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クリスマス小説「チック、チック、チック」

探偵ブルーブラックは影に似ている。どこにでも現れるが、誰もブルーブラックに気づかない。それは彼の類まれな才能というわけでもない。彼はただ生来そういう男であり、その結果として探偵という職業に流れ着いた。

ブルーブラックはクリスマスが好きではない。昔の恋人が必ず電話してくる日だからだ。昔の恋人と一言でいえば同一人物に思えるが、それはAだったりBだったりCだったりとその都度変わる。要するに、その年のクリスマスに寄り添う相手のいなかった昔の恋人がかけてくる。

「もしもし、私、誰だかわかる?」ブランデーに漬けすぎたレーズンみたいな声で昔の恋人は言う。なぜ彼女は自分を世界の外側にそっと置いておいてくれないのだろう? 「わかる? ねえ私とても寂しいの。寂しいのよ」
自分には彼女の寂しさがわかるのだろうか? わからないのだろうか? わからなくてもわかると答えてしまえばわかることになってしまうのだろうか? それで相手を満足させれば、患部にエタノールを塗るみたいにそのうち傷は癒えるのだろうか?

ブルーブラックはいくつかの言葉をかわして電話を切った。それからコニャックを引っかけるふりをして、空中で手を動かした。ブルーブラックは酒を飲まない。煙草もやらない。チョコレートを口に含んで、ゆっくり溶かしながら水を飲む。バーテンダーも心得ていて、天然水とゴディバのチョコレートを用意している。このバーテンダーだけが、この空間におけるブルーブラックの認識者である。

「仕事の調子はどうだい?」
「世の中の平均以下さ。でも底辺じゃない。そう信じてるよ」
「底辺なんて見たことなかろう?」
「昔、目覚めたら段ボール住まいの男の寝床にいたことがある。焼酎片手に朝から飲んだくれてるそいつにあんたは誰だと尋ねたら、そいつは自分は社会の底辺にいるから名乗るほどのもんじゃないと言った。俺は底辺なんて存在しない、と答えたが、鼻で笑われたよ。そいつが真実で俺が間違ってたんなら、たぶんそいつが底辺にいたんだろう。そして、たしかに仕事という意味でいえば、俺はそいつよりは少しはマシなんだろうさ」
バーテンダーは笑ったようだが、口ひげのせいで実際には笑ったのか肩を震わせただけなのかはわからなかった。バーテンダーはまた仕事に戻り、ブルーブラックはまた世界の影に戻った。

それから五分ほど経ち、カウンターの隣の席に女が腰かけた。ほかに席も空いているのに、女はブルーブラックの真隣に腰かけ、ジン・フィズを頼んだ。隣にいるので相手の顔は見なかったが、煙草と香水の融合率からある程度の恋愛経験をこなしつつ、今は仕事第一にシフトしているタイプと思われた。

「ねえマスター、ここによく現れる世界の影みたいな探偵がいるって聞いたんだけど、もしかして今私の隣にいるかも知れない男がそうなのかしら?」
バーテンダーは笑っているのか判然としない笑い方で頷いてみせた。
「そう。それはよかったわ。すると、私の隣にいるはずのあなたは、金さえ払えば私の依頼を引き受けてくれるというわけね?」
「そうとも限らない。何しろ、今夜はクリスマスだからね。人によっては仕事はしない」
「でもあなたはする?」
「俺がこのバーの壁紙でないならね」
「じゃあするのね? よかった。私のひよこが行方不明なのよ」
聞けば女が暮らすアパートの2階からひよこが脱走したらしい。隣家が広大な庭園を有しており、蛇にでも捕食されたら、と思うと夜も寝られないらしい。
「つまり、夜の眠り方についてアドバイスを求めているわけだね?」
「ちがうわね。ひよこを探して」
「はじめからそう言えばいい。ところで、君はバーの壁紙に何を話しているんだ?」
ブルーブラックは夜道を歩くひよこを想像する。その闇は、ひよこが初めて目にする闇であろう。どのような世界に自分が躍り出てしまったのか、皆目わからないままに、溝に落ちたかも知れない。女の懸念どおり、蛇に食べられたかも知れない。車に轢かれてぺしゃんこということも、なくはないだろう。
「たとえ片足だけや一片の羽しかこの世の残っていないくても納得できるか?」
「いいえ。生きて連れ帰って来て」
「やはり君はいま壁紙に話しているようだ」
女はジン・フィズを飲み干すと、独り言を拾い集めるように財布を開いてカウンターに紙幣一枚といくらかの小銭を投げつけ、去っていった。バーテンダーは余分な100円を律儀に彼女のいた席に置いた。
長い長い夜だった。チェット・ベイカーが何の雑味もなく甘くとろけるような恋を歌っていたが、店内にはカップルは皆無だった。ブルーブラックは先ほどの依頼について考えた。ひよこはなぜ女の家を出たのか。なかなか気の短そうな女だったが、会社ではきっと有能なのだろう。帰宅するとストッキングを脱ぎながらひよこを溺愛していたのだろうか。かわいがられていたのになぜひよこは彼女のアパートを出ることにしたのか。
音楽はチェット・ベイカーからチック・コリアに変わる。どちらも頭文字はC。レコード棚のアルファベット順にかけているのかも知れない。しかしこれは奇妙な偶然ともいえる。チックは英語でひよこという意味だ。ブルーブラックがひよこの行方について考えているときに、チック・コリアが流れたというのは単なる偶然で片づけていいものだろうか?
夜の11時。間もなくクリスマスが終わる。明日から年末まであと何件依頼が舞い込むだろう? 光熱費を払えるレベルに達するにはあと2件はほしいところだが。ふたたびドアが開く。またべつの客が現れたのだ。
男は頭に鷹をのせている。鷹匠というやつだろう。いまどき、こんな都会で鷹匠がバーを訪れるのに遭遇するというのも滅多にあることではない。これをクリスマスの奇跡に指定することも可能だ。
「まったく、災難だ」
鷹匠はブルーブラックの真隣に座るなり深い溜息をついた。
「十二月はぜんぜんショーに客が入らなかった」
どうやら男は、鷹に捕食させる現場を見せるショーで生計を立てているらしい。
「それというのも、例のコロナさ。コロナのせいで客足がわるい」
ブルーブラックは黙っている。ブルーブラックは世界の影だからだ。この男には自分の存在が感じ取れているのかどうか。
「あんた、探偵なんだろ?」
「壁紙かもしれないが」
「何でもいい。探してほしいものがあるんだ」
「鷹なら頭の上にいるようだが?」
「あいにく探し物は鷹じゃないんだ。こいつと相棒になって三年。こんなに生活が貧窮したときはない。この二日、こいつにはろくなものを喰わせてやってないんだ。それで、昨日通りかかったアパートの前を歩いているひよこを見つけてポケットに入れて持ち帰った。ところが、家に着いてみるとひよこが消えていやがる!」
「鷹の餌にするつもりだったのか?」
「そうよ。ひよこは買うとけっこうするんだ。貴重な命なんだよ」
「だが鷹に食べさせる前に、ひよこは逃げ出した、と」
「そういうことだ」
「この世界はコロナで狂ってしまったのか? どいつもこいつもひよこを探しているな」
「ん、何か言ったかね?」
「いや、壁紙のたわごとだ。それで、ひよこを見つけたら餌にするのかい?ことわるよ。俺への依頼料でもっといい餌が手に入る」
「……それは妙案だ。考えもしなかった」
鷹匠は礼を言って去っていった。
クリスマスの夜にひよこを探すなんて、世の中よほどひよこに飢えているとしか思えない。ブルーブラックはバーボンソーダをくいっとやる素振りで、空中で指を動かす。
「それというのもコロナだ」
「ああ、そうだね、コロナだ。ろくな客が来ない」
バーテンダーは溜息まじりに言った。二人の悩みはべつべつのものだが、ため息でもつきたい点と、その理由がコロナにある点では一致しているとも言えた。

十一時五十五分。あと五分でクリスマスが終わる。ブルーブラックは世界の影として、せつなさとも寂しさとも、孤独とさえも距離を置いたまま、ただ時が過ぎゆくのをじっと待っている。だがわるくない。壁紙としての生き方があったとしても、それはそれでけっこうじゃないか。
「ケッコーだな。コケッコー」
純粋な独り言。壁紙の、世界の影の、たわむれに放ったその一言。だが、そんなたわむれを、逃さない夜が一年にたった一度ある。
「母さん、母さん」
隣の席に、いつの間にか小さなひよこが腰かけている。ひよこはバーテンダーにギムレットを要求すると、ふう、と息をついた。
「命からがら逃げまどって、どうにかここに辿り着いたよ、母さん」
「俺は母さんじゃないよ」
「いいや、母さんさ。なぜならほら、今かかってるのは子守歌で歌ってくれていたチック・コリアだし、たったいまコケッコーと言った。母さんだよ」
「わるいが、人違いだよ。俺はただの壁紙なんだ。おまえは独り言を言ってる」
「そうかも知れないけど、人生ってそんなもんだろ?」
ブルーブラックはそれ以上は何も言わなかった。このひよこの言うことには一理ある。誰もが独り言を言って生きているのだ。こいつが壁紙に向かって母さんと呼んだところで、何が問題なんだ?

ブルーブラックはひよこをポケットにしまうと、勘定を払った。
「メリークリスマス。良いお年を」
バーテンダーの言葉に軽く頷き、外へ出る。雪が降っている。探偵ブルーブラックは世界の影であり、その影は白くなった道に長く長くのびている。
「母さん、お家、焚火はあるの?」
「焚火はないよ。ストーブならある」
「ストーブ!」
ひよこは歓喜の声をあげた。それから、チック・コリアの「バラード・フォー・アンナ」を口ずさんだ。

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