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10夜連続お題公募エッセイ第四夜「すってんてん」

「すってんてん」とか、「すっからかん」「すっぽんぽん」「つんつるてん」などなど、昔の日本人は音のひょうきんさを大事にしていたんだなという気がする。語感で気を抜く、というのかな。たとえば生活が苦しくてもう明日にでも死んでしまおうか、という時に笑い話でもするみたいに言うわけだ。「もうすってんてんですわ。どうしたもんかねこりゃ」

 笑うしかない、という言葉があるが、大抵において笑うしかない状況というのは、本来であれば笑えるはずのない状況なのである。だが、そういう状況、運命の死刑宣告に対して、人間は「笑い」で牙をむく。

「もう駄目だ…」じゃない。「もうすってんてんよ。トホホですわ」まるで、おいそんなくだらないことで俺の息の根を止められるもんなら止めてみろよ、まだ笑ってるぞ俺は、とでも言わんばかりである。

「すってんてん」の意味は一文無しとか、そんなような意味であるが、もちろん「なくなる」のはお金ばかりとは限らない。人望が「すってんてん」になることもあるし、才能が「すってんてん」になることもある。

 作家の場合、「すってんてん」になるのは「人望」とか「才能」よりもう少し微妙なニュアンスのケースもある。作家の世界は、基本的に新人賞デビュー時の初版部数で決まってしまうと言っても過言ではない。簡単にいえば、宝島社みたいにべらぼうに大量に最初に刷る場合は、結果的に重版がかからずとも、出回った数自体が実績となるので、それをもとに次の部数が決まってくるので、作家寿命がわずかに他社デビューより長かったりする。

 反対に、たとえば新人賞をとったのに、初版が少部数でスタートされたりすると、そのまま重版がかからなければ、よほど年末のランキングなどで生き残らないかぎりは「出せてあと1作か2作」となってしまう。

 そうなると、その作家寿命というのは才能とか人望とかとはべつの力学で限定されてくるところがある。もちろん、「売れなかったのだから才能がなかったんだよ」という考え方もあるだろうが、明言するが「それはちがう」のだ。スタートでの「見込み」が限定されてしまえば、その中で大成功をおさめるのは宝くじで1等が当たるに近い確率となる。

 そうして、何が何だかわからないうちに作家寿命の「すってんてん」を迎えることになる。何なら、受賞作が売れなかった時点で、選考員が満場一致で選んだ場合ですら、次作には「方向転換」を求められたりする。「え、良かったからデビューできたんじゃないの? ダメだったの?」新人作家が混乱する間に、方向転換のレールが敷かれる。だがその次もそう易々とうまくはいかない。そうこうするうちに「打てる球はあと一球です」となる。

 さてこんな話をしていると、「おまえ自身はどうなんだ?」と言われそうだ。私は、しょうじき運がよかった。運だけでここまできたと言ってもいい。数えてみるとすでに40作以上書いている。大ヒット作もないのに、これは驚異的なことではある。ふつう、売れているから書かせてもらえるのだ。ところが、売れてもないのに、この作家は40作も書いてしまった。じつのところ、私はこのような作家寿命がいつ「すってんてん」になるんだろうな、とデビュー当初から考えていた。

 じつのところ、黒猫シリーズが売れた時点で思ったのは、「黒猫シリーズが売れてよかった」ではなく、「ああ、これで黒猫シリーズ以外でヒットが出なければ『黒猫シリーズしか書けない人』のレッテルを貼られるようになるんだろうな」だった。そして、実際、いろんな作品を出したが、いずれも売り上げからみれば、黒猫シリーズを超えた、とは言えなかった。最近の方向転換(ハードボイルド)で、わりと評価の高い『探偵は絵にならない』『探偵は追憶を描かない』の探偵シリーズだって、売上だけをみれば黒猫シリーズには及ばない。私が4年ほどかけて書き上げたジャンル不問の大作『沙漠と青のアルゴリズム』に至っては、怖くて数字を編集氏に聞いていないくらいだ。

 こうして、少なくとも、数字だけをみれば、私は黒猫シリーズを超えるものが出ないまま10年を迎えたことになる。今年は、10周年ということで、各社あれこれ盛り上げてくれた。ありがたいことだ。でもどうなのかな。これで、この一年のことが結局単なる打ち上げ花火みたいに忘れ去られてしまうとなれば、いよいよ作家寿命も「すってんてん」になるんじゃないだろうか。何しろ、「十一周年」という半端な数字にかこつけて盛り上がってくれるほど出版社は暇ではない。この十年、ずっと「いずれそうなる」と思っているし、それが来年でも再来年でも、私はさして驚かないだろう。

 そこで話はふたたび「すってんてん」に戻るのだが、この愉快な響きを手に入れるには、「何もない」状態を経験してみるしかないのだ。そして、私はもうデビュー当初から、「どうせすってんてんになった時の自分が一番強いに決まっている」とどこかで思っている。だから、いずれ人望であれ才能であれ、作家寿命であれ、それが「すってんてん」になる日を、どこかで少し楽しみにさえしているところがある。

 なぜか? そこからすべては始まるから。人間には堅実に歩める者と、「すってんてん」になって初めて何かを得られる者とがいる。私は自分が後者であることを知っている。

 デビューより二年程前のこと。自宅で始めた広告業がにっちもさっちもいかなくなったことがあった。貯金を切り崩す生活もいよいよ限界に達し、明日仕事がとれなければ、もういよいよ屋号を下ろすしかない、というところまで来ていた。そこで私が行なったのは、出版社にゲリラ営業をかける、という方法だった。「装丁できます、編集できます、漫画家斡旋します」とにかく必死だった。

そんな日々に、私はWBCの試合でずっとヒットが打てずにいるイチローの長い不調を見守っていた。そして、決勝。イチローのあの一打が出た。イチローの積み重ねてきた信用がほどなく「すってんてん」になろうかというタイミングで、イチローはその状態を待っていたかのようにスコーンと打った。

「すってんてんですわ」と笑うとき、その人の内面はとても笑える状態ではない。だが、それでも笑うとき、そこには運命など糞くらえ、という笑いの反撃が潜んでいる。何もなくなる。それがどうした? という状態。

 私はイチローの「すってんてん」に鼓舞され、翌日に出版社から大口の漫画編集、脚本などの仕事を得た。どうにか生き延びる手立てをつかんだのだ。まさに「すってんてん」の連鎖だったように思う。あそこで「もう駄目だ」となるか、「すってんてんですわ、うへへ」と言えるか、その差は本当にわずかなものでしかない。

 たとえば、私は自分の置かれた現状についてもぼんやり考える。その先の未来についても。だが、どれほどの「何もない」状態になろうと、私は「もう駄目だ…」とは言わずに、半笑いで「すってんてんですわ」と言っている自分でいたい。そのほうが、人生にゴム紐が通されるような気がするのだ。

 さて、そして『偽恋愛小説家、最後の嘘』の発売である。このシリーズは、黒猫シリーズに次いで、少なくとも森晶麿人気作トップ3には絶対入ってくる作品だ。人気の差は、単に新人賞受賞作かそうでないか、ようするに認知度の違いでしかない。だが、そんな作品もおしまいを迎えようとしている。はたしてその最後は「もう終わりだ……」なのか「すってんてんやね」なのか。もしも「すってんてんやね」なら、そのさよならは文字通り「最後」の「嘘」になるかもしれない。こればっかりは、私が決めることではない。読者一人一人が、読んで確かめてもらいたい。

 あなたはいまどんな状況だろうか。長いコ口ナ禍で、苦しい状況にある人もいるかもしれない。だが「もう無理だ」と思うか、「すってんてんやわ」と思うかは、あなた次第なのかも知れない。

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 新刊『偽恋愛小説家、最後の嘘』発売となりました!

「雪の女王」を題材に、真夏の凍死体、幻の遺稿争奪戦といった事象に夢宮宇多が巻き込まれる超エンタメミステリ長編です。どうぞよろしく。

今回は私のサイン本と夢センセの登場する特典小説が当たる企画があるようなので、ぜひこちらのサイトも覗いてください。

 なおこのお題公募エッセイはあと6日続きます。
タイトルもまだまだ募集中ですので(すでにご応募いただいた中からももちろん選ばせていただく予定です)、引き続き、#森晶麿エッセイタイトル、と付けて投稿してください。たくさんのご応募お待ちしております。
 


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