le conte 聖夜の密室劇 第四夜「頭骨あります」
その古道具店〈唐草堂〉は、地下鉄の階段を上がって地上に出てすぐのところにあった。十二月ともなると、店内には円筒型のガスストーブが置かれ、いつも店主がそこに手をかざしていた。店主は齢90近くに見え、禿げ上がった頭髪に丸眼鏡をかけ、立派な白髭を蓄えていた。私はその店にずっと興味をもっていたものの、入社して以来一度たりともその店の前で足を止めることはなかった。古道具屋と言ったって、どうせ高価なものばかりで高いのだろうし、こちらは入社三年目の安月給だ。店に顔を出したところで、店も私も得する要因がない。
けれど、この日は違った。店頭に妙な貼り紙があり、その文句が朝から気になって仕方なかった。「クリスマス限定、頭骨あります」。日頃からグロテスクなものに興味があるというわけではないのだが、頭骨がクリスマス限定であることにどんな意味があるのか、とても気になったのだ。その頭骨はクリスマスが終わったらどうなってしまうのか。
結局、その日はクリスマス限定頭骨のことばかり考えていて仕事にならず、何度も上司に怒られることになった。せっかく提出した企画もろくに理由も言われずに突っ返された。
夕方五時になると、残業はせずに退社した。駅へ着いたとき、やはりまだあの貼り紙は出たままになっていた。そこで、私は思い切って店の暖簾をくぐってみることにした。
私が入店すると、よぼよぼ歩きの店主はちらっとこちらを見たが、何も言わなかった。私は店主に尋ねた。「あの、店の貼り紙を見て来ました。クリスマス限定の頭骨とは、どのようなものなのでしょう?」
すると、店主はじっと私の顔を見た。
「頭骨がクリスマス限定なのではありません。『頭骨あります』とアナウンスすること自体が、クリスマス限定なのです。頭骨はふだんからあります」
「どうして、クリスマスにだけアナウンスするのですか?」
「それは、クリスマスに『頭骨』という単語に反応するのは、かなり限られた特殊な人だからです。たとえば、あなたのような」
「私は……ふつうの会社員です」
「ふつうの。皆さんそうおっしゃいますよ。私は、ごく、ふつうだ、と。彼女もそうでした」
「彼女?」
「ああ、その頭骨の主ですね。聡明さとは、誠実さであり、謙虚さであり、実直さです。彼女は自分には特別な才能などないといつも思っているようでしたが、一方でたゆまない努力を続ける女性でもありました。ですから、彼女自身は『ごくふつう』のつもりでしたが、周りにとっては違いましたし、あなたもきっと、こんな聖夜に頭骨という単語に反応したのですから、やはりかなり特殊な人なのだと思いますよ?」
「はあ……そうでしょうか」
私には、自分がふつうではないなんてとても思えなかった。小中高と、いつも目立たない存在だったし、大学時代に付き合った彼氏からは「おまえは退屈な女だ」と言われた。実際、私は取り立てて秀でたところが何もなく、話術に長けているわけでもなく、実行力さえもなく、大抵誰かの後をひっそりと歩いて生きてばかりだったのだ。こんな女を「ごくふつう」と言わなかったら、どこにふつうがあるのかわからなくなってしまう。
「ともあれ、あなたは頭骨を求めてここにやってきた。しかし、それがどのようなものか、あなたはまだ知らない。もし知ったら、あなたはそれがとても欲しくなるかもしれませんよ」
「欲しくなったら、ダメなのですか?」
「売り物ではありませんからねぇ」
「え、だって、わざわざ貼り紙が……」
「『頭骨あります』と言っているだけです。『売ります』とは一言も言っていません」
「ああ……わかりました。じゃあ、欲しがりません」
「本当ですか?」
「もともと、あんまり欲がないほうなんです」
「欲のない人間なんていませんよ」
「かも知れません。でも私はほとんどないのです」
この時、私のお腹がぎゅううっと鳴った。そう言えば、昼はサンドイッチだけだった。そろそろ晩御飯を食べなくては。でも、そうした義務感さえ、私には希薄だ。お腹なんて空きたいだけ空かせておけばいい。
「たしかに、私が知るなかでもまれなほどに無欲なお人のようですな」
それから店主は、一度店の奥へと引っ込んだ。しばらく待っていると、店主は何やら箱を抱えて戻ってきた。「これがどうしてここにあるのかは、聞かないでください。あなたもご存じのとおり、この国は百年のあいだに二度の戦争を経験した。そのさなかに、何らかの事情で、この頭骨はここに辿り着いたのです」
「その女性と、あなたとは顔見知りなのですか?」
「かつての教え子でした。では、約束してください。必ず、私がよいと言うまで目を閉じておいてください」
「わかりました」
私は目を閉じた。見知らぬ空間で目を閉じるということは、ちょっとした恐怖ではある。それでも、店主の穏やかな声色が、警戒心を解いてくれた。
何かがコツっと音を立てた。たぶん、テーブルの上に頭骨を置いたのだろう。店主は、とつぜん私の手首をつかんだ。「ちょっと失礼しますよ」と言いながら、その手をそおっと動かして、何かに触れさせた。
冷たい手触り。次いで、ざらりとした感触が掌を伝った。
「まだ、ダメですか?」
「まだです。審美という言葉をご存知ですか?」
「……はい。何となくは」
「審美とは、美醜を見分けることですが、見分けるということは、美が純粋に『感じる』ものではないということでもあります。『見分ける』ことの中には、感性の中から主観性を脱却するという意味がすでに込められている。たとえば、悪人を見分けるといった場合、この人が悪人であってほしくないなぁ、という主観は、事実に蓋をしてしまう可能性がある。そうですね? そういう意味で、審美とはまず、見分けの能力なのだということを知ってください。いいですね? 『見る』とはそれほどに厳粛な行為なのです。まず、主観を脱却しましょう。あなたは今、どんな悩みを抱えていますか?」
私は──。昨日、恋人に去られた。やっぱり、学生時代の恋人と同様、私をつまらない女だと言い捨てて。そのことが、ショックでもあった。そのせいで、提出する会社の企画にも身が入らなかった。それが今日の散々な結果にも結びついていた。
「いろいろおありのようですね。でもその悩みは脇へ置いておきましょう。今夜は聖夜です。いいですか。いま、あなたは頭骨を触っている。これは、あなたの頭骨です。あるいは、この頭骨の中身はあなたです。そう仮定してみてください」
「その仮定は、さっき言った審美と何か関係があるのですか?」
「己の主観を脱却すること。そして、オブジェを鑑賞すること。それは、ある意味で追体験するようなものなのです。あなたは、頭骨の中身です。ここは、彼女の生きた世界。あなたが目を開いたときに最初に目にするのは、彼女がかつてどこかで見た光景です」
イメージする。私が、このひんやりとした手触りの頭骨の中身であるところを。
「目を、開けなさい」
私は、目を開けた。
「奇癖、ビザルリーだよ」
突然そう言われて、驚いた。いや、驚いたなんて生半可なものではない。隣にいる黒いスーツに身を包んだ男が神か悪魔に思えた。男は小意地の悪い笑みを微かに浮かべ、池の水面を眺めている。
彼は黒猫と呼ばれている。もちろん本名ではないが、誰も彼を本当の名前では呼ばない。
浮上。
意識を浮上させる。いま、頭骨の手触りが、私の五感を刺激し、気が付くと、私は自分が池の前に座っているような錯覚を起こした。となりにいたのは、端正な容姿をした、黒いスーツの男。少し、自分の元彼と似たところがあるような気がしないでもない。でも、元彼はもっと世を拗ねたような顔をしている。対して「黒猫」の横顔からは、どこか気怠い空気を醸しつつも、一筋芯の通ったものを感じる。
また、ふたたび潜った。潜った。潜った。
青い月が、赤く変わる。
不思議な光景だ。青い月も初めて見るけれど、赤い月はさらに初めて見た。
「行くぞ」
目の前を歩く黒い背中がそう言った。はぐれないように、それを追いかける。
この二人はどんな二人なのだろう? 恋人のようにも取れるが、それ以前のようにも取れる。だが、それ以前のようでいて、すでにそうであるような気もやっぱりする。曖昧な領域をあえて保っているのか、それともそう感じるのは、私が当事者ではないからか。
ほかにもいろいろな場面に私は潜った。一輪の薔薇が公園のベンチに置かれているのを見て涙ぐんだり、異国の街で、黒いスーツの男と再会したり、ああ、この女性の思い出は黒いスーツの「黒猫」にまつわるものばかりなのだ、とわかる。だが、二人の仲は進展するようで進展しない。
なぜそうなのか。それも徐々にわかってくる。彼女は懸命に目標に向かっているのだ。自分の才能のなさにくじけそうになりながらも、前を向き続けることから逃げない。その結果、二人はつねに前を向いており、見つめ合うようなことになかなかならない。
いや、きっと人生のどこかで、この二人は愛し合ってもいるはずなのだ。けれど、こうして記憶の海をたゆたっているのは、二人が並んで見た光景ばかりだ。まるで、二人で一人だとでもいうかのように。
そのような関係を、いまだかつて自分は誰かと築いたことはない。
出会いに恵まれないから。
いつもそう思ってきた。
でも、そうなのだろうか?
パッと、手から頭骨が離された。
「はい、そこまで。もう、お帰り下さい」
「……もう少しだけ、彼女でいさせてもらえませんか? 何かが、見えかけたんです!」
だが、店主はかたくなに首を横に振った。
「もう時間が参りました。それに、あなたはすでに何かをつかんでいる」
そうなのだろうか?
相変わらず、何者でもないままのような気がする。
「どうぞ。またのご来店をお待ちしております」
店主はそう言って頭を下げたが、また来ても頭骨を見せてはもらえないことは明らかだった。きっと店主は、彼女がどのような運命でそのようなことになったのか、私に話してはくれまい。「黒猫」という男は生きているのだろうか? それもわからない。何も、わからないままだ。
店主の言ったとおり、この国はこの百年で二度の戦争を経験した。だから、その間に何かがあったのかも知れない。そう想像するしかない。
私はもやもやした気持ちを抱えたまま外に出た。いつの間にか雪が降り始めていた。けれど、なぜか私はその雪を温かく感じる。
私はこれまで、どこかへまっすぐに向かおうとしただろうか。自分の才能のなさを言い訳にして、こそこそと生きてきただけではなかったか。彼女は、そうではなかった。彼女もまた才能にはさして恵まれているようには思われなかったけれど、その事実から逃げずに、ひたすら前を見続けた。
前を見ようとしない者が、隣で一緒の風景を見ようとする者と会えるわけがないのではないだろうか?
その時、ふと背後から声をかけられた。
「おい、まだこんなところにいたのか?」
部長だった。会社ではいつも仏頂面だけれど、今はわずかに朗らかな表情をしている。
「部長……ちょっと考え事してまして」
「早く帰らないと、風邪ひくぞ。おまえ今日一日ぼおっとしてたし、早く寝たほうがいい」
「はい。あ、今日提出した企画の件なんですが、どうしてダメなのか教えてもらえませんか?」
すると、部長がにやりと笑った。
「やっと尋ねてきたか。おまえが理由を聞くのを待ってたんだ。いいぞ。教えてやる。これから飯でもどうだ?」
返事をする前に、お腹が鳴った。ずっと空いていたのだ。
「ぺこぺこです」
それから、私たちは色気も何もない定食屋へと向かった。恋人たちが向かうイルミネーションの広がる街区とは逆方向。それでも、私は、これまでになく凛とした気持ちになっていた。まるで、まだ私が、彼女の人生の延長を生きているみたいに。
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