と思った。

 柳原はその年、二年三組の担任をすることになった。とてもまとまりのあるいいクラスだった。だからだろうか、九月に入ってすぐ、校長から転校生をこのクラスに入れたい、と相談された。名前は石笛君江。写真を見たかぎり美しく聡明そうな顔立ちだった。

「この子は前の学校で何があったのでしょう? この時期に転校なんて」
「恋愛沙汰で町にいづらくなって親戚の家があるこの町に預けられることになったという話だ」
 この顔だちなら、本人にその気がなくても色恋の問題が降り注いできそうだ、と柳原は思った。

 転校してきた一日目、石笛君江は写真のとおりの聡明なイメージを崩すことがなかった。女子生徒たちともすぐに打ち解け、男子たちは案の定新たなクラスのマドンナ誕生に浮足立っていた。
 
 一週間が経つ頃には、すっかり君江はクラスの中心的な存在になっていた。もはや彼女なしでは何事も進まないような、そんな空気ができあがっていた。柳原はそのことに驚いたが、クラスにはきっといい効果を生んだのだと思った。

 十三日目の放課後、国語準備室に君江が現れた。

 古典のことで聞きたいことがある、と。柳原は古典の教師だった。文法的なことかと思ったらそうではなく、『太平記』に登場する以津真天という怪鳥は実在するのか、という。

「あれは作り話だから実際にそういう鳥がいたということはないよ。『いつまで』と鳴く鳥なんかいるわけないからね」
「鳴き声はもっと違うものかもしれません。とにかく、人間のような声で鳴く鳥、です」
「君は古典の質問じゃなくて、鳥の質問に来たのか? 呆れたな」
 そうは言ったものの、君江が真剣らしいこともわかり、むげにはできなくなった。

「怪鳥に元をたどろうというなら、ほかにも姑獲鳥や鵺、夜雀などいくらでもいるさ。君が何かの実体験をもとにしているなら、もう少し特徴を……」
「叫び声です。女の、叫び声」
「叫び声……?」問い返したそのタイミングで、君江はうっと口元を抑えしゃがみこんだ。体調が悪くなったらしい。

 仕方なく、柳原は君江を自宅まで車で送ることにした。まだ残業があったが、ひとまず送ってこよう。柳原は職員室には顔を出さずに、君江を連れて直接駐車場へ向かった。君江の顔色が悪く、一刻も早いほうがいいとの判断だった。

 それに、彼女の親戚に挨拶するいい機会でもあった。だが、近所のコインパーキングに車を停め、家に着くと親戚は留守だった。君江が「すぐ帰ってきます」と言うのでしばらく庭先で待つことにした。君江は家に上がって待ってください、と言うが、いくら生徒の頼みでもこればかりは、と断った。

 庭先では鳥が鳴いていた。奇妙な鳴き声だった。今まで聞いたこともないような鳴き方をする。

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 まるで──女の叫び声のようだった。これか、と柳原は思った。この鳴き声が気になって君江は怪鳥の歴史を調べようとしたのかもしれない。だが、こんな鳴き声の鳥は古典の文献にもない。恐らく、実在する珍しい部類の鳥なのだろう。柳原はべつだん鳥に詳しいわけではない。自分の知らない鳴き方をする鳥がいたとて不思議はない。

 それにしても、鳴き声はするのに、姿が見えない。どこにいる? 目を凝らしていると、すーっといつの間にか隣に君江が立っていた。

「あの枝です」

 見れば棕櫚の木のてっぺんの項垂れたような枝の影になった辺りで、梟ほどの大きさの鳥がいてこっちを見ていた。梟に似てはいるが、もっと目は大きく、体は全体に痩せていて骨ばっていた。何とはなしに薄気味の悪い鳥だ、と柳原は思った。

「先生は、ご結婚されてるんですよね? クラスの子に聞きました」
 唐突に君江がそう言ってきた。距離が、やけに近いなと思った。思ったときにはすでに手遅れで、君江の右手が柳原の股間をまさぐっていた。

「毎晩、奥さんをこれで喜ばせているのですか?」
 やめなさい、と言った。たぶん、言ったはずだった。

 だが──君江は慣れた手つきで握りしめた弾性の物体を自在に弄んだ。

「先生、私は怖いんです……怖いんですよ……ほら……あの鳥が怖いの……」
 それはわずかな弾性を保ちつつ硬く硬くなっていき、今にもズボンを突き破らんとするかのように膨張した。

「でも先生のこれがあれば厄除けになりますね」
 ひどく不快な感覚があった。なんて不潔な……と思った。

 正気を取り戻して柳原は「やめたまえ!」と叫び、君江を突き飛ばしていた。彼女はうっ…と叫び声をあげて背後に倒れた。

 その時、門の近くに誰かが立っているのが見えた。中年女性だった。彼女は目を丸くして二人を交互に見ていた。君江の親戚だとわかったが、この状況はどう考えてもよろしくなかった。

 柳原の股間は、彼の意思とは無関係に膨張したままだったし、その場に倒れたせいで君江のセーラー服には土がついていたうえに、スカートのあたりがはだけてしまっていた。

「あなた君江に何をしたんですか!」
 中年女性は目をむき、怒りをあらわにした。違うんです、誤解です、と言ってもその言葉はむなしかった。彼女の目は柳原の股間に向けられていたからだ。汚らわしい……と彼女は呻くようにように言ってスマホを取り出した。

 警察に通報する気だ。

 その後の記憶が、じつは柳原にはあまりない。

 完全にないというのではない。まだらにはあるが、虫に食われたみたいに、ところどころ欠けている。

 確実に覚えているのは、近くに置いてあった草刈り用の鍬に手を伸ばしたこと。そのあとしばらくしてから、君江が一声ぎああああっと悲鳴を上げたこと。

 その前後の記憶が、虫に食われている。とにかく、気が付くと庭中に血が溢れていた。中年女性と君江の頭部がそれぞれぐちゃぐちゃになっており、鍬にはべっとりと血のりがついていて、どうやら柳原の服や顔にも血が付着しているようだった。

 柳原は鞄の中に着替えを持っているのを思い出した。まだ夏の暑さが続いていたので、帰宅の際には着替える予定だったのだ。君江を送ることにさえならなければ、とっくに着替えているはずだった。

 車は近所のコインパーキングだ。君江の家に着くまでは誰にも見られていない。家を出る場面さえ見られなければ、気づかれることはない。学校の関係者も柳原が君江を送りに出たことは知らない。国語準備室には、あの時間は柳原しかいかなったのだ。

 柳原は体に付着した血をタオルで拭って汚れた衣類とともにビニールに入れ、服を着た。庭の周囲は高い塀に囲まれており、その一切を目撃する者はいなかった。

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 びくりとした。それは、さっき君江が死ぬ前に立てた断末魔の叫びとよく似ていたからだ。だが、すぐに冷静になり、その前からいた例の気色悪い目の大きな鳥の鳴き声だと思い至った。そうだそうだ、さっきだってあんな声で鳴いていたではないか。

 それから、そうか、と思った。君江が叫び声をあげたのに、近隣の人たちが駆け付けないのは、あの鳥の鳴き声に慣れているせいもあるのかもしれない。

 鳥は、あの禍々しい大きな目で、じっと柳原を見ていた。そして、何を思ったか、枝からゆっくりと下降すると君江の死体の上に降り立った。

 しっし! と柳原は必死で鳥を追い払おうとした。

 が──鳥はぎょろりとした目で、首をかしげながら、なおも柳原に近づいてくる。

 その時になり、柳原は鞄の中に入れっぱなしだったトマトプリッツのことを思い出した。もっとも、それは折れてボロボロになっていたが、かえって鳥のエサには好都合だった。

 柳原はそれを投げた。鳥は案の定、プリッツの破片を追いかけて塀の近くへワサワサと羽音を立てて飛んでいった。柳原はその隙をついて人目がないことを確かめながら、門から出てコインパーキングへと向かった。

 学校には戻らず、そのまま帰宅すると、先に帰宅していた美奈代には「とりあえず風呂に入る」と告げた。それから風呂場で服とタオルをごしごしと洗った。すべての処理が済むと、さも長湯を楽しんだという風に居間に現れ、長男の勝を抱っこした。

「何かあったの? なんだかずいぶん疲れてるみたい」と美奈代が言った。
「いやぁ……ちょっと残業がきつくてね」
 そう答えても、美奈代は怪訝な表情のままだ。まだ中間テストの期間でもなく、部活の顧問もしていない柳原が二学期早々に残業に追われるのはおかしいと思ったのだろう。だが、それ以上の言い訳を考えるのも面倒だった。

 ぼんやりとテレビを見ていると、勝が「ばっばっば…ばっ」と喃語を言いながら、手で窓の外を示していた。

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 あの鳥だった。ついてきたのだ。何故だ……?
 そう考えて、ああ、と思った。トマトプリッツだ。あれをまた欲しがっているのだ。車で家路を急ぐあいだ、ずっと頭上をあいつが飛んでいたのか……?

「薄気味わるい鳥ねぇ……あなた、あの鳥を追い払って」
 美奈代に言われて、殺虫剤を撒いたり、石を投げたりと手を尽くした。だが、鳥は庭のいちばん背の高い木の上に乗ってわが物顔をしている。

 そして、またあの声で鳴く。
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 その声を聴くたびに、脳裏に二人の死体がよみがえる。
 やめろ……その声で鳴くな……。

 気が付くと、柳原は鳥にストックしてあるトマトプリッツを与えていた。食べている間は鳥は鳴かず、一袋まるごと食べ終えると、ようやく静かになって木の枝で毛づくろいを始めた。

 こいつはずっとここに居座るつもりなのか……。
「ねえあなた、追い払ってと言ったのにどうして餌なんかやってるの!」
 美奈代が窓を開けてヒステリックな調子で責めてくる。嫌な音だった。
「うるさい!」
 ふだん家で怒鳴ったことのない柳原が大声を出したので、美奈代は驚いたようだった。次いで、室内で勝が驚いて泣き出した。

 その泣き声が、また柳原の神経を逆撫でしていた。うるさいうるさいうるさい……どいつもこいつも………。美奈代は呆れたようにかぶりを振り、無言で勝を抱っこして自室にこもってしまった。

 居間に戻った柳原はさっきのようにテレビを見ていた。教育テレビの、子ども向け番組。まったく興味のない映像を、ただじっと見続けて1時間、2時間と経った。子ども向け番組は終わって、英会話とか、子育て相談とか、そういった内容に変わっていた。それでもまだ何もする気にならなかった。ビールさえ飲む気にならなかった。

 21時近くになった時、学校から連絡があった。学校長が君江の死を知らせてきたのだった。そして、そのことで警察が担任からも話を聞きたいと言っている、と。「住所を教えた。差支えなかったかね」と言う。構いません、と答えるしかなかった。

 やがて、インターホンが鳴り、刑事が二名現れた。質問はいたって形式的なものだった。最近の君江さんに変わったことはありませんでしたか、とか、ご親戚の方に会われたことは、とか、個人的な相談は受けていませんでしたか、といったものだった。いずれの質問にも、柳原は「いいえ」で答えた。最後に「お役に立てず申し訳ないです。担任としてこのようなことになって不甲斐ないです……もっと悩みを聞いてあげていればあるいは……」などと後悔をにじませた。

 刑事たちはまだ何の証拠も挙がっておらず、犯人の行方はようとして知れぬことを伝え「それでは夜分に失礼しました」と言って立ち去ろうとした。

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 その刹那、例の鳥が、あの声で鳴いた。
「な……何ですか……いまの声は……」
「ただの鳥です。なんだか、妙な鳥が庭に居ついてしまいまして……」
 刑事は無断で庭のほうへ回りこんで鳥の姿を確め始めた。柳原も何とはなしに彼らについていくことにした。そうせずにはいられなかった。

「気味の悪い姿ですね……いつからですか? あの鳥があそこにいるのは」
「……今日からですね。急に現れて……」

 その途端、刑事の目が興味深げに柳原に向けられた。

「そうですか、奇遇ですね。じつは石笛さんの近隣の家の人の話ですと、石笛さんのご自宅の庭にも、奇妙な姿の鳥が棲みついてついていたらしいんですよ。ちょうどあんな感じの。痩せて、目ばかり大きい鳥です」
「いろんな鳥がいますよ。そうでしょう? 最近は渡り鳥も多く、外来種がけっこういるって話じゃないですか」

「特徴はそれだけじゃないんです。その声というのが、女性の叫び声とよく似ているのだとか。そのせいで事件の発覚も遅れたくらいでしてね………いまの鳥の声も、なんだか叫び声とよく似ていた。そう思いませんか?」
「……そうでしょうか……わかりません、私には鳥の声としか……それにもしそうだとしても、ただ同じ種類の鳥がいるというだけでしょう。なんだかあの鳥は高い木の上なら、どこだっていいみたいですからね。うちにも高い木があるから、たまたま同じ種類の鳥がいる、ということでしょう」

 刑事の一人が、じっと柳原の目を覗き込むようにして見た。まるでその目が細いトンネルになっていて、その向こう側に何か目当てのものでも潜んでいるかのような、そんな感じの覗き込み方だった。

 やがて、刑事は静かな声で、微笑むように言った。

「そうかもしれませんね。しかし……柳原さん。私どもは石笛さんの家に高い木があることは一言も話していません。それなのにどうして、『うちにも』と、まるで石笛さんの家に高い木があることをご存じなような言い方をされたのですか?」

 その問いに、柳原はとっさに返す言葉を失った。もし少しの冷静さがあれば、そんな問いにはどうとでも返すことができたはずだ。しかし、柳原の中には一欠片の冷静さすら残されてはいなかった。

 九月の生ぬるい夜風のせいで、全身から汗が噴き出た。それをあざ笑うかのように、また一声、鳥が鳴いた。


 



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