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ねじ式患者と76のねじ

T(それはねじの駆動部に当たる。これなしには何も始まらない)

 となりにいる彼女は涙の痕を拭くことすらせずに目の前の水面を見据えて言う。
 ──わかっていた。いつかあなたの心が離れていくって。
 そうか、とこちらは答える。「手紙を書いてほしい」と告げると、「あなたが返事を書かないなら」と彼女は返す。返事を必要としない手紙は、遺書だ。だが、黙るしかない。
 ──でもあなたは悪くない。何だって同じ状態を保ち続けることは不可能よ。あれほど隆盛を極めたCD産業も斜陽の一途でしょ?
 それを否定する立場に今はないことを理解し、黙っている。彼女は再び泣き始める。
 ──でも、これだけは伝えておくわね。どんな状態にも真実はあって、今が本当で過去が嘘だとか、そういうことにはならないのよ。たとえあなたが過去や現在をなかったことにしたくても。
 彼女の両耳で、心臓をかたどったイヤリングが揺れている。
 胸のうちでビートを打つ心臓のように、耳のそれも激しく高鳴っているのだろうか。魚が跳ねる。カフェの中なのに、魚がどこにいるのか、と辺りを見回す。その魚は光を反射して店内に煌きをまき散らしたかと思うと、珈琲の闇に消えた。
 手を伸ばす。だが、彼女はすでにいない。ためらいは、時に果てしない後悔を生む。もう二度と会えまい。その確実性がもたらす硬質な安らぎを、生ぬるい幸福と置き換えてもいいのではないのかと考えはじめる。深い後悔と絶望。ここにねじがあれば。ねじを回しさえすれば。
 だが、きっとねじを回せば、愚か者の振る舞いがスローに再生されるだけに違いない。生ぬるい絶望は不幸か。幸福か。もはやそこに境目がないのであれば、もうここは楽園の入口だ。

以上が、毎夜見る夢だ。医師のジョンは、これを〈ねじ式病〉の症状の一つと考えたいらしい。だが、違う。これはただの夢だ。いかなる意味においても、夢は夢以上の意味をもたない。

TZ(ねじの回転が始まる。ゆっくりと、しかし唐突に)

 ジョンはいつだって知ったふうな口をきくのだ。そのくせ何一つ真実になど気づいてはいない。
「夢が〈ねじ式病〉の症状だって? その心は?」
 彼は部屋の片隅で中世の騎士みたいにじっと立っている。
「同じ夢を見るというのは心が時間的な移動の一切を認識していないことの顕れとも言える。君はいろんな感覚がおかしい。過去と未来の区別もつかず、者と物の区別もつかず、それから……」
「もう結構だ。それを君は〈ねじ式病〉だなんて御大層なレッテルを貼ったわけだ。お医者様は立派なもんだな。どんな症状にもまず名前をつけて飼いならそうとする。それで、処方箋は?」
「さあ……だが、治療法はきっとある。たとえば、判で捺したように似通った毎日から抜け出す、とかね」
 フンッとジョンの台詞を鼻で笑った。とんだ茶番だ。
 ここ旧都立野方第三中学校校舎は、校舎の形状を維持したまま、さまざまなスペースに再利用されている。その一画、技術家庭科室の分厚いカーテンは、ふだんなら一切の光を通すことはない。そこには価値の高低に関係なく無数の古道具が並んでいる。古道具たちは総じて光を嫌うのである。
ところが、その午後は珍しく光を通してしまった。
「おい、光が洩れてるぞ」
「本当だね。でも僕のせいじゃない。カーテンのせいさ」
 ジョンはいつでも責任逃れだ。ご立派なお医者様だ。まあだが、実際こいつはカーテンの失敗か。あれほど一切の光を入れないようにと命じておいたのに、その命に背いて一筋の光を届けるなんて。
 その光はまず室内の埃を星屑に変え、次いで花瓶替わりのオーヴァルのボトルを尻の豊かな女に変えた。梟の剥製はそのまま飛び立ちそうになり、死に絶えた探検家の遺品らしき羅針盤は高速回転でも始めるかに見えた。眠れる王の目覚めるときが来たのだ。光は記憶を呼び覚ます。今では顔もおぼろな記憶の彼方に埋められた恋人の息遣いや、背中に爪を立てそうになるのを堪える絶妙な指の感触。
 修道院で醸造された崇高なるオーヴァルのボトルがボトルとしての役目を終え、花を生ける存在へとシフトしたように、カーテンもまた光を遮る役割を終え、光を差し込ませ記憶を呼び覚ます役割へとひっそりとシフトした。この小さなシフトは、むろんこの部屋の主の精神へと直接的にはたらきかける。
 まるで溌剌とした旅人の吐息が、アイオワ州の憂鬱にかけられたように。一筋の光がもたらしたのは鮮烈なイメージだ。そのイメージは完全なオリジナルではない。借り物のイメージと記憶とそれ以外によって生成された存在しない記憶のような何かだ。
「ある午後、女がこのドアを叩き、自分は旅に出ることになる」
「また始まったね。過去の光景かい? それとも、予言か何か?」
「知るか。死ね」
「今のは頭韻を踏んだの? しるか、しね」
 ジョンはこちらの毒舌をあまり気にする風が見られない。
 思考を遮るのはメメクラゲのノイズだ。ノイズはその前からずっとあった。メメクラゲはつげ義春に創造され、現代のテクノロジーによって再現された瞬間から、つねにノイズをこの部屋に提供している。それこそがメメクラゲの役割なのだ。もちろん、ノイズは邪魔をするばかりではない。時には重要な情報を与えもする。
 ある瞬間、そのノイズは意味をもつ。よくあることではない。とりわけ、この部屋の眠れる王のごとく何事にかけても無関心な人間にとっては。
〈先程閣議で元号を改める政令、および元号の呼び方に関する内閣告示が閣議決定をされました。新しい元号はれいわであります〉
 世事に疎いため、最初に抱いたのは「元号を改める?」という純粋な驚きだった。いったい何のために? 天皇崩御もしていない段階で平成が終わる意味とは何なのか? だが、こう疑問に思いながら、きっとこれらは世間的にはとうの昔に議論が出尽くしたトピックだということも容易に想像がついた。
「またお得意のメメクラゲから何かを受信したって?」
 あきれ顔でジョンが笑う。医師なら患者の症状にもう少し真摯な態度をとるべきだろうに。
「ああ、そうだよ」
「そのメメクラゲこそが、君を〈ねじ式病〉たらしめてるんだよ。そいつを壊せばいいのに」
「馬鹿野郎、君よりは役に立つ」
 黙らせて、いまメメクラゲが言っていたことを話してやる。
「平成の次は〈れいわ〉? へぇ? どんな字を書くのかな?」
「さあな。俺の偉大な脳内にはレイ・チャールズの『ホワット・アイ・セイ』が流れている。その渋い歌声に重なるようにして、ドナルド・フェイゲンによるレイ・チャールズへの挽歌『ホワット・アイ・ドゥ』もね」
「混線してるの?」
「知るか。しかし、『レイは~であります』の『~』にはどんな言葉が入ってもいいな。〈レイは歌手であります〉〈レイはファンキーであります〉〈レイは不滅であります〉〈レイはこの国の民ではないのであります〉……なあジョン、君も何か作ってみろよ」
 やめとくよ、とジョンが気のない返事をした時だ。ドアがノックされ、返事も待たずに一人の女が入ってくる。数か月ぶりの客だ。ここは野方駅から徒歩十五分の住宅街のなかにあるみすぼらしい廃校舎の離れ。体育館とプールの並びだが、いまやプールには水がなく、体育館はレンタルスペースで土日以外は無人のことが多い。廃校舎のほうも稀に物好きの写真家がヌード撮影に使う程度だから、実質定住者は我々だけだ。
「あなたが現代詩研究をされていたタナカさんね?」
「昔の話は忘れたね。今はしがない古道具屋だ。そこにいるのは相棒のジョン。まあ俺は相棒とも思っていないが」
「ずいぶんじゃないか……よろしくどうぞ」
 紳士ぶってジョンは挨拶をするが、女のほうはちらりとジョンに一瞥をくれただけだった。自分の用意してきた言葉だけで手いっぱいなのだろう。 
「でも古道具だって詩を詠うわ。あなたはその声を聞くことができるのよね? 言語には文法があるけれど、詩は文法を超越する。一般の人間には、非常に厄介で価値を管理しづらいものよ。さしずめ、あなたは魔獣使いみたいなものね」
 よく喋る女だ。顔はよく見えないが、シルエットや喋り方から育ちのいい女だとわかる。育ちのいい女はドアを開けてもすぐに入ったりせず、両手を手前に揃えて小さなバッグを持っているものだ。
「……誰にここを?」
「誰でもいいわ」
 表には〈ふるどうぐ ConTonDo〉という看板があるが、それも文字が薄れてアルファベットの部分はCとDしか読めない。誰も屋号が〈混沌堂〉であることなど知らない。しかも、まだ読める〈ふるどうぐ〉の平仮名表記のせいか一度などは今の恋人を振る道具はないのかと尋ねてくるサラリーマンが現れたくらいで、従来の古道具を求めて来る者も、売りに来る者も滅多には訪れない。
 では生計をどう立てているのかというと、今の時代はメメクラゲ内にあるオークションサービス、メヒカリである。メヒカリさえあれば売り買いはすべてメメクラゲで処理できる。ねらい目は誰も買い手がつかないが、自分には売り先を見つける自信のある出品を安値で見つけることだ。そのようにして生計を立てているので、メヒカリに足を向けて眠れないのだが、メヒカリが東西南北のどのへんにあるか判然とせぬためにまあそのへんは考えないようになった。
 やがてドアの外の光で彼女の顔が見え隠れする。想像上よりも顎が尖っている。整った顔だが、やや化粧が濃い。
「とにかく、あなたがタナカさんで間違いないのね?」
 そう繰り返す女は、どこか霧を思わせる。霧とメトロノームと、それからマスクメロンも。霧のイメージは透き通るような白い肌から。メトロノームは抑揚がなく、リズミカルなしゃべり方から。そして、マスクメロンは明らかに偽物とわかる胸からだった。歳の頃は、四十前後か。まあその年齢だとしたら若く見えるほうではある。
「まあやだわ、この部屋ったらまるで夜のフラスコの底のよう」
 ジョン・レノンと寝たことのある女みたいな台詞を言う。しかも古風な言葉づかいだ。山の手育ちか。小説に登場するとリアリティがないとかうるさいことを言われるタイプだ。
 ほかにも大きな特徴がある。心臓をかたどったイヤリングだ。奇妙でグロテスクなそのイヤリングも、なぜか彼女がすると機械の取扱説明書のように見える。通常はやんわりしていて、そのじつ見開くと大きくなる眼のせいか、推移を見守るような微笑のせいか。
「おい、君、見ろよ。心臓をかたどったイヤリングだぞ」
 ジョンが耳打ちをしてくる。
「わかってるさ」
「君の夢と完全に……」
「わかってる。君も医者なら少しは落ち着け」
「落ち着いていられるか……君の夢にしか存在しない女が僕にも見えているんだぞ?」
「夢の女はこんな老けてもいなけりゃ厚化粧でもないさ」
「過去にどこかで会ってるのかも。歳をとれば多少厚化粧にもなるさ! 彼女は君の症状を改善するキーパーソンかもしれない」
「黙れってば」
 何かが脳裏をかすめる。夢か、いつかの記憶か、それ以外か。
「聞いているの? あなたがタナカさんで間違いないのね?」
「いかにも俺はタナカさんだ」
 それは通り名に過ぎない。過去の名は過去に捨て、未来の名は未来に捨ててある。今のところのタナカだ。
「サトウでもナカタでもなくタナカさんだ。擦り切れ大匙一杯のタナカさん。俺がいない時はノン・タナカさん、もしくはタナカさんレスだ。そして、今はタナカ入り」
「私ったら運がいいのね?」
「そう思うのなら。とりあえず、ドアを閉めてくれないか」
 彼女は首を傾げつつも、それを拒絶する。心臓をかたどったイヤリングがふぁらんふぁらんと揺れる。
「断るわ。女は自分で身を守らなくっちゃ。それより依頼があるの」
「まさか襲われる心配を? 君は俺の好みじゃない。さあ閉めてくれ。虫が入ると嫌だ」
「春先に虫なんか入らなくってよ。まだ桜も咲いていないのに」
「依頼とか言ったが、ここは探偵事務所じゃない。古道具屋なんだ。使い古しの、市場に出回っていても大して価値のない代物を買い取り、それを必要としているべつの人間に売る」
「やあね、もちろん知っているわ。そして、古道具も持ってきたわ。どれくらい古いかわからないし、こんなものを必要としている人がこの世にいるのかどうかわからないけれど」
 彼女はストロベリーの板チョコを取り出して不定形にかじり、ゆっくり深呼吸をした。呼吸ができるのはいいことだ。ここにはよく死者が訪れる。死者は売られた古道具に一緒についてきて、そのまま居座るのだ。大抵、道具が売れるまでずっと居座り続ける。
 この古道具屋では物質は物を言うし、依頼人は古道具の不随物のごとく黙って物質と化していることもある。それでも持ってきた品を見れば、やり取りは成立する。ここでは、物と者の境目はなく、生者と死者の境目もほぼない。古道具が最新の道具より価値をもつので〈使える〉の定義もねじれ、あらゆる年代はカタログ化されている。加えて店主は時刻さえろくに確かめない〈ねじ式病〉患者だ。
 彼女はいささか古風な千鳥柄のバッグのジッパーをひらく。彼女はお高く止まってはいるし身ぎれいにしてもいるが、決して裕福ではない。それは服やバッグの素材やなんかが教えてくれる。いずれも最近の流行の型ではないし、ハイブランドでもない。
「これをごらんになって。まずは感想を聞きたいわね。元現代詩研究家で、古道具屋に転身されたタナカさんのご意見を」
 彼女がバッグから取り出したのは、かなり大きいサイズのボルトだ。家庭用の家具や電化製品に使われるものではない。もっと大きなもの……陸橋や鉄塔なんかに使われるものだろう。ところどころ錆びついているが、骨董というほど古くもなさそうだ。
「何を締めるボルトなのかしら?」
「このボルトに合った穴を埋めるためだろうさ。まあ、どのみち、売り物にはならなそうだ」
 実際、そのボルトは大きいという特性を除けば、鉄製のどこにでもあるタイプに見える。だが、それは一見したところの話だ。詩であれ古道具であれ、ちらっと見ただけでは何も語りかけてくれない。
「そんなどこの古道具屋でも聞けるようなことが知りたくてここへ来たわけではないのよ。おわかりでしょ? タナカさん、あなたの噂、本当でらっしゃるのよね? 古道具の言葉がわかるって」
「そんなとくべつなものじゃない。蜜柑を食べれば産地が想像つくのと似たようなものだね。産地だけじゃない。農家でどんな扱いを受けてきたのかすらわかる。注意深くモノを食べれば、実際誰にでもできることだ。俺はそれが古道具相手にもできるってだけさ。これだって、誰にでも本来は備わった能力だ」
「でも私の周りにはいないし、私もそんな能力はないわ。あればここへは来ていない。じつのところを申し上げるとね……」
 そこで女はもったいぶって言葉を切り、また息を吸い込むと、覚悟を決めたようにゆっくりと息を吐きながら言葉を逃がした。
「私も古道具の言葉自体は、わかるの」

TZZ(ゆっくり回す。急げば二度と抜けない)

「おいおい、君以外に〈ねじ式病〉患者が現れたぞ……これはよくない。精神病患者は共同幻想を抱くことがあるんだ……」
 またジョンがつまらぬ心配をごにょごにょと耳元で囁く。
「君は医者だろ、ジョン。少しは落ち着け」 
実際少しばかり驚いてはいる。自分以外で、物と者の境目を設けない人間に出会ったのは初めてだ。読書が趣味だくらいのありふれた共通項で盛り上がるのとはわけが違う。
「つまり、君も俺と同じ能力があるわけか?」
「同じではないわね。私にわかるのは言語でしてよ」
「言語?」
「つまり、古道具には古道具の言語があるでしょう?」
「ああ、まあ……」
 文法に自覚的なのは外来語を身につける時。物心ついた頃にすでに〈ねじ式病〉に罹患していた自分は、古道具の言語に意識が向かない。彼らのコトバは空気のように当たり前にあるものだから。
 鳥の色の似るのすぐのよ。
 女の会話に割り込んでそう呟いたのは十八世紀に製造されたらしいトライアングルだ。このトライアングルはちょっとした声に共鳴して思っていたことを意味もなく口走る。たぶん、今のもあまり意味はないのだろう。女の客の時ほど口数が増える。
「たとえば今、どなたかお話しになられたわね」
「そこのトライアングルだよ。大きな壺の隣のそれだね。そいつはベートーヴェンが使っていた代物だ。二等辺三角形をしてるだろ? 最近のは正三角形だが、あの頃は違うんだ」
するする女のお化粧のお尻。
「いまのはあまり気にしなくていい。十八世紀生まれのくせに、基本的に思考は小学生男子よりしょーもない」
「大丈夫。人間に興味があるのね」
 女は上品な微笑を向ける。
「主語や述語の順番はどうでもよくてらっしゃるようね。でも一応の意味はわかる。たぶん私のお尻に触ってみたいと言ったのよね?」
「まあ、表層的にはそうだ」
 本音は違う。このトライアングルは、女の尻に触ってみろとこっちにけしかけているのだ。最初の〈するする〉というのは、強い憤りを示す。谷川俊太郎並みに怒っている。どうして早くやっちまわないんだ、と。
「私にわかるのはそうした文法から読み取れる表層的な部分だけなの。古道具の詩学となるとちんぷんかんぷんよ」
 女は誤解している。古道具たちは詩なんて高尚なものは話さない。ただ、言語というツールは彼らの意志を伝えるにはいささか遅すぎるだけなのだ。彼らは動きたいと伝えた時にはすでに怒っている。なぜ動かさないのだ、死にたいのか、と。過剰な欲求が背後にある。それを詩というのなら、たしかに古道具にも詩学はあるのだろう。
「そんなわけだから、このボルトが何を言っているのか、私にはさっぱりわからないのよ」
 女はボルトを手渡す。まずは触れてみなければわからない。ためしにボルトを手にとり矯めつ眇めつ眺めてみる。最初のうちは囁くようにしか語らない。場に緊張しているのか。単に声を届ける気がないのか。だが、掌の上を嫌っているわけではないことはわかる。
 ウラン……プォケシ……テクダーッス……モ。
「何か伝えたいことがあるのかしら? 文法を構成しないの。たぶんあまり話す機会がなかったのね」
「大丈夫。長いあいだ役割から離れているとそういうことが起こる」
 根気よく声を聞き続けるが、真新しいことは言っていない。
 ウラン……プォケシ……テクダーッス……モ。
 同時にもたらされたのは何者かの荒い息遣い。このボルトの吐き出したイメージだ。その後に、原風景が広がる。とぐろを巻く蛇。
 それから、高い塔。ぎゅあああごうおおおおおお。塔の悲鳴。その悲鳴に驚き、悲しむ者たちの合唱。やめてやめてやめてやめて。何かが、その塔で起こった。このボルトは、その一部始終を見ていたのだ。再び荒い息遣い。それから、またボルトが話す。
 シノカイ……テンガァアアアアアア………
「言いたいことはあるが、話し慣れていない。赤ん坊と同じだ」
 ボルトが吐き出してくる映像や音が記憶なのか単なるイメージなのか。古道具の中にはつねに存在しない記憶が溢れている。奴らこそ〈ねじ式病〉じゃないか。しかも、その記憶はいつの間にか、こちらの記憶やイメージと接ぎ木され、それもまた区別がつかなくなっていく。自分が考えていたことか、古道具が考えていたことか、その区別がつかないのだ。まったくこんな迷惑なことはない。
 だが、そう嘆くといつもジョンは言うのだ。「でも君の場合はそれを飯の種にもしているから困ったね」と。そう。たしかに、〈ねじ式病〉でなければ、この仕事は成り立たないのだ。
 回転するボルトのイメージ。それから、唐突に挟み込まれる。
 76
 はっきりとした数字。小数点以下はない。何かが脳に訴えかける。その数字が意味するところを知っているという圧倒的予感。予感は経験則による場合もあれば、そうでない場合もある。者と物の区別がつかないように、その区別もまた難しい。
「わるいけど、やっぱりさっき言った以上のことはわからないね。とにかく、売り物にはならない。帰ってくれないか」
「……後悔しても遅くってよ」
「後悔をしない主義でね」
「主義でどうこうならないこともあるとは思わないのかしら?」
「生意気な女はきらいだ。出て行けよ」
「あなたが答えを出すまで、絶対に帰らない。それに、あなただってそのほうがよろしいんじゃなくって?」
 女はおもむろに椅子に片足を乗せた。長いスカートから不意に白い脚が現れる。女を最後に抱いたのはいつで、次に抱くのはいつだったか。片田舎の停車駅に佇むみたいに、ぼんやり白い肌を見る。
 ぬめぬめ牛乳のこぼすこぼす飲む。
 トライアングルがまた騒ぐ。わかってる、という意味で軽く頷いてみせる。あのぬめぬめと白い牛乳が零れ落ちる前に飲み干せ。だいぶ世話好きなトライアングルだ。
「あの……オホン……僕はどうすれば……」
 ジョンが赤面しているので、仕方なく準備室に追いやる。
「ねえ、これは医師としても友人としても忠告するけど、あの女はやめておいたほうがいい」
「判で捺したような日常から抜け出せと言ったのは君だ。それにあのイヤリング。夢を解析するキーパーソンだと言ったじゃないか」
「だけど……こんな関り方とは話が違うよ。だいたい好みじゃないって言って……」
「黙れ。とにかくそこで大人しくしてろ」
 それからオフィスに戻って彼女と対面する。彼女はストッキングを脱いだところだった。
「朝からずっと穿きっぱなしで苦しかったの。ああラクになったわ」
 女は椅子に足を組んで腰かけたかと思うと、こっくりこっくりとうたた寝を始めた。あるいは、そういう演技を始めた。
「つか……れた……何も……かも……」
 静寂が戻ってくる。ここにあるのは女の寝息と、古道具たちの囁き声。すう、すう/雨なめ冷めダメ/春来たるらし白妙の肌の嗅ぐ夜/ぬめぬめ牛乳のこぼすこぼす飲む/すう、すう/魔愚賄魔愚賄の法華経びすびすしすれば/ス・ソン・デ・ガン/カルペ・ディエム……。
 最後のはホラティウスの引用か。その日の花を摘め。大型の花瓶だろう。あいつはギリシアの街からやってきた。
 掌のボルトを、そっと左手でねじってみる。あたかも、掌に埋め込もうとでもするように。すると、さっきよりも話しやすいのか、ボルトは饒舌になる。
 ジャック……ノア……メガ……ラン……
 さっきのものも含め、ボルトが話したすべての言葉をノートに書きとる。実際にそれは言語なわけではない。音ですらない「風合い」または「雰囲気」みたいなものだ。その得体のしれぬものに言語を適当に当てはめて「コトバ」として読み取る、のだろう。「のだろう」というのは、そのへんの感覚が昔から自動的にできてしまっているからだ。
 ウラン……プォケシ……テクダーッス……モ
 シノカイ……テンガァアアアアアア………
 ジャック……ノア……メガ……ラン……
 物質にもやはり各国の言語の影響は見られる。多くは製造元や長く過ごした土地の言葉に影響を受けている。この文字列で、言語を特定できる部分があるとすれば、「シノカイ……テンガァアアアアアア………」の部分だろう。「死の回転が」と言おうとしていたのかも知れない。回転はボルトの基本運動。だが、「死の回転」とは何だろう? 「死のドライブ」なんて言い回しが人間の世界にはある。ボルトの世界では、それに代わる言い回しが「死の回転」なのか?
 女がわずかに寒そうにする。仕方なく抱きかかえてソファに横にならせ、毛布をかけてやろうとするが、その刹那、女が首に手を回してくる。疲れたのではなかったのか? それとも疲れたがゆえか。
 このようにして、長きにわたる断交期間は終わりを告げる。トライアングルの囃し立てる声を聞きながら、物質もまた人間と同化するのかも知れない、と考える。だとしたら自分はいまトライアングルの煽りに乗って物質の領域に足を踏み入れたのか。
 やがて物質も人間も何も言葉を発さない時間がやってくる。まるで肉体疲労が伝染したみたいに、誰もかれもが黙っている。
知っている静寂と初めての静寂を分けるものは何だろうか? この静寂は知っている。だが、そう感じるのは自分なのか女なのか。女と自分の思考にも、いつの間にか境目はなくなっている。いい仕事だったわ、と女が言った気がしたが、それは思考が流れてきただけかもしれなかった。
 ──この部屋ったらまるで夜のフラスコの底のよう。
 女の言葉が思い出された。あるいは本当にこの部屋は夜のフラスコの底なのかもしれない。ユイスマンの『さかしま』の主人公の部屋以上に内省的で、そのくせ何一つ顧みるところのない部屋。
 こんな夜には自分のつまらない半生が思い返される。ふだんは思い返そうにもそのほとんどをじつは忘れてしまっている。経験した先から忘れてしまうのだ。苦しみも楽しみも、忘却の前では等価だ。すべては忘却という処刑執行人に首を斬られる。
 だが、今夜はなぜか過去がよみがえったような錯覚を抱く。それは連日見続けているあの夢が、過去に成り済ましただけなのか。久々に女の皮膚を指に馴染ませたせいで、機能がおかしくなったようだ。 
 拭き取ってやった涙の記憶は翌日までもたないのに、拭えなかった涙の記憶は永遠に付きまとう。あの女は何を求めたのか。言葉とは裏腹の感情に、なぜ自分は想像を巡らさなかったのか。
 あの時──どのときだ? わからない。やはりこれは記憶のなりすましに過ぎないのか。夢は夢でしかない。
 だが、同時に分析的思考が働く。待てよ? 〈夜のフラスコの底〉だって? 急いでベッドから這い出ると、かつて現代詩研究をしていた頃の書棚の前に立ち、本の背表紙を眺めてゆく。不思議なもので書棚を整理したのはもう十年近く前のことだというのに、すべての配列を記憶していた。その中から『高田敏子詩集』を取り出す。
 最初に収録されている「夜のフラスコの底に」という詩に目を通しかけた。
 ところが、その前に、不意にオフィスの鍵穴に硬質な金属が差し込まれる音がする。鍵よりも小さくて細いものが差し込まれたのだ。耳の痒みを探るみたいにいつまでもがちゃりがちゃりと鳴る。
「誰か来たよ」
 準備室からジョンが小声で言う。軽く頷いてみせる。
 こんな夜中にドアの鍵穴で遊ぶ者が現れるなんて、これまで一度もなかった。泥棒が喜ぶような代物は何一つありはしないのだから。だが、鍵穴を引っかき回す音は止まない。やがて、カチン、という愉楽の響きが届けられ、ドアが開く。入ってきたのは男だ。男は手に細い針金をもっているが、もう不要なのか、ぐにゃぐにゃに折り曲げてポケットにしまう。
 それから口笛を吹き始める。ここに誰もいないと信じているかのように。だが、そうではないことがやがてわかる。彼は灯り一つ灯らぬこの部屋で、正確に、この眠れる王の居場所を掴んでいたのだ。男はソファの前にやってくると、あたかも安眠を与えんとするかのように殴打を繰り返した。その一撃一撃には感情や躊躇いが感じられなかった。男はただある一定のリズムを刻むようにして、殴打を繰り返し、反応を見て手を休めた。
「ボルトをどこへやった?」
 男の尋ねる意味がはじめはわからない。
〈れいわ〉の元年に、なぜ自分はこんな目に遭っているのか。一方で男にしてみれば、〈レイは、ボルトをどこへやったのであります?〉と問いたいところか。レイ・チャールズの名誉のために答えねば。
「そんなものはここにはないね」
 内心ではベッドの女が目覚めないことを祈っていた。しょうじきに答えることがどんな結果を生むかは想像に難くない。五、六発の殴打を受けて倒れこんだところでさらに腹部に三発の蹴り。これで嘔吐を催さなかったのは奇跡だった。
「女がここを訪れたことはわかってる」
「彼女は何も持ってきてはいない」
「本当だな? 信じよう。こっちは忙しいんだ。ボルトを七十六本集めなけりゃならないんだからな」
 七十六という数字が引っかかる。それはさっきボルトが話した数字でもあった。
 そこで意識は途絶えた。男がふたたび殴打したからだ。
 遠のく意識のなかで、最後の男の言葉が聞こえた。
「代わりに、女の命だけもらっていく」

TZZZ(できるだけ深く。さもなくば、抜けてしまう)

 七十六のボルト。その言葉が何を想起させるのか。記憶はルーレットに似ている。ある時には思い出せなかったものが、あるべつの瞬間には当たり前のように思い出せたりする。
 脳内はずっと一人の女を映し出している。またあの夢か。
 ──わかっていた。いつかあなたの心が離れていくって。
 夢の中の台詞から意味を掘り起こそうとも思わない。たとえ、それが過去に実際に誰かが自分に吐いた言葉だったとしても。
 長年、蓋をすることを強いられすぎて掘り返すことに意味を見出せなくなった。
 体を起こし、ベッドで顔をクッションに押しつけたまま女の身体が冷たくなっているのを確かめた。男は自分の言葉を実行に移したのだ。
 ──代わりに、女の命だけもらっていく。
 ずいぶんな目に遭ったようね。
 自分の惨状を棚に上げて、物質と化した彼女はこちらを気遣う。
「おかげさまでね。君のボルトのせいだ」
 でもあの男、ボルトは見つけられなかったみたいね。うふふ。
 灯台下暗し。私を処女とでも思ったのかもね。
 なるほど、その通りだろう。死体をまさぐり柔らかな渓谷に埋め込んであるボルトをそっと掘りだす。ここでは回転は必要ない。思い付きの遊戯が、結果的には男からボルトの在処を隠したのだ。
 そろそろ私帰らないとだわ。とにかく無事でよかったわね。
 彼女は死体となったことを認識していない。曖昧に頷きつつ、こちらは荷物をまとめる。もうここにはいられない。戻らない旅に出るのだ。準備室のジョンにも声をかける。ジョンはすでに身支度万全で、早く早くと急かしてくる。
 財布と通帳、少しの着替え、髭剃り、歯ブラシ。あともちろんボルトと長らく使っていない電動レンチ。それから少し迷って『高田敏子詩集』と、トライアングルも鞄に入れた。
「一つ教えてくれ。君はこのボルトをどこで手に入れたんだ?」
 遠い昔に譲り受けたのよ。大切な人から。私をどうするの?
「……連れていく。置いてはいけないからね」
 まあ逃避行。
 深い溜息をついたのは、自分だったかジョンだったか。ささやかな吹き溜まりの日常が終焉を迎えたからではない。自動車の運転について考えを巡らせたからだ。
「ジョン、運転しろよ」
「無理だよ。免許がない」
「俺は免許はある。だが〈ねじ式病〉患者が運転していいのか?」
「ほかに方法がないなら仕方ないよ」
 都合のいい医者だ。校庭に佇む中古のマークXを前回走らせたのは何年前のことだったか。ジョンが早口でまくし立てる。
「七十六のボルトって何のことだろうね? わかる?」
「七十六のボルトと言ったらそりゃあ……」そう言っているうちに次の言葉が降ってくる。「そりゃあ坂出送電塔倒壊事件に決まってるさ。一九九八年に起こった。覚えてないか?」
「いや、記憶にないね。何しろ九八年なんて……」
 ジョンの言葉を遮り、ボルトに尋ねた。
「君の出身は坂出か?」
 漆黒……CarがWar……ノードン……ツル。
 四国。香川のうどん。つるつる。昨日より、聞き取りやすくなっている。続けて尋ねる。
「君は坂出の送電塔にあったボルトだね?」
 ソウデン……トゥ……タオレル……ナミダ……。
 坂出送電塔倒壊事件を思い出したのは、七十六という数字がものを言ったようだ。あの事件では、ボルトが八十本中七十六本抜き取られたのだ。
 奇妙だ。なぜこんなことがすらすらと言えるのか。記憶喪失者のつもりはないものの、それ自体が意外なことに感じられる。東京にいる自分がなぜ四国の事件を記憶しているのか。興味深い事象だ。
 ボルトがもたらした記憶、イメージが流れてきただけとも取れるが、何にせよそれはもはや己の記憶と区別がつかない。借り物のイメージでも、真実の匂いを伝えてはいる。無視はできない。
 メメクラゲにワードを入力して情報を摘出する。
「坂出送電塔倒壊事件はそれなりに有名な事件みたいだな。九八年の二月。坂出市で高さ七三メートルの送電塔が倒壊し、一万七千世帯に及ぶ大停電を引き起こした。原因は送電塔を支える八十本ものボルトのうち七十六本が抜き取られたことにあった。ところが、県警はこのボトルの抜き取りに気づかず、当初これを自然災害が原因の事故だと考えていたために現場の管理がずさんで、重大な証拠となるこれらのボトルもカメラマンやその他の者によって多く持ち去られてしまったのだった」
「君はメメクラゲのメメペディアなしじゃ生きられないね。重症な〈ねじ式病〉だと思うよ。できるだけメメクラゲから距離を置いたほうがいい」
「メメクラゲは君よりよほどいいことを言うぜ? ところで、ボルト、君は高田敏子の詩を知っているか?」
 トシコ……ナイ……シル
 覚束ない言葉でボルトは答える。高田敏子は知らない。だが、その詩を、ボルトはどこかで覚えたはずだ。
「君が昨日口にした言葉の一つ一つを昨夜考えていた。ウラン……プォケシ……テクダーッス……モ。これは、リピートするうちにわかった。〈うらんぷぉけしてくだぁっすもうらんぷぉけしてくだぁっすもうらんぷぉけしてくだぁっすもうらんぷぉけしてくだぁっすも〉。これは〈もうランプを消してください〉と言おうとしたんだろう?」
 ウラン……プォケシ……テクダーッス……モ
「そうなんだな。よしよし。次だ。シノカイ……テンガァアアアアアア………。これは、〈死の回転が〉と読める。だが、その前の〈もうランプを消してください〉と合わせたときに、俺は高田敏子の『夜のフラスコの底に』という詩を思い出した。この中に、〈私の回転が始まる〉という一節がある。これを君は覚えていたわけだ。そう考えれば、ジャック……ノア……メガ……ラン……も〈静寂の雨が私の体を浸し〉という部分と気づいた。君はどこかで『夜のフラスコの底に』という歌を思い出した。そこまで考えて昨日ここへ来たとき、君が呟いていたことを思い出した」
 いまだベッドに横たわる女の死体を見る。私が? 急に話題を振られ、女は驚いているかに見える。
「君はこの部屋のことを、夜のフラスコの底のようだと言ったんだ」
 そうだったかしら。お忘れなさいな。
「君は高田敏子が好きなのか? そもそもこのボルトとどんなつながりが……」
 ああもう私帰りたい。私ここ嫌いなのよね。
 仕方なく、女の死体を抱えて外に出る。まだ外はほんのり青い光を放っている。久々に開けたトランクにはムッとするような空気が籠もっている。ビニールシートを敷いてから女の遺体を横たわらせる。
 お姫様みたい。でも早くしてね。会社に遅れるのよ。
「その心配はなさそうだ」
 トランクを閉める。まずはここからいちばん近い海へ。その後、四国へ向かう。ざっくりとした計画を立てると、運転席へ向かった。ハンドルの下にキーを差し込み、回す。
 おひささささささささぶりしっくす。おかませあれっくす。
 ご機嫌な調子でマークXが言った。
「オーライ、兄弟。俺たちはみんなファミリだ。仲良く行こう」

 ZZZZ(底に辿り着いたか。それは本当か)

 明け方の五時に海で死体を捨てた。
 大きな石を括りつけ、投げ入れる。
 メイクの時間だってこれからなのに、ああもう私ったらがぼぐぶぐぶぐぶぐ……。
 女は最後まで出勤準備の心配をあれやこれやと考えていた。最後にお休みのキスくらいしてやればよかった。だが、それどころではない。女は両手にありあまるほどの災厄を押し付けて死んだのだ。
 女のいなくなった後の車内は静かだった。みんな自分たちのしでかしたことの重大さについて考えていたのだろう。やがて、ジョンが口火を切った。
「ねえ、四国でその送電塔を見つけたって意味がないと思うけど?」
「こっちは命を狙われたんだ。その周辺で聞き込みをすれば、昨夜現れた男の正体もわかるってもんさ」
「そうかな……」
「それに見ろよ、このボルトを。しょぼくれちまって。元の場所に戻りたくって仕方ないのさ。こいつにとっちゃその送電塔は親も同然だ。そうだろ?」
 会う……たい……会う……たい
 本来なら、ここでボルトも捨ててしまいたかった。だが、なぜかできなかった。
 久しぶりの朝日を受け、細胞が覚醒するような感覚を抱く。光は一瞬で体内をすり抜けてゆく。これはいつかの光だ。親のいぬ間にだらりと寝そべっていた高校一年の春休みの光に似ている気もするし、もっと昔、幼稚園の頃の昼下がりにも似ている。
 が、さすがに運転席で光を浴びすぎると、昼頃になると疲労へと変わってくる。仕方なく、諏訪湖のサービスエリアで仮眠をとることにした。眠る前に缶コーヒーを買いにコンビニに向かった。
 尾行されている気配はない。だが油断は禁物だ。昨夜の男がボルトを狙っているかもしれない。
 土産物コーナーには携帯やピッチの充電器のほかに、フジフィルムの使い捨てカメラの自販機がある。そこを通り過ぎてカセットテープのコーナーへ向かった。こういう場所では来生たかおが存外幅をきかせていることには毎度驚かされる。迷いつつ、来生たかおと井上陽水のベストセレクトを購入した。
 それから車に戻り、来生たかおを流しながら眠ることにした。
「今頃来生たかおもないもんだ」
「馬鹿だな。『夢の途中』なんて泣くぞ」
 エンジンはかけたまま。時刻は夕方の四時。仮眠をとるには日差しの強すぎる嫌な時間帯だ。なぜこんな時間を選んだのか。だが、これ以上運転すれば、睡眠へとうっかり移行するのは間違いなさそうだった。年々、通常の状態から睡眠状態への境目が消えかけている。
 レムとノンレムを行ったり来たりしていると、カセットが終わる。リピート再生にしていなかったせいか、自動的に車専用メメクラゲから音楽が流れ始める。最初はキリンジの「ストレンジャー」、その後にSuchmosの「ミント」、コーネリアスの「point of view point」とまったくつながりのなさそうな選曲が続いている。
〈それではお聞きください。GRAPEVINEで『そら』〉
 懐かしい楽曲。だが、〈懐かしい〉とは何だろうか? その感覚は、何らかのパースペクティブが自分の中にあるということだ。だが、実際はその楽曲と現在との距離感さえ定かではない。なのに、GRAPEVINEというバンドの名を聞いた瞬間、何とも言えない愛おしさが込み上げる。その感覚は、トンネルの中に描かれた二度と落とせないスプレーの落書きみたいにしっかりと心に跡を残している。
 窓をノックする音がしたのはその時だった。ファミリはもうみんな眠っていた。目を開けると、明らかにまだ十代だとわかるショートヘアの少女が立っている。漲る若さは、デニムのジャケットの下のタンクトップから覗いた胸元のサイズを恥じたりはしていない。窓を開ける。足元のやや綻びのあるルーズソックスから年齢及び経済力がわかる。
「駐車違反はしてないはずだが?」
「それ、冗談なん?」
 彼女は車内を覗きみる。よせ、ファミリが起きたらどうする。
「ふうん、なんや埃っぽい車やね」
「警察じゃないなら閉めるぞ」
「え、ちょっと待ってよ。乗せてほしいんやけど」
「なぜ?」
「なぜって、それは車がないからやね」
「ここはサービスエリアだ。車なしでは入れない」
「ヒッチハイクで乗せてくれたトラックの人がここで降りぃ言うて……やけん困っとるんよ」
「俺には関係ない」
「やろね。でも乗せて言うとる。乗せたら、そこで関係が始まる」
 少女の話し方に興味を引かれた。訛りはともかく、その話法に、独特のものを感じる。
「どこへ行くん?」
「君はどこまで乗せてほしいんだ?」
「『キミ』ってなんや東京のひとみたいやね。行き先は決めとらんの」
「ここは下りのサービスエリアだ。つまり君も下って来たんだろ?」
「その推測はハズレやね。三日前から、いろんな人に乗せてもらって、東へ進んだら、また西に戻されての繰り返しよ。その人たちの行き先についてっただけなんよね」
「それじゃ、いつまで経ってもゴールに辿り着けない」
「ゴールなんてないもん」
「家出か?」
「かもしれんねぇ」
「君は何歳だ? そのルーズソックスから想像はつくが」
「言うたら警察に連れてく気なんやろ? 言わんし」
「危ない橋は渡りたくないね」
「橋は渡らんでええの。ただ、乗せてってくれたらそれでええの」
 少女はそれから何を思ったのか、バンダナを取り出す。長い長いバンダナだ。それを目の辺りに巻き始める。
「うちは何も見えん。フェアやろ? キミの行くとこへ連れてって」
「どこでもいいのか?」
「……橋を渡る時は教えて。それがどんな橋でも絶対に」
 それで契約は成立した。バンダナで目隠しした少女をずっと脇に立たせておくわけにもいかない。助手席のドアを開けて彼女を中に入れた。後部シートで眠っていたジョンが目覚める。
「え、だ……誰? その子」
「ジョン、少し黙っておけ」
「ジョン?」少女が不審そうに後部シートを振り返る。どうせ目隠しして何も見えないのに。
「後ろにいるのが、ジョン。元自衛隊員の医者だ」
「どうも……よろしく……」
 少女は前を向き直る。それから、体を揺らし始める。
「『そら』やね。名曲」
「好きなのか?」
「もうバイン一筋やけん。一生、バインと生きてく」
 来生たかおの時に来なくてよかった。
「好きなバンドがいるのはいいことだ」
「これ、何? ラジオ?」
「メメクラゲ」
「メメクラゲ……?」
 まだまだメメクラゲは知られていない。つげ義春の生んだ偉大な発明品が一般的な認知度を得るにはあと五十年は待たねばならないのか。「れいわ」の時代でこそメメクラゲは需要が高まるだろう。
 ふんふんふふん。少女はハミングする。あまり歌は上手じゃないようだ。今のところ少女の目だった長所は、細かいことを気にしない、ということに尽きる。
「うち、キミが気に入るようなことはあんまりできんのよ」
「俺が気に入るようなこと?」
「そういうこと、運転の最中にさせたがる人多いやろ?」
「ブレーキ不意に踏んだせいで切断なんてことになりたくないから要らない」
「そう言うてくれてよかった。うち、八重歯が鋭いんよね。なんや当たると痛いらしくて」
「聞いてないことをぺらぺら喋るなよ。下ろすぞ」
「いま何メートル走った?」
「まだゼロ。エンジン音を聴け」
「バインしか聞こえん」
 騒がしい旅になることは確定した。少女は実際、じつによくしゃべったが、音楽に疎くて、メメクラゲから流れる音楽の大半を知らず、その音楽の時代背景について語っても、その時代に関する知識がそもそもなく、異世界の話でも聞くようにひたすらよくわからない声を上げていた。

 ZZZZZ(あと何回転できるかが問題だ)

 仮眠の予定を切り上げて、走り出すことにした。夕方六時くらいか。だがそれが朝の六時であったとして何か困ることがあろうか。
 たとえばこの後一秒先に進むのであれ一秒後ろに戻るのであっても、自分は困らないだろう。〈ねじ式病〉患者だからか。
「何が好きなんだ?」
「うち? 『アメリカの鱒釣り』。『雲が電線を揺するので、どうにもならない』ってとこがいいんよねえ。何やろね? どうにもならんって。あはは。しかもその後の一文がええんよ。『こうして、わたしは女と寝た』。朝まで笑い転げよったし」
「ブローティガン?」
「作者名は忘れた。大事なん?」
「いや、どうかな」
「あとは映画の『サクリファイス』」
「タルコフスキー」
「ん? 何が好きぃやて?」
「何でもない」
「それと……ああ詩も好きやね……いろいろ読む」
「どんな?」
「わからん。忘れた。場所とか時間とか空気とか……記憶ってそういうもんと結びついとるやろ? やけん、そういう瞬間にしか思い出せんのよ」
「だいぶ特殊な脳だ」
「そう? ふつうよ、ふつう」
 そうかもしれない。あらゆるものに境界線を作らない〈ねじ式病〉の自分のほうが特殊といえば特殊だろう。こうしている今は少女の思考が、下水を伝ってネズミと共に流れてくるような気がする。
「話しながらまたバインがかからないかな、と思ってるね?」
「そらそうよ。もうビーズはこりごり」
 ちょうど「ゼロ」がかかり始めたところだった。数分前には「裸足の女神」が。テーマが〈平成の三十曲〉だからだろう。
「ビーズって男子みんな好きなんよね。うちも好きやった。いま聴いても好きやなぁとは思う。でもビーズが好きっていう子はみんなまっすぐでみんなちょっとアホなん。なんでやろか」
 ビーズは平成とともに誕生した。その歴史はほぼそのまま平成史といっても過言ではない。TMネットワークが辿るはずの栄光はビーズが奪っていった。そのごりごりのアメリカンロックの華やかな部分だけをエキスにした音楽は、ある意味でバターの上からジャムを乗せるみたいにJ‐POPを塗り替えたのだ。その支持層は宇宙を埋め尽くさんばかりだ。
「エーキチファンほどじゃない」
 オホンとジョンが咳払いしたのは、奴がエーキチファンだからだ。
「えーきち? 誰それ?」
「忘れろ。君は作家や映画監督の名前は意識しないくせに音楽は誰が歌っているか意識しているんだな」
「そらそうよ。だって歌手は神やけん。じぶんの神の名前はみんな知っとるもんやろ?」
 自分には神がいるだろうか? ふとそんなことを考える。いた時期もあった。ステファヌ・マラルメ、ポール・クローデル、レーモン・クノー、レーモンド・カーヴァー、アレン・ギンズバーグ、チャールズ・ブコウスキー、それと鮎川信夫……。
 だが今はどれも捨て去っている。ワイルドターキーか、さもなくば無花果だろうか。梨もいい。梨か無花果かワイルドターキー。あとは濃い珈琲か。こうして考えてみると、近年の自分は見事に活字との間に距離をとって生きてきたことがわかる。
 我々はその後もメメクラゲから流れる音楽をネタに会話を交わし続けた。それ自体は、少しずつ互いの齟齬を理解し合うようでもあり、楽しい行程でもあった。ときどきはジョンも会話に加わったが、だいたいにおいて少女は自分との対話を求めていたのでジョンは拗ねた。まあそれは仕方ない。

 ZZZZZZ(回転が止まったら風景を見よ)

 やがて、我々は吉備サービスエリアに停まった。彼女は現在地については何も尋ねなかった。トイレの前まで、目隠ししたままの彼女を連れていって多目的トイレに案内してやると、彼女はなぜか自分をそのゆったりしたスペースに招き入れた。ここは、多目的となっているが、あらゆる目的を想定しているというわけではない。
「ねえ、ほんまにせんの? ええのんで? 病気がこわいん? せやったら大丈夫よ。うちまだクラスメイトの子くらいしか知らんし」
 彼女は用を足しながらそう言った。ちょろちょろと彼女から滴る雫の音が川のせせらぎのごとく心地よい。生温かい甘みを含んだアンモニア臭が空間に広がる。
「病気は心配はしてない。でも足りてるんだ。いまのところね」
 事務所に現れたあの女との濃厚な絡みがまだ身体にまとわりついている。若い頃は水を飲むようにいくらでもこなせたが、最近ではひと月に一回でも多いと感じる。実際に自分の身体を用いて誰かと交わるとなると、時間も費用も体力も相当消費する。それだけのモチベーションを維持できないのだ。
 だから女とのセックスは僥倖で、あれを一とカウントするなら、もうここから当面のセックスは無用の産物だった。たとえタダ同然でもごめんだ。
「それより、太腿にある青痣は誰につけられた?」
 彼女は下着を上げて、水を流す。
「その話は嫌や……今はしたくないんよ。それではいかんの?」
「べつに。君の好きなように。なら、何の話が……」
 最後まで言わせずに少女の唇が重ねられた。二日続けての性交は象の大群から逃げ回るよりハードだ。しかも前日の相手が死者となっているような場合はとくに。今はまだ接吻という単純な接触行為に、つねに死のイメージが張り付いているのだ。
「やめよう。君とはやらない」
「車でなら?」
「しない」
 ちぇっと舌打ちする少女を引きずるようにして車内に戻る。
〈多目的〉にはセックスが含まれていない。対して自動車には〈多目的〉とはついていないが、セックスの場として容易に機能する。幸い、すでに日も高くはなく、フロントウィンドウをシェードで隠せば、サイドウィンドウは周りからは見えづらい仕様になっている。トライアングルが鞄の中で騒ぎ立てる。
 車ゆれるの包まってゆれるの悪魔来るまでゆれるの
「揺れない。何もしない」
「誰と話しとるん?」
「いや独り言」
 ふたたび抱きつこうとする少女を離す。
「一夜明けて、君が目隠しを外してなお気持ちがそのままなら、考えよう」
 高鳴る心臓を鎮めた。
 不意に思い出す。事務所に現れた女の両耳で、心臓を象ったイヤリングが揺れていたことを。
 心臓を象った──ああ……そうだ、それもまた高田敏子の詩のイメージだった。
 車を走らせる。
 窓の外では、満月がぴたりと後をついてくる。まだ彼女はバンダナで目隠しをしたままだが、闇の濃さは認識しているのだろう。
「そのやかましい女の子に子守唄でも聞かせてやったらどう?」
「黙れよ、ジョン。嫉妬か?」
「ば……馬鹿な……」
 ジョンはすぐ恥ずかしがる。一方の少女は、ふてくされたように助手席のシートを倒し、こちらに背を向けて身体を横たえている。
「夜のフラスコの底に私は横臥する」
「……どこでそれを?」
「忘れた。でも、好きな詩なんよ」
「高田敏子」
「昭和くさい名前」
「昭和生まれの詩人だ。平成元年に死んだ」
「高田敏子さんはビーズを聴いたんやろか? 元年やったら『バッドコミュニケーション』くらいは聴いたかもしれんねぇ」
「かもな」
「『レディ・ナヴィゲーション』は平成三年やったっけ? 高田敏子へのやや遅れた挽歌やったんと違うやろか」
「強引すぎる仮説だが、昭和において主婦詩人と呼ばれ、女性の日常風景を描いて有名になった詩人だ。女性の時代の微かな萌芽が芽生えた時代と無縁ではない。そういう大きい意味でなら、ビーズと高田敏子は遠縁の親戚にしてもいいかもしれない。ビーズの視点は、それまでの男性の歌謡ほどマッチョではない」
「でもこの詩は主婦っぽい匂いがせんのよ」
「初期だからな。まだシュルレアリスムの影響下にある」
「しゅる……何? まあとにかく、うちにとっては、この詩はバインと等価なんよ。神に近い手ごたえやね。何や意味がありそうでないようでようわからんやん? それでええんよねえ。生きるとか死ぬとかもそんなとこがあるやない? ああなるほどなんて思うこと、今まで生きててとくにないもんね。昨日こうやろかって思ったことが今日にはだいたい嘘になってまうやん?」
「そうだな」
「『そうだな』やて。東京人の言葉っておかしいな」
 少女はひとしきり標準語遊びに興じる。ねえ何時ごろに出発するのかしら? あなたは目的地で何をなさるの? 少女はじつに楽しそうにそんな言葉を紡いで遊んでいたかと思うと、そのまま深い眠りに落ちていった。
 彼女が眠ってしまうと、ハンドル片手に彼女のバッグを漁った。
「やめなよ、コソ泥みたいな真似」とジョンがたしなめる。
 ナプキンの、ハンカチの、アイシャドーの、ひらく楽園。
「そう興奮するなよ、トライアングル。ジョン、君の感想は間違ってるぞ。これは必要な行動だ。そして俺は何も盗むつもりはない」
 そんな会話をひそひそと交わす。
 鞄の中身は簡素なものだった。黄色いぼろぼろの財布と下着と着替えが二着。芝生しかない公園並みにシンプルだ。彼女があまり準備ができていなかったことが伺える。さらに財布を調べると、キザキサキオという父親のものらしいキャッシュカードのほかに保険証もあった。少女の氏名は木崎香瑠というらしい。住所もわかった。その住所に、溜息が出た。少女の住所は、坂出市だったのだ。
 彼女を起こして、行き先が坂出市であることを告げるべきだろうか。間もなく瀬戸大橋を渡ることになる。橋を渡る時には絶対に知らせる約束だ。
だが、もし四国へ渡ると告げれば、彼女はここで降りると言うだろう。そうすべきだ。さかのぼったのでは家出にならない。
 だが妙なものだ。たった三、四時間ほど同じ空間で過ごしただけで、もう彼女の人生は他人事とも思えなくなっている。彼女の太腿の痣のことを思い出す。家庭でつけられたものだとしたら、家に連れ戻すのは酷だろうか。
だが、一人でヒッチハイクをしながら生きながらえるのはもっと無理だ。この国は、うわべばかりの紳士性とうらはらの獣性をいつも秘めている。
 結局、何も告げずに車を発進させることにした。目的地は、坂出市。このまま飛ばしていけば、夜が明ける前には坂出に着くことができるだろう。
「瀬戸大橋だ。教えたほうがいいんじゃないの?」
「いいんだ」
 瀬戸の日暮れの大丈夫の花嫁
「ああそうそう、瀬戸の花嫁ってのはこの瀬戸内海の歌さ」
 トライアングルは嬉しそうな声を上げる。
「彼女の家はどこなの?」
 声を落としてジョンが尋ねた。
「坂出市の人口土地ってとこだ」
 その不思議なネーミングの土地について、かつて調べたことがあった。そうしないと眠れなかったのだ。
 その住宅地は、まだタワーマンションというものが存在しない時期に大高正人という建築家の提案で創られた。大規模な構造によって空中都市的な空間を実現したその土地は、実際にはさまざまな利権によって遅延する都市計画を遂行するための苦肉の策だったのだ。
 低層階に商業施設の入ったタワーマンションが一般的になってきた昨今でこの建築の特異性はなかなか理解されにくいところではあるが、単に二階の部分に住宅地を作るだけでなく、その二階部分を集合住宅地にしたところが画期的だった。
 正式名称は、清浜・亀島地区住宅改良事業。でも誰もそんな名前では呼ばない。広まっているのは、坂出人口土地という名前のほうだ。ロンドンのバービカンを手本にして創られた。
 きわめて風変りな土地だ。何とも無機質で、まるで砂の惑星にぽつりとそういう住宅街ができたまま忘れ去られたみたいな、寂しい感じのする街だ。
 実際に訪れたことはない。当時、建築デザインの本で写真を見たり、地図で位置を確かめたり、といったことを繰り返していた。
 なぜ──?
 なぜ自分はそんなことをしていたのか?
 ふとそんな疑問がよぎる。これは記憶か? それともイメージか。わかっているのは、それが毎夜見る例の夢の女と関係があるということだ。だがあの女は実在するのか? 人生のどこかで出会っていたのか? 〈ねじ式病〉患者は記憶とイメージの境界がない。だが、これほどはっきりした情報を調べたというのは、さすがに単なる夢ではなさそうだ。
 多くの写真をもとに、人工土地での暮らしを夢想した感覚。その空間を恋人が歩く様を想像した日々。一階の駐車場スペースや錆びれた商店街エリアを夜な夜な歩き、二階の住宅地へ続く白い階段を上りながら月を見上げる。その様子をある時にはくっきりと思い描くことができたし、ある時にはそこに自分の姿さえ投影させることも不可能ではなかった。
 彼女と約束していたのだ。いつも心は隣にある、と。
 いつだ? それは、いつの話だ?
 記憶か? それ以外か?
 覚えている、という手ごたえ。
 だが、果たしてそれは存在する記憶なのか。だが、その問いに結論が出ぬまま、唐突に脳の一部が何かのドアを開け、その向こう側にある物語を語り出す。

 ZZZZZZZ(締めすぎは危険のはじまり)

 その少女、ルルコと出会ったのは、坂出送電塔倒壊事件のあった九十八年だった。その年は小沢健二が長い長い活動休止へと突入する年でもあった。小沢健二はそのようにして平成という時代から距離をとり、まるで平成の終焉を見越したかのようなタイミングで帰還した。
 あの頃に小沢健二や小山田圭吾に傾倒した者たちが、平成末期に起こった小沢健二カムバックに歓喜したのは言うまでもない。が、あの時代のJ-POPのど真ん中に小沢健二がいたかのような論調で迎えるのは、きわめてポップな歴史修正主義と言わざるを得ない。小沢健二はど真ん中になどいなかった。むしろ裏通りにいたのだ。「ラブリー」一曲がブームにはなったし、「今夜はブギー・バック」はそこそこの成功を収めただろうが、それくらいだ。〈王子さま〉と呼ばれていたのは、音楽的成功とはまったく乖離していた。
 平成の後半における音楽界の変遷によって、裏通りは表通りへと役割を修正させられたのだ。それ自体は好ましいところもなくはない。背後には細野晴臣翁による星野源擁立という隠された文脈があったことは看過できないし、それは自民党政権を壊した小沢一郎の暗躍に近い見事な快進撃だったとも言える。
 一方で、現在でも裏通りのままであるロックバンドが九八年にメジャーデビューを果たしている。GRAPEVINEだ。ルルコはGRAPEVINEの大ファンだった。隣で寝ている少女香瑠と気が合うかもしれない。
〈最近GRAPEVINEというバンドを知ったわ。「1&more」という曲が、とても解放感があって素敵なの。私の抱えている憂鬱を言語化したような曲なのよ。そういうとあなたは私を面倒に感じるかもしれないので今の発言は忘れてね。あと「そら」って曲も素敵。私のいた香川県はほとんど雨というのが降らないので、青空はもちろん最高なのだけれど、夜の空も素敵なのよ〉
 
 ルルコはメールのなかではいつも標準語だった。実際に会っている時には彼女はいつも強烈な訛りで話していたのに。
 そのルルコが、人工土地に住んでいた。
 今となっては遠い昔の話──なのだろうか?

 ZZZZZZ(危険なので少し緩める)

 人工土地に到着したのは明け方五時頃のことだ。人口土地の寂寥感はイメージの世界を越えている。現在ではスラム化しているのか、無機質な街並みに人の気配はない。一階の商店街はどこも閉まっている。明け方だから当たり前かもしれないが、昼間でもたぶんそのままだろう。
 人相の悪い少年たちが、シャッターの下りた店の前にたむろしていて、こちらをじろじろと眺めている。それほどの悪意は感じない。少女が寝ているのを確かめてから車から降りた。
「木崎という家を探している」
「え……あの家に行くんか……」
 少年たちはひそひそと話し合った後で、ようやく坂の上を指さす。
「でも、まじでやばいで、あそこは」
「礼を言うよ」
 どうヤバいのかはわからない。若者は「ヤバい」と言う言葉でさまざまな状態を表現する。だが、少ない語彙や強烈な訛りにも拘らず、少年たちの説明は意外にも丁寧でわかりやすい。おかげでそれから一分と経たずに木崎家に辿り着くことができる。
 周囲の白い無機質な住宅地のなかでその住居だけがうずまきの模様をスプレーで隈なく描いている。空間すべてを渦巻きで埋めなければ納得がいかないかに見える。
 木崎サキオは白装束に身を包み、住宅地の平たい屋根の上で両手を空に掲げたままじっとしている。その表情は阿修羅の如く険しい。
「あんたが木崎か?」
「静かにせぇ。いま大切なコーシンをしよるとこやけん」
「コーシン……?」
「コーレイジュツいう科学と宗教の生んだ崇高な産物を君は知らんのか。コーレイジュツいうんは、どこまでも科学的なもんやで。十九世紀の時代にはあのコナン・ドイルもハマっとったくらいやけん。ファックスの発明よりはよほど原始的なものなんや。あるもんがなくなっても脳はそうとは認識せん。脳の認識と実際の欠落の間にズレが生じるんやな。そのズレを……処理するんが、コーレイジュツや。最近はこれをKテックと呼んどる」
「俺はそんな話には用はないんだ。あんたに置き土産がある」
「待たんか。いま通信中や。ああ、そうそう、そうやで。ほやけん、はよう俺のメシを作らんか。遊びに行くんはその後や。当たり前の話やないか。おまえまさかよそに男でも……ほうか……ちゃうか……そんならよかった……」
 コーレイジュツをずっと聞いているのはさすがに馬鹿らしい。その間に下にいた若者たちのもとに戻って木崎サキオに関する情報を聞き集めた。
少年たちによると、木崎サキオの生活はコーレイジュツが基盤となっている。むしろコーレイジュツの合間に、申し訳程度に食事やトイレが挟まっている感じらしい。最近では少年たちは、彼の行動と「パナウェーブ」という団体の関連性を疑っているのだそうだが、そこに関連性があるのかないのかは不明ということだ。
 パナウェーブ──。聞き覚えがある。たしか、坂出送電塔倒壊事件の五年後、同じく香川県で五色台電波塔倒壊未遂事件が起こったとき、声明文に〈パナウェーブの報道を中止せよ〉とあったのではなかったか。
 やり口は同じくボルトを抜くというものだが、同一犯かどうかは今もって不明なままだ。パナウェーブとは当時世を騒がせていた新興宗教のような存在で、その存在は第二のオウム真理教になるとも囁かれていた。白装束という意味では、木崎サキオにはその可能性があるようにも思える。
 ちなみに、呼び出している「レイ」は彼の妻で、その昔彼が殴打して殺してしまったそうだが、警察は不審死扱いせず、検死もろくにしなかったのだとか。少年たち曰く「ここらの警察はひどいもんや」ということらしい。警察とヤクザ者の境がないのだ、と。
 ようやくこちらにやってきた木崎に尋ねた。
「あんたが奥さんを殺したって下にいた少年たちが話してた」
「はは。しょうもない噂話や」
「だが、死んだのは本当か?」
「知らん。忘れてしもたわ。どっちでもええことや。Kテックで脳に電極差し込めば、いくらでも会えるんやけん」
「あんたの妄想の中でな」
「何とでも言え。とにかく生きたとか死んだとかどうでもええ」
「あんたが殺したんじゃないのか?」
「何の用や? 用がないなら帰り」
 この男に少女・香瑠を返す意味はあるのか? 
 だが、迷った末に、男に告げた。
「サキオさん、あんたの娘さんを預かってる」
「香瑠を? すぐ返せ! 返せ!」
 飛びかかってきた男を投げ飛ばす。よれよれの手袋みたいな男一人をノックアウトするのにはさほどの労力は必要なかった。〈ねじ式病〉を患っていたってこれくらいは問題ない。それに格闘技バリツなら得意中の得意だ。
「いいか。君のわからない場所にメメクラゲを置いていく」
「メメクラゲだと……?」
「メメクラゲは君を観察し続ける。君が娘を殴ったりしたら、メメクラゲはすぐに俺に言いつける。だから、指一本触れてはならない」
 それだけ告げてもう一発殴った。サキオは意識を失った。
 ポケットから小型のメメクラゲを取り出すと、わからないように外側に設置した。メメクラゲには目はないが、家と一体化して男を監視することができる。パラボラアンテナみたいなものだ。
 車に戻って香瑠を抱き上げた。
「後悔はしないんだね?」
「するかよ。だいたいジョン、うるさがってたのは君じゃないのか?」
「そうだけど……さっきこの子うなされてた。〈もうぶたんでおとん〉って。これが正解とは思えないんだ」 
 彼女はまだ眠りのなかにいた。よほど旅の疲れがたまっていたのだろう。
「mistakeなら俺に任せておけ」
 車のドアを閉めてふたたび木崎家へ向かい、ドアを足で蹴飛ばして開け、玄関先にそっと置く。
 目が覚めた頃にはすべてが夢だったと思えるだろう。長い長い家出の夢でも見ていたと思えるかも知れない。それでいいのだ。
 少年たちに帰りに尋ねた。
「ここに、ルルコという名前の女はいなかったかな」
 少年たちは首を傾げた。ここは入れ替わりが激しいから、そんな人もいたかも知れないしいなかったかもしれない、と。自分の記憶以上に、ここの土地の記憶は曖昧なようだった。
 車に戻ると、ボルトが何か話していた。
 ソーデントー……デンデンデン
 それで本来の目的を思い出す。そうだ、ボルトを送り届けねば。だが、その前に謎を解きたい。今になって七十六のボルトを集めようとしている奴がいる。そいつは、やはりあのかつての宗教団体の残党兵のような人間なのか。
 そいつらがボルトを回収しようとしているのはなぜか?
 地元の新聞記者を訪ねるか。車専用のメメクラゲで調べると、十五分ほど行った場所に坂出日報という地元の新聞社があるようだ。
 行く先が決まれば、あとは車を走らせるだけだ。車はのどかな田舎道を直進する。車内では、メメクラゲがグレイプバインのアルバム『lifetime』の中の一曲「青い魚」を流している。『lifetime』は、彼らが恐らくもっとも高い成功を収めたアルバムだ。
 だが、その音楽が流れていることを喜ぶ少女は、もうこの車内にはいないのだ。
 もしも、香瑠を連れ去るような存在がいるとしたら、自分でなくてはならなかったのだ。だが、そいつは連れ去らずに親の元に眠っている間に連れ戻し、さよならも告げずに去った。Mr.mistake、おまえまたやらかしちまったな。何度目だ? さあ? 覚えてない。
 だが、罪悪感は計り知れない。すぐにメメクラゲのリモート確認ボタンを押してみる。
 まだ香瑠は眠ったままのようだ。そして、サキオの姿はない。恐らく家の外でぶっ倒れているのだ。あれから十分かそこら。変化があるわけもない。
「そんなに気になるなら、戻って連れてきたら?」
「うるさいぞ。腹ごしらえをする。琴平へ向かう」
「琴平? 金毘羅山のあるところ?」
「そうだ。灸まんというのを一度食べてみたいと思ってたんだ」
 行き先はこうして容易に変更される。ソウデントーソウデントーとボルトは騒いでいる。わかったわかった、とそれを宥めるうちに金毘羅山が見えてくる。その山際が朝日に照らされて輪郭が輝きだす。
 まばゆい朝の光も、目隠しをしたまま室内にいる香瑠のもとには届かないだろう。やめろ、もう考えるな。済んだことだ。
 琴平は錆びれた街だ。そこが昭和三十年の日本だと言われても信じてしまいそうなほど文明の気配が消し去られている。およそ人間に出会うことがない。車はいるが、人には出会わない。田舎の典型的な風景とも言えるが、車窓から見える家並みが機能しているように見えないのはどうしたわけだろう? 家が家をやめ、風景の一部となっている。もはや人間の手を離れた家は自然の領域か、それでもまた人間のものであるのか。
たとえば平成という時代はどうであろうか。それは過去となり、「れいわ」の時代に移った今はもはや自然の領域にあるのか。はたまた解体され、有効な資材として供出されるのか。
 かつて七十年代安保の時代がそうであったように。それは一つの語られ尽くし、しゃぶりつくされるトポスとなっていくのだろうか。
 もちろん。そうに決まっている。
 すべては廃れ、あるいはまた発掘される。
 琴平駅の前にはさすがに人がいる。若者もいる。だが、金毘羅山の麓にあるこの街では、観光客が金毘羅山を目指すほかには用がないみたいに見える。
 目的を果たすべく、駅前の売店で灸まんを購入して食べた。灸まんは見事に口内の水分を吸いつくしてしっとりした甘みでいっぱいにする。なるほど、これが甘いお灸か。
「美味しそうだね」
「ジョン、君は食いしん坊だな。医者のくせに」
「医者は関係ないだろ?」
 和田邦坊によるパッケージは、郷土のノスタルジーとデザイン性が見事にマッチしており、この土地の野暮ったさをいい具合に優しく包み込んでいる。そのデザインはここが昭和であれ平成であれ関係なく同じ顔で君臨していることだろう。してみれば、このパッケージも〈ねじ式病〉の仲間ではないか。そんなことを考える。
 腹が落ち着いたので、ふたたび坂出方面へ向けて車を走らせる。寄り道の多い旅だ。道中、メメクラゲを使って坂出送電塔事件を調べてみる。メメクラゲは周辺の知見を一気に収集する機能をもっている。コミュニケーションが苦手な人間でも探偵の真似事ができるありがたいツールである。 
 それによると、あの時は、いろんな説が出回っていたらしい。四国電力に恨みを持っている業者の仕業ではないかとか、番の州の電力を止めたかったのではないかとか、若い鳶のいたずら説や特定の個人が噂されたりとたいへんな騒ぎだったようだ。発電機三基、信号機六十基、一万七千世帯の停電。九千世帯のガス供給停止。
 また、夜に山に出入りしている者がいるという通報を警察が見逃していたということも問題視されたようだ。さっきの少年たちがこっちの警察はひどいと言っていたことが重ねて思い出された。
 情報を総括すると、どうやらパナウェーブ犯行説は飽くまで五年後の五色台の事件のときに出てきた説であり、当時はまったく捉え方が違っていたことがわかる。
 そして、結局は真相は藪の中となった。
 有力な説のひとつ、四国電力への恨み、という説はその後の五色台送電塔倒壊未遂事件のときまでくすぶり続けたらしい。そもそもどんな「恨み」がそこに想定されていたのか? 調べていくと、どうやら瀬戸大橋をかける時にたくさん人が死んだその恨みではないかという発想らしい。坂出は瀬戸大橋の玄関口だ。
 ふたたび、香瑠の様子を確かめる。
 音声もON。
 時刻は間もなく十三時になる。彼女が目覚めてもいい頃だ。
実際、彼女は目覚めたようだ。メメクラゲは香瑠の顔をクローズアップする。彼女は目隠しを外して辺りを見回す。そこがどこなのかは、恐らく見慣れた光景ゆえに一瞬で理解できるだろう。だが、それでも彼女の頭はそのことを受け止められずにいるようだった。
 この家を出たはずやのに、なんでまたここに戻っとるん? まるでねじで巻き戻されたみたいやないの。実際、その通りなのだ。彼女の旅はとどのつまり一メートルも進んでいない。
 彼女はふたたび鞄をもち、家を出ようとする。だが、そこで動きが止まる。目の前に、白装束の父親、サキオが立ちはだかっている。サキオは頭部に巨大なアンテナのようなものを装着している。亡き妻を呼び出すときに使っているいつものやつだ。そして目には3Dでも見るときのような大げさな眼鏡。『未来世紀ブラジル』にでも出てきそうなやつだ。問題は手に握られた果物ナイフだ。
「ルルコ、ルルコ、貴様、離婚だけは許さんぞ。わしはおまえとは離婚などせんのや! わかったか!」
「おとん……うちは香瑠や。おかんとちゃう……」
 だが、サキオは香瑠を殴り飛ばす。
 ルルコ? 耳を疑った。ルルコが香瑠の母親だって? 彼女の母親とどこかで会ったことがあるのか? 思い出そうとするが、思い出せない。思い出せない思い出は記憶とは呼べない。
「何をおまえはわけのわからんことをぉ……やっと戻ってきたと思うたら男の匂いさせよるな?」
 男の匂いとは、恐らく自分の匂いだ。サキオはコーレイジュツのせいで現実と妄想をごっちゃにしている。彼の目の前には亡くなった妻、ルルコがよみがえっているかに見えているのだろう。
 生者と死者の区別が消えているのだ。そのもともとない境界線を、あの受電装置のようなものがいっそう曖昧にしている。アンテナのコードは長く伸びており、分電盤まで繋がっている。
 サキオはなおも攻撃をやめようとしない。髪をつかみ何度も地面にたたきつける。
「おまえはいつも男や! 男、男、男言いよるんや!」
 このままでは香瑠は死んでしまうかも知れない。それだけは避けたかった。だが、この場所から彼女の家に戻るのにはやや難がある。
「その耳、削ぎ落したる!」
 彼女の耳を守らなければならない。シロクマが鮭を食べるように切実な任務がそこにある。
 唯一とれる行動は──。
 車を走らせた。ポケットの中のボルトを握りしめると、その場所がはっきり目に見える気がする。〈ねじ式病〉に感謝だ。五分ほど走らせると、坂出送電塔十四号機が見えてくる。送電塔は、塀などには囲まれておらず、むきだしのまま大木みたいに大地に根差し、空へと手を伸ばしている。
 ここが、二十一年前、事件の舞台となった場所なのか。
 二十一年前──。
 平成が三十年で幕を閉じ、〈れいわ〉に変わったということはとりもなおさず、そういう計算になることはなる。実際の自分の感覚があてにならない以上、それは概算を信じるしかないのだが。
 後部シートから電動レンチを取り出し、一本ずつ外していく。何をやっているのだ、と突っ込む自分はもはやいない。二十一年前に起こったことを、ただ真似るだけだ。ほんの束の間でいい。
 電動レンチよ、誰よりも早く回れ。
 ウィンブルドン、カムチャツカ、コスタリカ、パプアニューギニア。世界中を一瞬で旅するみたいな速さで、あっという間にねじを回せ。
 メメクラゲがゆっくりと海上へ向けて浮上するように、ぐるりぐるりと回転しながら、ボルトは回っていく。
 うぃっすえっす、セロリセロリバス釣りのセオリー。
 電動レンチのくたびれた歌声に乗ってボルトは抜けるよ、一つ、二つ、三つ、四つ……十、二十、ほらあっという間だ。三十、四十、五十、六十、七十……七十一、七十二、七十三、七十四、七十五……そのあたりでぎぃいいという危険な悲鳴は轟いている。このまま行けばどういうことが起こるかわかる。これでは二十一年前の悲劇の繰り返しだ。
 だが──手が止められなかった。香瑠を助けなければ。Mr.mistake、もうmistakeはたくさんだ。もう一つ、外す。
 うぃっすえっす、セロリセロリバス釣りのセオリー。
 電動レンチはご機嫌で回転し、最後の仕事を終える。じつに豪快な仕事だ。そして、その意志は七十三メートルの塔を見事にぐらつかせる。
 その瞬間に起こった当然の結果は、しかしながら衝撃に値している。送電塔が倒れる瞬間の悲鳴たるや落雷とコンドルが結婚したみたいだ。それだけではなく、倒れた瞬間に大地を伝って電流が我が体内に流れてくる。げだりびだりとやってくるその電力はあたかも真冬の朝に滝水に当たったかのごとき衝撃を走らせる。
 だが、次の瞬間、香瑠の無事を確認しようと、どうにか這うようにして車に戻る。だが、メメクラゲが壊れていて何の反応もない。もしやいま、この送電塔が倒壊するそのタイミングで電流が流れ、どうにかなってしまったのか。
 それだけじゃない。車内が妙に静かだ。まるで誰もそこにいないみたいじゃないか。ためしにジョンを呼んでみた。だが反応がない。そこにはジョンの身体ともいうべき年代物の聴診器があるだけだ。十九世紀ロンドンで使われていたというそれをジョンと名付けた。かなり物質のなかでも雄弁で、何かと役に立とうとしてくるから。
 だがもうジョンは何も語りかけてこない。トライアングルもそうだ。それは単なる楽器で、こちらが鳴らすまでは音一つ鳴らしはしない。マークXもそうだ。ただエンジンを吹かしているだけだ。
 落ち着け。我がファミリは疲れて眠っているだけさ。そうだろ?
 オーライ。慣れない旅路だからな。仕方ないさ。クソッ! 仕方ないもんか。こんな緊急事態だってのに。
 慌てつつもやはり香瑠の安否が気にかかる。
 とにかく、ボルトを抜いたことで、ここら一帯は停電になったはず。そうなれば、サキオのアンテナはもはやレイを見せないはずだ。彼は現実に戻るだろう。さすがに現実に戻れば、さっきの自分の脅迫を思い出して、娘に手を上げるような馬鹿な真似はしないはずだ。
 車を走らせる前に、現場からボルトを一本持ち去った。またボルトを集めて回るあの黒いスーツの男が、きっとねじの数が足りないとほぞを噛むはずだ。何せ、やつらは七十六のボルトを集めている。二十一年前のボルトを探すより、今回の事件のボルトを集めたほうが効率が良かろう。
 だが、それでも彼らは集められない。なぜなら自分が一つを持っているから。二十一年前のボルトが一つ。それと、現在のボルトが一つ。仲良くポケットに収まっている。
 焦りをごまかすように口笛を吹く。GRAPEVINEの最新曲「ありふれたすべての光」。この楽曲の素晴らしいところは……と脳内で論じかけて、不意に奇妙な感覚を抱く。知っていたはずのものが、綿菓子のように溶けてうまく語れなくなる。こうしたことは夢のなかでならよく起こる。だが、いくら者と物との区別がつかないこの男でもそのようなことはさすがに──。
 妙な感じだ。メメクラゲも止まっている。そういえば、道行く信号機もすべて止まっている。たしか二十機止まっているんだっけ? いやいや、それは九八年の話で、今の話じゃない。だが、次の瞬間、奇妙なことが起こる。看板に違和感を覚えたのだ。
 そこには微かによれよれになったhideの『ROCKET DIVE』のシングルCDリリースのポスターが貼られている。hideのシングル? リミックスバージョンでも出たのでないかぎり、こんなポスターが今頃貼られているのはどう考えてもおかしなことだ。
 そう考えて、ふと思い出す。諏訪湖サービスエリアでインスタントカメラの自販機があった。いまどきは誰もがスマホで写真を撮る。この時代にインスタントカメラの自販機にどれほどの需要があるのだろうか? それと、ケータイやピッチの充電器。ケータイはともかく、ピッチはない。PHSというものはもはや存在自体が消滅しているのだ。
ここは──今は何年なんだ?
「なあジョン、俺たちは……」
 だが、そう語りかけてもジョンはもはや言葉を発しようともしない。
 ここは──自分の感じている〈いま〉とはいつなのか?
〈ねじ式病〉の患者は、今と過去、未来の区別がつかない。現実と非現実の区別もなく、者と物の区別もない。少なくとも、ジョンはそう言っていた。
 つまり──自分はどれが今とも決めずに混沌を生きてきた。
 ところが今のポスターはどうだ? そしてサービスエリアで目にした光景はどうだ? いや、もっとだ。そこらじゅうにあるポスターのあらゆる芸能人がやや眉が太かったり、香瑠がルーズソックスを履いていたりするのは──。
 香瑠はGRAPEVINEの話はしていた。だが、「そら」という楽曲については熱心に話したが、「光について」も「スロウ」もまだ知らなかったようだった。
 つまり、ここは一九九八年の二月二十日。
 hideはまだ生きていて、「ピンクスパイダー」は誰も知らない。GRAPEVINEもデビューしたてだ。たまごっちに浮かれ、ポケベルが最後のブームを静かに巻き起こし、『タイタニック』の興奮を引きずっている、あの九八年なのだ。
 そして、自分はたったいま、坂出送電塔倒壊事件を起こした張本人になってしまったわけだ。そして、その塔の倒壊のせいで、〈ねじ式病〉が克服され、現在地をはっきりと認識している。者と物の区別もつく。もうジョンは喋ったりしないのだ。
 そして、命綱のような存在だったメメクラゲは存在自体が消え去っている。
 ファミリを失ってしまった。悲しむべきことかどうかはわからないが、心は霧の朝の子馬のように心もとない。
車は動く。
話さなくても、物質は物質としての役割をまっとうするのだ。

         T(それはねじの駆動部に当たる。これなしに    
は何も始まらない)


 となりにいる彼女は涙の痕を拭くことすらせずに目の前の水面を見据えて言う。
 ──わかっていた。いつかあなたの心が離れていくって。
 そうか、とこちらは答える。「手紙を書いてほしい」と告げると、「あなたが返事を書かないなら」と彼女は返す。返事を必要としない手紙は、遺書だ。だが、黙るしかない。
──でもあなたは悪くない。何だって同じ状態を保ち続けることは不可能よ。あれほど隆盛を極めたCD産業も斜陽の一途でしょ?
それを否定する立場に今はないことを理解し、黙っている。彼女は再び泣き始める。
──でも、これだけは伝えておくわね。どんな状態にも真実はあって、今が本当で過去が嘘だとか、そういうことにはならないのよ。たとえあなたが過去や現在をなかったことにしたくても。
彼女の両耳で、心臓をかたどったイヤリングが揺れている。
胸のうちでビートを打つ心臓のように、耳のそれも激しく高鳴っているのだろうか。魚が跳ねる。カフェの中なのに、魚がどこにいるのか、と辺りを見回す。その魚は光を反射して店内に煌きをまき散らしたかと思うと、珈琲の闇に消えた。
手を伸ばす。だが、彼女はすでにいない。ためらいは、時に果てしない後悔を生む。もう二度と会えまい。その確実性がもたらす硬質な安らぎを、生ぬるい幸福と置き換えてもいいのではないのかと考えはじめる。深い後悔と絶望。ここにねじがあれば。ねじを回しさえすれば。
だが、きっとねじを回せば、愚か者の振る舞いがスローに再生されるだけに違いない。生ぬるい絶望は不幸か。幸福か。もはやそこに境目がないのであれば、もうここは楽園の入口だ。

以上が、毎夜見る夢だ。医師のジョンは、これを〈ねじ式病〉の症状の一つと考えたいらしい。だが、違う。これはただの夢だ。いかなる意味においても、夢は夢以上の意味をもたない。

         TZ(ねじの回転が始まる。ゆっくりと、しか   
            し唐突に)

 ジョンはいつだって知ったふうな口をきくのだ。そのくせ何一つ真実になど気づいてはいない。
「夢が〈ねじ式病〉の症状だって? その心は?」
 彼は部屋の片隅で中世の騎士みたいにじっと立っている。
「同じ夢を見るというのは心が時間的な移動の一切を認識していないことの顕れとも言える。君はいろんな感覚がおかしい。過去と未来の区別もつかず、者と物の区別もつかず、それから……」
「もう結構だ。それを君は〈ねじ式病〉だなんて御大層なレッテルを貼ったわけだ。お医者様は立派なもんだな。どんな症状にもまず名前をつけて飼いならそうとする。それで、処方箋は?」
「さあ……だが、治療法はきっとある。たとえば、判で捺したように似通った毎日から抜け出す、とかね」
 フンッとジョンの台詞を鼻で笑った。とんだ茶番だ。
ここ旧都立野方第三中学校校舎は、校舎の形状を維持したまま、さまざまなスペースに再利用されている。その一画、技術家庭科室の分厚いカーテンは、ふだんなら一切の光を通すことはない。そこには価値の高低に関係なく無数の古道具が並んでいる。古道具たちは総じて光を嫌うのである。
ところが、その午後は珍しく光を通してしまった。
「おい、光が洩れてるぞ」
「本当だね。でも僕のせいじゃない。カーテンのせいさ」
 ジョンはいつでも責任逃れだ。ご立派なお医者様だ。まあだが、実際こいつはカーテンの失敗か。あれほど一切の光を入れないようにと命じておいたのに、その命に背いて一筋の光を届けるなんて。
その光はまず室内の埃を星屑に変え、次いで花瓶替わりのオーヴァルのボトルを尻の豊かな女に変えた。梟の剥製はそのまま飛び立ちそうになり、死に絶えた探検家の遺品らしき羅針盤は高速回転でも始めるかに見えた。眠れる王の目覚めるときが来たのだ。光は記憶を呼び覚ます。今では顔もおぼろな記憶の彼方に埋められた恋人の息遣いや背中に爪を立てそうになるのを堪える絶妙な指の感触。
修道院で醸造された崇高なるオーヴァルのボトルがボトルとしての役目を終え、花を生ける存在へとシフトしたように、カーテンもまた光を遮る役割を終え、光を差し込ませ記憶を呼び覚ます役割へとひっそりとシフトした。この小さなシフトは、むろんこの部屋の主の精神へと直接的にはたらきかける。
まるで溌剌とした旅人の吐息が、アイオワ州の憂鬱にかけられたように。一筋の光がもたらしたのは鮮烈なイメージだ。そのイメージは完全なオリジナルではない。借り物のイメージと記憶とそれ以外によって生成された存在しない記憶のような何かだ。
「ある午後、女がこのドアを叩き、自分は旅に出ることになる」
「また始まったね。過去の光景かい? それとも、予言か何か?」
「知るか。死ね」
「今のは頭韻を踏んだの? しるか、しね」
 ジョンはこちらの毒舌をあまり気にする風が見られない。
思考を遮るのはメメクラゲのノイズだ。ノイズはその前からずっとあった。メメクラゲはつげ義春に創造され、現代のテクノロジーによって再現された瞬間から、つねにノイズをこの部屋に提供している。それこそがメメクラゲの役割なのだ。もちろん、ノイズは邪魔をするばかりではない。時には重要な情報を与えもする。
ある瞬間、そのノイズは意味をもつ。よくあることではない。とりわけ、この部屋の眠れる王のごとく何事にかけても無関心な人間にとっては。
〈先程閣議で元号を改める政令、および元号の呼び方に関する内閣告示が閣議決定をされました。新しい元号はれいわであります〉
世事に疎いため、最初に抱いたのは「元号を改める?」という純粋な驚きだった。いったい何のために? 天皇崩御もしていない段階で平成が終わる意味とは何なのか? だが、こう疑問に思いながら、きっとこれらは世間的にはとうの昔に議論が出尽くしたトピックだということも容易に想像がついた。
「またお得意のメメクラゲから何かを受信したって?」
 あきれ顔でジョンが笑う。医師なら患者の症状にもう少し真摯な態度をとるべきだろうに。
「ああ、そうだよ」
「そのメメクラゲこそが、君を〈ねじ式病〉たらしめてるんだよ。そいつを壊せばいいのに」
「馬鹿野郎、君よりは役に立つ」
 黙らせて、いまメメクラゲが言っていたことを話してやる。
「平成の次は〈れいわ〉? へぇ? どんな字を書くのかな?」
「さあな。俺の偉大な脳内にはレイ・チャールズの『ホワット・アイ・セイ』が流れている。その渋い歌声に重なるようにして、ドナルド・フェイゲンによるレイ・チャールズへの挽歌『ホワット・アイ・ドゥ』もね」
「混線してるの?」
「知るか。しかし、『レイは~であります』の『~』にはどんな言葉が入ってもいいな。〈レイは歌手であります〉〈レイはファンキーであります〉〈レイは不滅であります〉〈レイはこの国の民ではないのであります〉……なあジョン、君も何か作ってみろよ」
 やめとくよ、とジョンが気のない返事をした時だ。ドアがノックされ、返事も待たずに一人の女が入ってくる。数か月ぶりの客だ。ここは野方駅から徒歩十五分の住宅街のなかにあるみすぼらしい廃校舎の離れ。体育館とプールの並びだが、いまやプールには水がなく、体育館はレンタルスペースで土日以外は無人のことが多い。廃校舎のほうも稀に物好きの写真家がヌード撮影に使う程度だから、実質定住者は我々だけだ。
「あなたが現代詩研究をされていたタナカさんね?」
「昔の話は忘れたね。今はしがない古道具屋だ。そこにいるのは相棒のジョン。まあ俺は相棒とも思っていないが」
「ずいぶんじゃないか……よろしくどうぞ」
 紳士ぶってジョンは挨拶をするが、女のほうはちらりとジョンに一瞥をくれただけだった。自分の用意してきた言葉だけで手いっぱいなのだろう。 
「でも古道具だって詩を詠うわ。あなたはその声を聞くことができるのよね? 言語には文法があるけれど、詩は文法を超越する。一般の人間には、非常に厄介で価値を管理しづらいものよ。さしずめ、あなたは魔獣使いみたいなものね」
 よく喋る女だ。顔はよく見えないが、シルエットや喋り方から育ちのいい女だとわかる。育ちのいい女はドアを開けてもすぐに入ったりせず、両手を手前に揃えて小さなバッグを持っているものだ。
「……誰にここを?」
「誰でもいいわ」
表には〈ふるどうぐ ConTonDo〉という看板があるが、それも文字が薄れてアルファベットの部分はCとDしか読めない。誰も屋号が〈混沌堂〉であることなど知らない。しかも、まだ読める〈ふるどうぐ〉の平仮名表記のせいか一度などは今の恋人を振る道具はないのかと尋ねてくるサラリーマンが現れたくらいで、従来の古道具を求めて来る者も、売りに来る者も滅多には訪れない。
では生計をどう立てているのかというと、今の時代はメメクラゲ内にあるオークションサービス、メヒカリである。メヒカリさえあれば売り買いはすべてメメクラゲで処理できる。ねらい目は誰も買い手がつかないが、自分には売り先を見つける自信のある出品を安値で見つけることだ。そのようにして生計を立てているので、メヒカリに足を向けて眠れないのだが、メヒカリが東西南北のどのへんにあるか判然とせぬためにまあそのへんは考えないようになった。
やがてドアの外の光で彼女の顔が見え隠れする。想像上よりも顎が尖っている。整った顔だが、やや化粧が濃い。
「とにかく、あなたがタナカさんで間違いないのね?」
 そう繰り返す女は、どこか霧を思わせる。霧とメトロノームと、それからマスクメロンも。霧のイメージは透き通るような白い肌から。メトロノームは抑揚がなく、リズミカルなしゃべり方から。そして、マスクメロンは明らかに偽物とわかる胸からだった。歳の頃は、四十前後か。まあその年齢だとしたら若く見えるほうではある。
「まあやだわ、この部屋ったらまるで夜のフラスコの底のよう」
 ジョン・レノンと寝たことのある女みたいな台詞を言う。しかも古風な言葉づかいだ。山の手育ちか。小説に登場するとリアリティがないとかうるさいことを言われるタイプだ。
 ほかにも大きな特徴がある。心臓をかたどったイヤリングだ。奇妙でグロテスクなそのイヤリングも、なぜか彼女がすると機械の取扱説明書のように見える。通常はやんわりしていて、そのじつ見開くと大きくなる眼のせいか、推移を見守るような微笑のせいか。
「おい、君、見ろよ。心臓をかたどったイヤリングだぞ」
 ジョンが耳打ちをしてくる。
「わかってるさ」
「君の夢と完全に……」
「わかってる。君も医者なら少しは落ち着け」
「落ち着いていられるか……君の夢にしか存在しない女が僕にも見えているんだぞ?」
「夢の女はこんな老けてもいなけりゃ厚化粧でもないさ」
「過去にどこかで会ってるのかも。歳をとれば多少厚化粧にもなるさ! 彼女は君の症状を改善するキーパーソンかもしれない」
「黙れってば」
 何かが脳裏をかすめる。夢か、いつかの記憶か、それ以外か。
「聞いているの? あなたがタナカさんで間違いないのね?」
「いかにも俺はタナカさんだ」
 それは通り名に過ぎない。過去の名は過去に捨て、未来の名は未来に捨ててある。今のところのタナカだ。
「サトウでもナカタでもなくタナカさんだ。擦り切れ大匙一杯のタナカさん。俺がいない時はノン・タナカさん、もしくはタナカさんレスだ。そして、今はタナカ入り」
「私ったら運がいいのね?」
「そう思うのなら。とりあえず、ドアを閉めてくれないか」
 彼女は首を傾げつつも、それを拒絶する。心臓をかたどったイヤリングがふぁらんふぁらんと揺れる。
「断るわ。女は自分で身を守らなくっちゃ。それより依頼があるの」
「まさか襲われる心配を? 君は俺の好みじゃない。さあ閉めてくれ。虫が入ると嫌だ」
「春先に虫なんか入らなくってよ。まだ桜も咲いていないのに」
「依頼とか言ったが、ここは探偵事務所じゃない。古道具屋なんだ。使い古しの、市場に出回っていても大して価値のない代物を買い取り、それを必要としているべつの人間に売る」
「やあね、もちろん知っているわ。そして、古道具も持ってきたわ。どれくらい古いかわからないし、こんなものを必要としている人がこの世にいるのかどうかわからないけれど」
 彼女はストロベリーの板チョコを取り出して不定形にかじり、ゆっくり深呼吸をした。呼吸ができるのはいいことだ。ここにはよく死者が訪れる。死者は売られた古道具に一緒についてきて、そのまま居座るのだ。大抵、道具が売れるまでずっと居座り続ける。
この古道具屋では物質は物を言うし、依頼人は古道具の不随物のごとく黙って物質と化していることもある。それでも持ってきた品を見れば、やり取りは成立する。ここでは、物と者の境目はなく、生者と死者の境目もほぼない。古道具が最新の道具より価値をもつので〈使える〉の定義もねじれ、あらゆる年代はカタログ化されている。加えて店主は時刻さえろくに確かめない〈ねじ式病〉患者だ。
 彼女はいささか古風な千鳥柄のバッグのジッパーをひらく。彼女はお高く止まってはいるし身ぎれいにしてもいるが、決して裕福ではない。それは服やバッグの素材やなんかが教えてくれる。いずれも最近の流行の型ではないし、ハイブランドでもない。
「これをごらんになって。まずは感想を聞きたいわね。元現代詩研究家で、古道具屋に転身されたタナカさんのご意見を」
 彼女がバッグから取り出したのは、かなり大きいサイズのボルトだ。家庭用の家具や電化製品に使われるものではない。もっと大きなもの……陸橋や鉄塔なんかに使われるものだろう。ところどころ錆びついているが、骨董というほど古くもなさそうだ。
「何を締めるボルトなのかしら?」
「このボルトに合った穴を埋めるためだろうさ。まあ、どのみち、売り物にはならなそうだ」
 実際、そのボルトは大きいという特性を除けば、鉄製のどこにでもあるタイプに見える。だが、それは一見したところの話だ。詩であれ古道具であれ、ちらっと見ただけでは何も語りかけてくれない。
「そんなどこの古道具屋でも聞けるようなことが知りたくてここへ来たわけではないのよ。おわかりでしょ? タナカさん、あなたの噂、本当でらっしゃるのよね? 古道具の言葉がわかるって」
「そんなとくべつなものじゃない。蜜柑を食べれば産地が想像つくのと似たようなものだね。産地だけじゃない。農家でどんな扱いを受けてきたのかすらわかる。注意深くモノを食べれば、実際誰にでもできることだ。俺はそれが古道具相手にもできるってだけさ。これだって、誰にでも本来は備わった能力だ」
「でも私の周りにはいないし、私もそんな能力はないわ。あればここへは来ていない。じつのところを申し上げるとね……」
 そこで女はもったいぶって言葉を切り、また息を吸い込むと、覚悟を決めたようにゆっくりと息を吐きながら言葉を逃がした。
「私も古道具の言葉自体は、わかるの」

TZZ(ゆっくり回す。急げば二度と抜けない)

「おいおい、君以外に〈ねじ式病〉患者が現れたぞ……これはよくない。精神病患者は共同幻想を抱くことがあるんだ……」
 またジョンがつまらぬ心配をごにょごにょと耳元で囁く。
「君は医者だろ、ジョン。少しは落ち着け」 
実際少しばかり驚いてはいる。自分以外で、物と者の境目を設けない人間に出会ったのは初めてだ。読書が趣味だくらいのありふれた共通項で盛り上がるのとはわけが違う。
「つまり、君も俺と同じ能力があるわけか?」
「同じではないわね。私にわかるのは言語でしてよ」
「言語?」
「つまり、古道具には古道具の言語があるでしょう?」
「ああ、まあ……」
 文法に自覚的なのは外来語を身につける時。物心ついた頃にすでに〈ねじ式病〉に罹患していた自分は、古道具の言語に意識が向かない。彼らのコトバは空気のように当たり前にあるものだから。
鳥の色の似るのすぐのよ。
 女の会話に割り込んでそう呟いたのは十八世紀に製造されたらしいトライアングルだ。このトライアングルはちょっとした声に共鳴して思っていたことを意味もなく口走る。たぶん、今のもあまり意味はないのだろう。女の客の時ほど口数が増える。
「たとえば今、どなたかお話しになられたわね」
「そこのトライアングルだよ。大きな壺の隣のそれだね。そいつはベートーヴェンが使っていた代物だ。二等辺三角形をしてるだろ? 最近のは正三角形だが、あの頃は違うんだ」
するする女のお化粧のお尻。
「いまのはあまり気にしなくていい。十八世紀生まれのくせに、基本的に思考は小学生男子よりしょーもない」
「大丈夫。人間に興味があるのね」
 女は上品な微笑を向ける。
「主語や述語の順番はどうでもよくてらっしゃるようね。でも一応の意味はわかる。たぶん私のお尻に触ってみたいと言ったのよね?」
「まあ、表層的にはそうだ」
 本音は違う。このトライアングルは、女の尻に触ってみろとこっちにけしかけているのだ。最初の〈するする〉というのは、強い憤りを示す。谷川俊太郎並みに怒っている。どうして早くやっちまわないんだ、と。
「私にわかるのはそうした文法から読み取れる表層的な部分だけなの。古道具の詩学となるとちんぷんかんぷんよ」
 女は誤解している。古道具たちは詩なんて高尚なものは話さない。ただ、言語というツールは彼らの意志を伝えるにはいささか遅すぎるだけなのだ。彼らは動きたいと伝えた時にはすでに怒っている。なぜ動かさないのだ、死にたいのか、と。過剰な欲求が背後にある。それを詩というのなら、たしかに古道具にも詩学はあるのだろう。
「そんなわけだから、このボルトが何を言っているのか、私にはさっぱりわからないのよ」
 女はボルトを手渡す。まずは触れてみなければわからない。ためしにボルトを手にとり矯めつ眇めつ眺めてみる。最初のうちは囁くようにしか語らない。場に緊張しているのか。単に声を届ける気がないのか。だが、掌の上を嫌っているわけではないことはわかる。
 ウラン……プォケシ……テクダーッス……モ。
「何か伝えたいことがあるのかしら? 文法を構成しないの。たぶんあまり話す機会がなかったのね」
「大丈夫。長いあいだ役割から離れているとそういうことが起こる」
 根気よく声を聞き続けるが、真新しいことは言っていない。
 ウラン……プォケシ……テクダーッス……モ。
同時にもたらされたのは何者かの荒い息遣い。このボルトの吐き出したイメージだ。その後に、原風景が広がる。とぐろを巻く蛇。
それから、高い塔。ぎゅあああごうおおおおおお。塔の悲鳴。その悲鳴に驚き、悲しむ者たちの合唱。やめてやめてやめてやめて。何かが、その塔で起こった。このボルトは、その一部始終を見ていたのだ。再び荒い息遣い。それから、またボルトが話す。
 シノカイ……テンガァアアアアアア………
「言いたいことはあるが、話し慣れていない。赤ん坊と同じだ」
ボルトが吐き出してくる映像や音が記憶なのか単なるイメージなのか。古道具の中にはつねに存在しない記憶が溢れている。奴らこそ〈ねじ式病〉じゃないか。しかも、その記憶はいつの間にか、こちらの記憶やイメージと接ぎ木され、それもまた区別がつかなくなっていく。自分が考えていたことか、古道具が考えていたことか、その区別がつかないのだ。まったくこんな迷惑なことはない。
だが、そう嘆くといつもジョンは言うのだ。「でも君の場合はそれを飯の種にもしているから困ったね」と。そう。たしかに、〈ねじ式病〉でなければ、この仕事は成り立たないのだ。
 回転するボルトのイメージ。それから、唐突に挟み込まれる。
 76
 はっきりとした数字。小数点以下はない。何かが脳に訴えかける。その数字が意味するところを知っているという圧倒的予感。予感は経験則による場合もあれば、そうでない場合もある。者と物の区別がつかないように、その区別もまた難しい。
「わるいけど、やっぱりさっき言った以上のことはわからないね。とにかく、売り物にはならない。帰ってくれないか」
「……後悔しても遅くってよ」
「後悔をしない主義でね」
「主義でどうこうならないこともあるとは思わないのかしら?」
「生意気な女はきらいだ。出て行けよ」
「あなたが答えを出すまで、絶対に帰らない。それに、あなただってそのほうがよろしいんじゃなくって?」
 女はおもむろに椅子に片足を乗せた。長いスカートから不意に白い脚が現れる。女を最後に抱いたのはいつで、次に抱くのはいつだったか。片田舎の停車駅に佇むみたいに、ぼんやり白い肌を見る。
ぬめぬめ牛乳のこぼすこぼす飲む。
 トライアングルがまた騒ぐ。わかってる、という意味で軽く頷いてみせる。あのぬめぬめと白い牛乳が零れ落ちる前に飲み干せ。だいぶ世話好きなトライアングルだ。
「あの……オホン……僕はどうすれば……」
 ジョンが赤面しているので、仕方なく準備室に追いやる。
「ねえ、これは医師としても友人としても忠告するけど、あの女はやめておいたほうがいい」
「判で捺したような日常から抜け出せと言ったのは君だ。それにあのイヤリング。夢を解析するキーパーソンだと言ったじゃないか」
「だけど……こんな関り方とは話が違うよ。だいたい好みじゃないって言って……」
「黙れ。とにかくそこで大人しくしてろ」
 それからオフィスに戻って彼女と対面する。彼女はストッキングを脱いだところだった。
「朝からずっと穿きっぱなしで苦しかったの。ああラクになったわ」
 女は椅子に足を組んで腰かけたかと思うと、こっくりこっくりとうたた寝を始めた。あるいは、そういう演技を始めた。
「つか……れた……何も……かも……」
 静寂が戻ってくる。ここにあるのは女の寝息と、古道具たちの囁き声。すう、すう/雨なめ冷めダメ/春来たるらし白妙の肌の嗅ぐ夜/ぬめぬめ牛乳のこぼすこぼす飲む/すう、すう/魔愚賄魔愚賄の法華経びすびすしすれば/ス・ソン・デ・ガン/カルペ・ディエム……。
 最後のはホラティウスの引用か。その日の花を摘め。大型の花瓶だろう。あいつはギリシアの街からやってきた。
掌のボルトを、そっと左手でねじってみる。あたかも、掌に埋め込もうとでもするように。すると、さっきよりも話しやすいのか、ボルトは饒舌になる。
 ジャック……ノア……メガ……ラン……
 さっきのものも含め、ボルトが話したすべての言葉をノートに書きとる。実際にそれは言語なわけではない。音ですらない「風合い」または「雰囲気」みたいなものだ。その得体のしれぬものに言語を適当に当てはめて「コトバ」として読み取る、のだろう。「のだろう」というのは、そのへんの感覚が昔から自動的にできてしまっているからだ。
 ウラン……プォケシ……テクダーッス……モ
 シノカイ……テンガァアアアアアア………
 ジャック……ノア……メガ……ラン……
物質にもやはり各国の言語の影響は見られる。多くは製造元や長く過ごした土地の言葉に影響を受けている。この文字列で、言語を特定できる部分があるとすれば、「シノカイ……テンガァアアアアアア………」の部分だろう。「死の回転が」と言おうとしていたのかも知れない。回転はボルトの基本運動。だが、「死の回転」とは何だろう? 「死のドライブ」なんて言い回しが人間の世界にはある。ボルトの世界では、それに代わる言い回しが「死の回転」なのか?
 女がわずかに寒そうにする。仕方なく抱きかかえてソファに横にならせ、毛布をかけてやろうとするが、その刹那、女が首に手を回してくる。疲れたのではなかったのか? それとも疲れたがゆえか。
このようにして、長きにわたる断交期間は終わりを告げる。トライアングルの囃し立てる声を聞きながら、物質もまた人間と同化するのかも知れない、と考える。だとしたら自分はいまトライアングルの煽りに乗って物質の領域に足を踏み入れたのか。
 やがて物質も人間も何も言葉を発さない時間がやってくる。まるで肉体疲労が伝染したみたいに、誰もかれもが黙っている。
知っている静寂と初めての静寂を分けるものは何だろうか? この静寂は知っている。だが、そう感じるのは自分なのか女なのか。女と自分の思考にも、いつの間にか境目はなくなっている。いい仕事だったわ、と女が言った気がしたが、それは思考が流れてきただけかもしれなかった。
 ──この部屋ったらまるで夜のフラスコの底のよう。
 女の言葉が思い出された。あるいは本当にこの部屋は夜のフラスコの底なのかもしれない。ユイスマンの『さかしま』の主人公の部屋以上に内省的で、そのくせ何一つ顧みるところのない部屋。
 こんな夜には自分のつまらない半生が思い返される。ふだんは思い返そうにもそのほとんどをじつは忘れてしまっている。経験した先から忘れてしまうのだ。苦しみも楽しみも、忘却の前では等価だ。すべては忘却という処刑執行人に首を斬られる。
 だが、今夜はなぜか過去がよみがえったような錯覚を抱く。それは連日見続けているあの夢が、過去に成り済ましただけなのか。久々に女の皮膚を指に馴染ませたせいで、機能がおかしくなったようだ。 
拭き取ってやった涙の記憶は翌日までもたないのに、拭えなかった涙の記憶は永遠に付きまとう。あの女は何を求めたのか。言葉とは裏腹の感情に、なぜ自分は想像を巡らさなかったのか。
あの時──どのときだ? わからない。やはりこれは記憶のなりすましに過ぎないのか。夢は夢でしかない。
だが、同時に分析的思考が働く。待てよ? 〈夜のフラスコの底〉だって? 急いでベッドから這い出ると、かつて現代詩研究をしていた頃の書棚の前に立ち、本の背表紙を眺めてゆく。不思議なもので書棚を整理したのはもう十年近く前のことだというのに、すべての配列を記憶していた。その中から『高田敏子詩集』を取り出す。
最初に収録されている「夜のフラスコの底に」という詩に目を通しかけた。
 ところが、その前に、不意にオフィスの鍵穴に硬質な金属が差し込まれる音がする。鍵よりも小さくて細いものが差し込まれたのだ。耳の痒みを探るみたいにいつまでもがちゃりがちゃりと鳴る。
「誰か来たよ」
 準備室からジョンが小声で言う。軽く頷いてみせる。
こんな夜中にドアの鍵穴で遊ぶ者が現れるなんて、これまで一度もなかった。泥棒が喜ぶような代物は何一つありはしないのだから。だが、鍵穴を引っかき回す音は止まない。やがて、カチン、という愉楽の響きが届けられ、ドアが開く。入ってきたのは男だ。男は手に細い針金をもっているが、もう不要なのか、ぐにゃぐにゃに折り曲げてポケットにしまう。
 それから口笛を吹き始める。ここに誰もいないと信じているかのように。だが、そうではないことがやがてわかる。彼は灯り一つ灯らぬこの部屋で、正確に、この眠れる王の居場所を掴んでいたのだ。男はソファの前にやってくると、あたかも安眠を与えんとするかのように殴打を繰り返した。その一撃一撃には感情や躊躇いが感じられなかった。男はただある一定のリズムを刻むようにして、殴打を繰り返し、反応を見て手を休めた。
「ボルトをどこへやった?」
 男の尋ねる意味がはじめはわからない。
〈れいわ〉の元年に、なぜ自分はこんな目に遭っているのか。一方で男にしてみれば、〈レイは、ボルトをどこへやったのであります?〉と問いたいところか。レイ・チャールズの名誉のために答えねば。
「そんなものはここにはないね」
 内心ではベッドの女が目覚めないことを祈っていた。しょうじきに答えることがどんな結果を生むかは想像に難くない。五、六発の殴打を受けて倒れこんだところでさらに腹部に三発の蹴り。これで嘔吐を催さなかったのは奇跡だった。
「女がここを訪れたことはわかってる」
「彼女は何も持ってきてはいない」
「本当だな? 信じよう。こっちは忙しいんだ。ボルトを七十六本集めなけりゃならないんだからな」
 七十六という数字が引っかかる。それはさっきボルトが話した数字でもあった。
 そこで意識は途絶えた。男がふたたび殴打したからだ。
 遠のく意識のなかで、最後の男の言葉が聞こえた。
「代わりに、女の命だけもらっていく」

TZZZ(できるだけ深く。さもなくば、
抜けてしまう)

 七十六のボルト。その言葉が何を想起させるのか。記憶はルーレットに似ている。ある時には思い出せなかったものが、あるべつの瞬間には当たり前のように思い出せたりする。
 脳内はずっと一人の女を映し出している。またあの夢か。
──わかっていた。いつかあなたの心が離れていくって。
夢の中の台詞から意味を掘り起こそうとも思わない。たとえ、それが過去に実際に誰かが自分に吐いた言葉だったとしても。
長年、蓋をすることを強いられすぎて掘り返すことに意味を見出せなくなった。
体を起こし、ベッドで顔をクッションに押しつけたまま女の身体が冷たくなっているのを確かめた。男は自分の言葉を実行に移したのだ。
──代わりに、女の命だけもらっていく。
ずいぶんな目に遭ったようね。
自分の惨状を棚に上げて、物質と化した彼女はこちらを気遣う。
「おかげさまでね。君のボルトのせいだ」
でもあの男、ボルトは見つけられなかったみたいね。うふふ。
 灯台下暗し。私を処女とでも思ったのかもね。
 なるほど、その通りだろう。死体をまさぐり柔らかな渓谷に埋め込んであるボルトをそっと掘りだす。ここでは回転は必要ない。思い付きの遊戯が、結果的には男からボルトの在処を隠したのだ。
 そろそろ私帰らないとだわ。とにかく無事でよかったわね。
 彼女は死体となったことを認識していない。曖昧に頷きつつ、こちらは荷物をまとめる。もうここにはいられない。戻らない旅に出るのだ。準備室のジョンにも声をかける。ジョンはすでに身支度万全で、早く早くと急かしてくる。
財布と通帳、少しの着替え、髭剃り、歯ブラシ。あともちろんボルトと長らく使っていない電動レンチ。それから少し迷って『高田敏子詩集』と、トライアングルも鞄に入れた。
「一つ教えてくれ。君はこのボルトをどこで手に入れたんだ?」
 遠い昔に譲り受けたのよ。大切な人から。私をどうするの?
「……連れていく。置いてはいけないからね」
 まあ逃避行。
 深い溜息をついたのは、自分だったかジョンだったか。ささやかな吹き溜まりの日常が終焉を迎えたからではない。自動車の運転について考えを巡らせたからだ。
「ジョン、運転しろよ」
「無理だよ。免許がない」
「俺は免許はある。だが〈ねじ式病〉患者が運転していいのか?」
「ほかに方法がないなら仕方ないよ」
都合のいい医者だ。校庭に佇む中古のマークXを前回走らせたのは何年前のことだったか。ジョンが早口でまくし立てる。
「七十六のボルトって何のことだろうね? わかる?」
「七十六のボルトと言ったらそりゃあ……」そう言っているうちに次の言葉が降ってくる。「そりゃあ坂出送電塔倒壊事件に決まってるさ。一九九八年に起こった。覚えてないか?」
「いや、記憶にないね。何しろ九八年なんて……」
 ジョンの言葉を遮り、ボルトに尋ねた。
「君の出身は坂出か?」
 漆黒……CarがWar……ノードン……ツル。
 四国。香川のうどん。つるつる。昨日より、聞き取りやすくなっている。続けて尋ねる。
「君は坂出の送電塔にあったボルトだね?」
 ソウデン……トゥ……タオレル……ナミダ……。
 坂出送電塔倒壊事件を思い出したのは、七十六という数字がものを言ったようだ。あの事件では、ボルトが八十本中七十六本抜き取られたのだ。
 奇妙だ。なぜこんなことがすらすらと言えるのか。記憶喪失者のつもりはないものの、それ自体が意外なことに感じられる。東京にいる自分がなぜ四国の事件を記憶しているのか。興味深い事象だ。
ボルトがもたらした記憶、イメージが流れてきただけとも取れるが、何にせよそれはもはや己の記憶と区別がつかない。借り物のイメージでも、真実の匂いを伝えてはいる。無視はできない。
メメクラゲにワードを入力して情報を摘出する。
「坂出送電塔倒壊事件はそれなりに有名な事件みたいだな。九八年の二月。坂出市で高さ七三メートルの送電塔が倒壊し、一万七千世帯に及ぶ大停電を引き起こした。原因は送電塔を支える八十本ものボルトのうち七十六本が抜き取られたことにあった。ところが、県警はこのボトルの抜き取りに気づかず、当初これを自然災害が原因の事故だと考えていたために現場の管理がずさんで、重大な証拠となるこれらのボトルもカメラマンやその他の者によって多く持ち去られてしまったのだった」
「君はメメクラゲのメメペディアなしじゃ生きられないね。重症な〈ねじ式病〉だと思うよ。できるだけメメクラゲから距離を置いたほうがいい」
「メメクラゲは君よりよほどいいことを言うぜ? ところで、ボルト、君は高田敏子の詩を知っているか?」
 トシコ……ナイ……シル
 覚束ない言葉でボルトは答える。高田敏子は知らない。だが、その詩を、ボルトはどこかで覚えたはずだ。
「君が昨日口にした言葉の一つ一つを昨夜考えていた。ウラン……プォケシ……テクダーッス……モ。これは、リピートするうちにわかった。〈うらんぷぉけしてくだぁっすもうらんぷぉけしてくだぁっすもうらんぷぉけしてくだぁっすもうらんぷぉけしてくだぁっすも〉。これは〈もうランプを消してください〉と言おうとしたんだろう?」
 ウラン……プォケシ……テクダーッス……モ
「そうなんだな。よしよし。次だ。シノカイ……テンガァアアアアアア………。これは、〈死の回転が〉と読める。だが、その前の〈もうランプを消してください〉と合わせたときに、俺は高田敏子の『夜のフラスコの底に』という詩を思い出した。この中に、〈私の回転が始まる〉という一節がある。これを君は覚えていたわけだ。そう考えれば、ジャック……ノア……メガ……ラン……も〈静寂の雨が私の体を浸し〉という部分と気づいた。君はどこかで『夜のフラスコの底に』という歌を思い出した。そこまで考えて昨日ここへ来たとき、君が呟いていたことを思い出した」
 いまだベッドに横たわる女の死体を見る。私が? 急に話題を振られ、女は驚いているかに見える。
「君はこの部屋のことを、夜のフラスコの底のようだと言ったんだ」
 そうだったかしら。お忘れなさいな。
「君は高田敏子が好きなのか? そもそもこのボルトとどんなつながりが……」
 ああもう私帰りたい。私ここ嫌いなのよね。
 仕方なく、女の死体を抱えて外に出る。まだ外はほんのり青い光を放っている。久々に開けたトランクにはムッとするような空気が籠もっている。ビニールシートを敷いてから女の遺体を横たわらせる。
 お姫様みたい。でも早くしてね。会社に遅れるのよ。
「その心配はなさそうだ」
 トランクを閉める。まずはここからいちばん近い海へ。その後、四国へ向かう。ざっくりとした計画を立てると、運転席へ向かった。ハンドルの下にキーを差し込み、回す。
 おひささささささささぶりしっくす。おかませあれっくす。
 ご機嫌な調子でマークXが言った。
「オーライ、兄弟。俺たちはみんなファミリだ。仲良く行こう」

  ZZZZ(底に辿り着いたか。それは本当か)

 明け方の五時に海で死体を捨てた。
大きな石を括りつけ、投げ入れる。
 メイクの時間だってこれからなのに、ああもう私ったらがぼぐぶぐぶぐぶぐ……。
女は最後まで出勤準備の心配をあれやこれやと考えていた。最後にお休みのキスくらいしてやればよかった。だが、それどころではない。女は両手にありあまるほどの災厄を押し付けて死んだのだ。
女のいなくなった後の車内は静かだった。みんな自分たちのしでかしたことの重大さについて考えていたのだろう。やがて、ジョンが口火を切った。
「ねえ、四国でその送電塔を見つけたって意味がないと思うけど?」
「こっちは命を狙われたんだ。その周辺で聞き込みをすれば、昨夜現れた男の正体もわかるってもんさ」
「そうかな……」
「それに見ろよ、このボルトを。しょぼくれちまって。元の場所に戻りたくって仕方ないのさ。こいつにとっちゃその送電塔は親も同然だ。そうだろ?」
 会う……たい……会う……たい
本来なら、ここでボルトも捨ててしまいたかった。だが、なぜかできなかった。
久しぶりの朝日を受け、細胞が覚醒するような感覚を抱く。光は一瞬で体内をすり抜けてゆく。これはいつかの光だ。親のいぬ間にだらりと寝そべっていた高校一年の春休みの光に似ている気もするし、もっと昔、幼稚園の頃の昼下がりにも似ている。
が、さすがに運転席で光を浴びすぎると、昼頃になると疲労へと変わってくる。仕方なく、諏訪湖のサービスエリアで仮眠をとることにした。眠る前に缶コーヒーを買いにコンビニに向かった。
尾行されている気配はない。だが油断は禁物だ。昨夜の男がボルトを狙っているかもしれない。
土産物コーナーには携帯やピッチの充電器のほかに、フジフィルムの使い捨てカメラの自販機がある。そこを通り過ぎてカセットテープのコーナーへ向かった。こういう場所では来生たかおが存外幅をきかせていることには毎度驚かされる。迷いつつ、来生たかおと井上陽水のベストセレクトを購入した。
それから車に戻り、来生たかおを流しながら眠ることにした。
「今頃来生たかおもないもんだ」
「馬鹿だな。『夢の途中』なんて泣くぞ」
エンジンはかけたまま。時刻は夕方の四時。仮眠をとるには日差しの強すぎる嫌な時間帯だ。なぜこんな時間を選んだのか。だが、これ以上運転すれば、睡眠へとうっかり移行するのは間違いなさそうだった。年々、通常の状態から睡眠状態への境目が消えかけている。
レムとノンレムを行ったり来たりしていると、カセットが終わる。リピート再生にしていなかったせいか、自動的に車専用メメクラゲから音楽が流れ始める。最初はキリンジの「ストレンジャー」、その後にSuchmosの「ミント」、コーネリアスの「point of view point」とまったくつながりのなさそうな選曲が続いている。
〈それではお聞きください。GRAPEVINEで『そら』〉
懐かしい楽曲。だが、〈懐かしい〉とは何だろうか? その感覚は、何らかのパースペクティブが自分の中にあるということだ。だが、実際はその楽曲と現在との距離感さえ定かではない。なのに、GRAPEVINEというバンドの名を聞いた瞬間、何とも言えない愛おしさが込み上げる。その感覚は、トンネルの中に描かれた二度と落とせないスプレーの落書きみたいにしっかりと心に跡を残している。
窓をノックする音がしたのはその時だった。ファミリはもうみんな眠っていた。目を開けると、明らかにまだ十代だとわかるショートヘアの少女が立っている。漲る若さは、デニムのジャケットの下のタンクトップから覗いた胸元のサイズを恥じたりはしていない。窓を開ける。足元のやや綻びのあるルーズソックスから年齢及び経済力がわかる。
「駐車違反はしてないはずだが?」
「それ、冗談なん?」
 彼女は車内を覗きみる。よせ、ファミリが起きたらどうする。
「ふうん、なんや埃っぽい車やね」
「警察じゃないなら閉めるぞ」
「え、ちょっと待ってよ。乗せてほしいんやけど」
「なぜ?」
「なぜって、それは車がないからやね」
「ここはサービスエリアだ。車なしでは入れない」
「ヒッチハイクで乗せてくれたトラックの人がここで降りぃ言うて……やけん困っとるんよ」
「俺には関係ない」
「やろね。でも乗せて言うとる。乗せたら、そこで関係が始まる」
 少女の話し方に興味を引かれた。訛りはともかく、その話法に、独特のものを感じる。
「どこへ行くん?」
「君はどこまで乗せてほしいんだ?」
「『キミ』ってなんや東京のひとみたいやね。行き先は決めとらんの」
「ここは下りのサービスエリアだ。つまり君も下って来たんだろ?」
「その推測はハズレやね。三日前から、いろんな人に乗せてもらって、東へ進んだら、また西に戻されての繰り返しよ。その人たちの行き先についてっただけなんよね」
「それじゃ、いつまで経ってもゴールに辿り着けない」
「ゴールなんてないもん」
「家出か?」
「かもしれんねぇ」
「君は何歳だ? そのルーズソックスから想像はつくが」
「言うたら警察に連れてく気なんやろ? 言わんし」
「危ない橋は渡りたくないね」
「橋は渡らんでええの。ただ、乗せてってくれたらそれでええの」
 少女はそれから何を思ったのか、バンダナを取り出す。長い長いバンダナだ。それを目の辺りに巻き始める。
「うちは何も見えん。フェアやろ? キミの行くとこへ連れてって」
「どこでもいいのか?」
「……橋を渡る時は教えて。それがどんな橋でも絶対に」
 それで契約は成立した。バンダナで目隠しした少女をずっと脇に立たせておくわけにもいかない。助手席のドアを開けて彼女を中に入れた。後部シートで眠っていたジョンが目覚める。
「え、だ……誰? その子」
「ジョン、少し黙っておけ」
「ジョン?」少女が不審そうに後部シートを振り返る。どうせ目隠しして何も見えないのに。
「後ろにいるのが、ジョン。元自衛隊員の医者だ」
「どうも……よろしく……」
 少女は前を向き直る。それから、体を揺らし始める。
「『そら』やね。名曲」
「好きなのか?」
「もうバイン一筋やけん。一生、バインと生きてく」
 来生たかおの時に来なくてよかった。
「好きなバンドがいるのはいいことだ」
「これ、何? ラジオ?」
「メメクラゲ」
「メメクラゲ……?」
 まだまだメメクラゲは知られていない。つげ義春の生んだ偉大な発明品が一般的な認知度を得るにはあと五十年は待たねばならないのか。「れいわ」の時代でこそメメクラゲは需要が高まるだろう。
 ふんふんふふん。少女はハミングする。あまり歌は上手じゃないようだ。今のところ少女の目だった長所は、細かいことを気にしない、ということに尽きる。
「うち、キミが気に入るようなことはあんまりできんのよ」
「俺が気に入るようなこと?」
「そういうこと、運転の最中にさせたがる人多いやろ?」
「ブレーキ不意に踏んだせいで切断なんてことになりたくないから要らない」
「そう言うてくれてよかった。うち、八重歯が鋭いんよね。なんや当たると痛いらしくて」
「聞いてないことをぺらぺら喋るなよ。下ろすぞ」
「いま何メートル走った?」
「まだゼロ。エンジン音を聴け」
「バインしか聞こえん」
 騒がしい旅になることは確定した。少女は実際、じつによくしゃべったが、音楽に疎くて、メメクラゲから流れる音楽の大半を知らず、その音楽の時代背景について語っても、その時代に関する知識がそもそもなく、異世界の話でも聞くようにひたすらよくわからない声を上げていた。

  ZZZZZ(あと何回転できるかが問題だ)

 仮眠の予定を切り上げて、走り出すことにした。夕方六時くらいか。だがそれが朝の六時であったとして何か困ることがあろうか。
 たとえばこの後一秒先に進むのであれ一秒後ろに戻るのであっても、自分は困らないだろう。〈ねじ式病〉患者だからか。
「何が好きなんだ?」
「うち? 『アメリカの鱒釣り』。『雲が電線を揺するので、どうにもならない』ってとこがいいんよねえ。何やろね? どうにもならんって。あはは。しかもその後、の一文がええんよ。『こうして、わたしは女と寝た』。朝まで笑い転げよったし」
「ブローティガン?」
「作者名は忘れた。大事なん?」
「いや、どうかな」
「あとは映画の『サクリファイス』」
「タルコフスキー」
「ん? 何が好きぃやて?」
「何でもない」
「それと……ああ詩も好きやね……いろいろ読む」
「どんな?」
「わからん。忘れた。場所とか時間とか空気とか……記憶ってそういうもんと結びついとるやろ? やけん、そういう瞬間にしか思い出せんのよ」
「だいぶ特殊な脳だ」
「そう? ふつうよ、ふつう」
 そうかもしれない。あらゆるものに境界線を作らない〈ねじ式病〉の自分のほうが特殊といえば特殊だろう。こうしている今は少女の思考が、下水を伝ってネズミと共に流れてくるような気がする。
「話しながらまたバインがかからないかな、と思ってるね?」
「そらそうよ。もうビーズはこりごり」
 ちょうど「ゼロ」がかかり始めたところだった。数分前には「裸足の女神」が。テーマが〈平成の三十曲〉だからだろう。
「ビーズって男子みんな好きなんよね。うちも好きやった。いま聴いても好きやなぁとは思う。でもビーズが好きっていう子はみんなまっすぐでみんなちょっとアホなん。なんでやろか」
 ビーズは平成とともに誕生した。その歴史はほぼそのまま平成史といっても過言ではない。TMネットワークが辿るはずの栄光はビーズが奪っていった。そのごりごりのアメリカンロックの華やかな部分だけをエキスにした音楽は、ある意味でバターの上からジャムを乗せるみたいにJ‐POPを塗り替えたのだ。その支持層は宇宙を埋め尽くさんばかりだ。
「エーキチファンほどじゃない」
 オホンとジョンが咳払いしたのは、奴がエーキチファンだからだ。
「えーきち? 誰それ?」
「忘れろ。君は作家や映画監督の名前は意識しないくせに音楽は誰が歌っているか意識しているんだな」
「そらそうよ。だって歌手は神やけん。じぶんの神の名前はみんな知っとるもんやろ?」
 自分には神がいるだろうか? ふとそんなことを考える。いた時期もあった。ステファヌ・マラルメ、ポール・クローデル、レーモン・クノー、レーモンド・カーヴァー、アレン・ギンズバーグ、チャールズ・ブコウスキー、それと鮎川信夫……。
だが今はどれも捨て去っている。ワイルドターキーか、さもなくば無花果だろうか。梨もいい。梨か無花果かワイルドターキー。あとは濃い珈琲か。こうして考えてみると、近年の自分は見事に活字との間に距離をとって生きてきたことがわかる。
 我々はその後もメメクラゲから流れる音楽をネタに会話を交わし続けた。それ自体は、少しずつ互いの齟齬を理解し合うようでもあり、楽しい行程でもあった。ときどきはジョンも会話に加わったが、だいたいにおいて少女は自分との対話を求めていたのでジョンは拗ねたが、まあそれは仕方ない。

  ZZZZZZ(回転が止まったら風景を見よ)

 やがて、我々は吉備サービスエリアに停まった。彼女は現在地については何も尋ねなかった。トイレの前まで、目隠ししたままの彼女を連れていって多目的トイレに案内してやると、彼女はなぜか自分をそのゆったりしたスペースに招き入れた。ここは、多目的となっているが、あらゆる目的を想定しているというわけではない。
「ねえ、ほんまにせんの? ええのんで? 病気がこわいん? せやったら大丈夫よ。うちまだクラスメイトの子くらいしか知らんし」
 彼女は用を足しながらそう言った。ちょろちょろと彼女から滴る雫の音が川のせせらぎのごとく心地よい。生温かい甘みを含んだアンモニア臭が空間に広がる。
「病気は心配はしてない。でも足りてるんだ。いまのところね」
 事務所に現れたあの女との濃厚な絡みがまだ身体にまとわりついている。若い頃は水を飲むようにいくらでもこなせたが、最近ではひと月に一回でも多いと感じる。実際に自分の身体を用いて誰かと交わるとなると、時間も費用も体力も相当消費する。それだけのモチベーションを維持できないのだ。
 だから女とのセックスは僥倖で、あれを一とカウントするなら、もうここから当面のセックスは無用の産物だった。たとえタダ同然でもごめんだ。
「それより、太腿にある青痣は誰につけられた?」
 彼女は下着を上げて、水を流す。
「その話は嫌や……今はしたくないんよ。それではいかんの?」
「べつに。君の好きなように。なら、何の話が……」
 最後まで言わせずに少女の唇が重ねられた。二日続けての性交は象の大群から逃げ回るよりハードだ。しかも前日の相手が死者となっているような場合はとくに。今はまだ接吻という単純な接触行為に、つねに死のイメージが張り付いているのだ。
「やめよう。君とはやらない」
「車でなら?」
「しない」
ちぇっと舌打ちする少女を引きずるようにして車内に戻る。
〈多目的〉にはセックスが含まれていない。対して自動車には〈多目的〉とはついていないが、セックスの場として容易に機能する。幸い、すでに日も高くはなく、フロントウィンドウをシェードで隠せば、サイドウィンドウは周りからは見えづらい仕様になっている。トライアングルが鞄の中で騒ぎ立てる。
 車ゆれるの包まってゆれるの悪魔来るまでゆれるの
「揺れない。何もしない」
「誰と話しとるん?」
「いや独り言」
 ふたたび抱きつこうとする少女を離す。
「一夜明けて、君が目隠しを外してなお気持ちがそのままなら、考えよう」
 高鳴る心臓を鎮めた。
 不意に思い出す。事務所に現れた女の両耳で、心臓を象ったイヤリングが揺れていたことを。
心臓を象った──ああ……そうだ、それもまた高田敏子の詩のイメージだった。
車を走らせる。
 窓の外では、満月がぴたりと後をついてくる。まだ彼女はバンダナで目隠しをしたままだが、闇の濃さは認識しているのだろう。
「そのやかましい女の子に子守唄でも聞かせてやったらどう?」
「黙れよ、ジョン。嫉妬か?」
「ば……馬鹿な……」
 ジョンはすぐ恥ずかしがる。一方の少女は、ふてくされたように助手席のシートを倒し、こちらに背を向けて身体を横たえている。
「夜のフラスコの底に私は横臥する」
「……どこでそれを?」
「忘れた。でも、好きな詩なんよ」
「高田敏子」
「昭和くさい名前」
「昭和生まれの詩人だ。平成元年に死んだ」
「高田敏子さんはビーズを聴いたんやろか? 元年やったら『バッドコミュニケーション』くらいは聴いたかもしれんねぇ」
「かもな」
「『レディ・ナヴィゲーション』は平成三年やったっけ? 高田敏子へのやや遅れた挽歌やったんと違うやろか」
「強引すぎる仮説だが、昭和において主婦詩人と呼ばれ、女性の日常風景を描いて有名になった詩人だ。女性の時代の微かな萌芽が芽生えた時代と無縁ではない。そういう大きい意味でなら、ビーズと高田敏子は遠縁の親戚にしてもいいかもしれない。ビーズの視点は、それまでの男性の歌謡ほどマッチョではない」
「でもこの詩は主婦っぽい匂いがせんのよ」
「初期だからな。まだシュルレアリスムの影響下にある」
「しゅる……何? まあとにかく、うちにとっては、この詩はバインと等価なんよ。神に近い手ごたえやね。何や意味がありそうでないようでようわからんやん? それでええんよねえ。生きるとか死ぬとかもそんなとこがあるやない? ああなるほどなんて思うこと、今まで生きててとくにないもんね。昨日こうやろかって思ったことが今日にはだいたい嘘になってまうやん?」
「そうだな」
「『そうだな』やて。東京人の言葉っておかしいな」
少女はひとしきり標準語遊びに興じる。ねえ何時ごろに出発するのかしら? あなたは目的地で何をなさるの? 少女はじつに楽しそうにそんな言葉を紡いで遊んでいたかと思うと、そのまま深い眠りに落ちていった。
 彼女が眠ってしまうと、ハンドル片手に彼女のバッグを漁った。
「やめなよ、コソ泥みたいな真似」とジョンがたしなめる。
 ナプキンの、ハンカチの、アイシャドーの、ひらく楽園。
「そう興奮するなよ、トライアングル。ジョン、君の感想は間違ってるぞ。これは必要な行動だ。そして俺は何も盗むつもりはない」
 そんな会話をひそひそと交わす。
鞄の中身は簡素なものだった。黄色いぼろぼろの財布と下着と着替えが二着。芝生しかない公園並みにシンプルだ。彼女があまり準備ができていなかったことが伺える。さらに財布を調べると、キザキサキオという父親のものらしいキャッシュカードのほかに保険証もあった。少女の氏名は木崎香瑠というらしい。住所もわかった。その住所に、溜息が出た。少女の住所は、坂出市だったのだ。
 彼女を起こして、行き先が坂出市であることを告げるべきだろうか。間もなく瀬戸大橋を渡ることになる。橋を渡る時には絶対に知らせる約束だ。
だが、もし四国へ渡ると告げれば、彼女はここで降りると言うだろう。そうすべきだ。さかのぼったのでは家出にならない。
だが妙なものだ。たった三、四時間ほど同じ空間で過ごしただけで、もう彼女の人生は他人事とも思えなくなっている。彼女の太腿の痣のことを思い出す。家庭でつけられたものだとしたら、家に連れ戻すのは酷だろうか。
だが、一人でヒッチハイクをしながら生きながらえるのはもっと無理だ。この国は、うわべばかりの紳士性とうらはらの獣性をいつも秘めている。
 結局、何も告げずに車を発進させることにした。目的地は、坂出市。このまま飛ばしていけば、夜が明ける前には坂出に着くことができるだろう。
「瀬戸大橋だ。教えたほうがいいんじゃないの?」
「いいんだ」
 瀬戸の日暮れの大丈夫の花嫁
「ああそうそう、瀬戸の花嫁ってのはこの瀬戸内海の歌さ」
 トライアングルは嬉しそうな声を上げる。
「彼女の家はどこなの?」
 声を落としてジョンが尋ねた。
「坂出市の人口土地ってとこだ」
 その不思議なネーミングの土地について、かつて調べたことがあった。そうしないと眠れなかったのだ。
その住宅地は、まだタワーマンションというものが存在しない時期に大高正人という建築家の提案で創られた。大規模な構造によって空中都市的な空間を実現したその土地は、実際にはさまざまな利権によって遅延する都市計画を遂行するための苦肉の策だったのだ。
 低層階に商業施設の入ったタワーマンションが一般的になってきた昨今でこの建築の特異性はなかなか理解されにくいところではあるが、単に二階の部分に住宅地を作るだけでなく、その二階部分を集合住宅地にしたところが画期的だった。
正式名称は、清浜・亀島地区住宅改良事業。でも誰もそんな名前では呼ばない。広まっているのは、坂出人口土地という名前のほうだ。ロンドンのバービカンを手本にして創られた。
きわめて風変りな土地だ。何とも無機質で、まるで砂の惑星にぽつりとそういう住宅街ができたまま忘れ去られたみたいな、寂しい感じのする街だ。
 実際に訪れたことはない。当時、建築デザインの本で写真を見たり、地図で位置を確かめたり、といったことを繰り返していた。
 なぜ──?
 なぜ自分はそんなことをしていたのか?
 ふとそんな疑問がよぎる。これは記憶か? それともイメージか。わかっているのは、それが毎夜見る例の夢の女と関係があるということだ。だがあの女は実在するのか? 人生のどこかで出会っていたのか? 〈ねじ式病〉患者は記憶とイメージの境界がない。だが、これほどはっきりした情報を調べたというのは、さすがに単なる夢ではなさそうだ。
 多くの写真をもとに、人工土地での暮らしを夢想した感覚。その空間を恋人が歩く様を想像した日々。一階の駐車場スペースや錆びれた商店街エリアを夜な夜な歩き、二階の住宅地へ続く白い階段を上りながら月を見上げる。その様子をある時にはくっきりと思い描くことができたし、ある時にはそこに自分の姿さえ投影させることも不可能ではなかった。
彼女と約束していたのだ。いつも心は隣にある、と。
いつだ? それは、いつの話だ?
 記憶か? それ以外か?
 覚えている、という手ごたえ。
 だが、果たしてそれは存在する記憶なのか。だが、その問いに結論が出ぬまま、唐突に脳の一部が何かのドアを開け、その向こう側にある物語を語り出す。

 ZZZZZZZ(締めすぎは危険のはじまり)

その少女、ルルコと出会ったのは、坂出送電塔倒壊事件のあった九十八年だった。その年は小沢健二が長い長い活動休止へと突入する年でもあった。小沢健二はそのようにして平成という時代から距離をとり、まるで平成の終焉を見越したかのようなタイミングで帰還した。
 あの頃に小沢健二や小山田圭吾に傾倒した者たちが、平成末期に起こった小沢健二カムバックに歓喜したのは言うまでもない。が、あの時代のJ-POPのど真ん中に小沢健二がいたかのような論調で迎えるのは、きわめてポップな歴史修正主義と言わざるを得ない。小沢健二はど真ん中になどいなかった。むしろ裏通りにいたのだ。「ラブリー」一曲がブームにはなったし、「今夜はブギー・バック」はそこそこの成功を収めただろうが、それくらいだ。〈王子さま〉と呼ばれていたのは、音楽的成功とはまったく乖離していた。
平成の後半における音楽界の変遷によって、裏通りは表通りへと役割を修正させられたのだ。それ自体は好ましいところもなくはない。背後には細野晴臣翁による星野源擁立という隠された文脈があったことは看過できないし、それは自民党政権を壊した小沢一郎の暗躍に近い見事な快進撃だったとも言える。
一方で、現在でも裏通りのままであるロックバンドが九八年にメジャーデビューを果たしている。GRAPEVINEだ。ルルコはGRAPEVINEの大ファンだった。隣で寝ている少女香瑠と気が合うかもしれない。
〈最近GRAPEVINEというバンドを知ったわ。「1&more」という曲が、とても解放感があって素敵なの。私の抱えている憂鬱を言語化したような曲なのよ。そういうとあなたは私を面倒に感じるかもしれないので今の発言は忘れてね。あと「そら」って曲も素敵。私のいた香川県はほとんど雨というのが降らないので、青空はもちろん最高なのだけれど、夜の空も素敵なのよ〉
 
 ルルコはメールのなかではいつも標準語だった。実際に会っている時には彼女はいつも強烈な訛りで話していたのに。
 そのルルコが、人工土地に住んでいた。
今となっては遠い昔の話──なのだろうか?

  ZZZZZZ(危険なので少し緩める)

 人工土地に到着したのは明け方五時頃のことだ。人口土地の寂寥感はイメージの世界を越えている。現在ではスラム化しているのか、無機質な街並みに人の気配はない。一階の商店街はどこも閉まっている。明け方だから当たり前かもしれないが、昼間でもたぶんそのままだろう。
人相の悪い少年たちが、シャッターの下りた店の前にたむろしていて、こちらをじろじろと眺めている。それほどの悪意は感じない。少女が寝ているのを確かめてから車から降りた。
「木崎という家を探している」
「え……あの家に行くんか……」
 少年たちはひそひそと話し合った後で、ようやく坂の上を指さす。
「でも、まじでやばいで、あそこは」
「礼を言うよ」
 どうヤバいのかはわからない。若者は「ヤバい」と言う言葉でさまざまな状態を表現する。だが、少ない語彙や強烈な訛りにも拘らず、少年たちの説明は意外にも丁寧でわかりやすい。おかげでそれから一分と経たずに木崎家に辿り着くことができる。
周囲の白い無機質な住宅地のなかでその住居だけがうずまきの模様をスプレーで隈なく描いている。空間すべてを渦巻きで埋めなければ納得がいかないかに見える。
木崎サキオは白装束に身を包み、住宅地の平たい屋根の上で両手を空に掲げたままじっとしている。その表情は阿修羅の如く険しい。
「あんたが木崎か?」
「静かにせぇ。いま大切なコーシンをしよるとこやけん」
「コーシン……?」
「コーレイジュツいう科学と宗教の生んだ崇高な産物を君は知らんのか。コーレイジュツいうんは、どこまでも科学的なもんやで。十九世紀の時代にはあのコナン・ドイルもハマっとったくらいやけん。ファックスの発明よりはよほど原始的なものなんや。あるもんがなくなっても脳はそうとは認識せん。脳の認識と実際の欠落の間にズレが生じるんやな。そのズレを……処理するんが、コーレイジュツや。最近はこれをKテックと呼んどる」
「俺はそんな話には用はないんだ。あんたに置き土産がある」
「待たんか。いま通信中や。ああ、そうそう、そうやで。ほやけん、はよう俺のメシを作らんか。遊びに行くんはその後や。当たり前の話やないか。おまえまさかよそに男でも……ほうか……ちゃうか……そんならよかった……」
 コーレイジュツをずっと聞いているのはさすがに馬鹿らしい。その間に下にいた若者たちのもとに戻って木崎サキオに関する情報を聞き集めた。
少年たちによると、木崎サキオの生活はコーレイジュツが基盤となっている。むしろコーレイジュツの合間に、申し訳程度に食事やトイレが挟まっている感じらしい。最近では少年たちは、彼の行動と「パナウェーブ」という団体の関連性を疑っているのだそうだが、そこに関連性があるのかないのかは不明ということだ。
 パナウェーブ──。聞き覚えがある。たしか、坂出送電塔倒壊事件の五年後、同じく香川県で五色台電波塔倒壊未遂事件が起こったとき、声明文に〈パナウェーブの報道を中止せよ〉とあったのではなかったか。
 やり口は同じくボルトを抜くというものだが、同一犯かどうかは今もって不明なままだ。パナウェーブとは当時世を騒がせていた新興宗教のような存在で、その存在は第二のオウム真理教になるとも囁かれていた。白装束という意味では、木崎サキオにはその可能性があるようにも思える。
 ちなみに、呼び出している「レイ」は彼の妻で、その昔彼が殴打して殺してしまったそうだが、警察は不審死扱いせず、検死もろくにしなかったのだとか。少年たち曰く「ここらの警察はひどいもんや」ということらしい。警察とヤクザ者の境がないのだ、と。
 ようやくこちらにやってきた木崎に尋ねた。
「あんたが奥さんを殺したって下にいた少年たちが話してた」
「はは。しょうもない噂話や」
「だが、死んだのは本当か?」
「知らん。忘れてしもたわ。どっちでもええことや。Kテックで脳に電極差し込めば、いくらでも会えるんやけん」
「あんたの妄想の中でな」
「何とでも言え。とにかく生きたとか死んだとかどうでもええ」
「あんたが殺したんじゃないのか?」
「何の用や? 用がないなら帰り」
 この男に少女・香瑠を返す意味はあるのか? 
 だが、迷った末に、男に告げた。
「サキオさん、あんたの娘さんを預かってる」
「香瑠を? すぐ返せ! 返せ!」
 飛びかかってきた男を投げ飛ばす。よれよれの手袋みたいな男一人をノックアウトするのにはさほどの労力は必要なかった。〈ねじ式病〉を患っていたってこれくらいは問題ない。それに格闘技バリツなら得意中の得意だ。
「いいか。君のわからない場所にメメクラゲを置いていく」
「メメクラゲだと……?」
「メメクラゲは君を観察し続ける。君が娘を殴ったりしたら、メメクラゲはすぐに俺に言いつける。だから、指一本触れてはならない」
 それだけ告げてもう一発殴った。サキオは意識を失った。
ポケットから小型のメメクラゲを取り出すと、わからないように外側に設置した。メメクラゲには目はないが、家と一体化して男を監視することができる。パラボラアンテナみたいなものだ。
 車に戻って香瑠を抱き上げた。
「後悔はしないんだね?」
「するかよ。だいたいジョン、うるさがってたのは君じゃないのか?」
「そうだけど……さっきこの子うなされてた。〈もうぶたんでおとん〉って。これが正解とは思えないんだ」 
彼女はまだ眠りのなかにいた。よほど旅の疲れがたまっていたのだろう。
「mistakeなら俺に任せておけ」
車のドアを閉めてふたたび木崎家へ向かい、ドアを足で蹴飛ばして開け、玄関先にそっと置く。
 目が覚めた頃にはすべてが夢だったと思えるだろう。長い長い家出の夢でも見ていたと思えるかも知れない。それでいいのだ。
 少年たちに帰りに尋ねた。
「ここに、ルルコという名前の女はいなかったかな」
 少年たちは首を傾げた。ここは入れ替わりが激しいから、そんな人もいたかも知れないしいなかったかもしれない、と。自分の記憶以上に、ここの土地の記憶は曖昧なようだった。
 車に戻ると、ボルトが何か話していた。
 ソーデントー……デンデンデン
 それで本来の目的を思い出す。そうだ、ボルトを送り届けねば。だが、その前に謎を解きたい。今になって七十六のボルトを集めようとしている奴がいる。そいつは、やはりあのかつての宗教団体の残党兵のような人間なのか。
 そいつらがボルトを回収しようとしているのはなぜか?
 地元の新聞記者を訪ねるか。車専用のメメクラゲで調べると、十五分ほど行った場所に坂出日報という地元の新聞社があるようだ。
行く先が決まれば、あとは車を走らせるだけだ。車はのどかな田舎道を直進する。車内では、メメクラゲがグレイプバインのアルバム『lifetime』の中の一曲「青い魚」を流している。『lifetime』は、彼らが恐らくもっとも高い成功を収めたアルバムだ。
 だが、その音楽が流れていることを喜ぶ少女は、もうこの車内にはいないのだ。
 もしも、香瑠を連れ去るような存在がいるとしたら、自分でなくてはならなかったのだ。だが、そいつは連れ去らずに親の元に眠っている間に連れ戻し、さよならも告げずに去った。Mr.mistake、おまえまたやらかしちまったな。何度目だ? さあ? 覚えてない。
 だが、罪悪感は計り知れない。すぐにメメクラゲのリモート確認ボタンを押してみる。
 まだ香瑠は眠ったままのようだ。そして、サキオの姿はない。恐らく家の外でぶっ倒れているのだ。あれから十分かそこら。変化があるわけもない。
「そんなに気になるなら、戻って連れてきたら?」
「うるさいぞ。腹ごしらえをする。琴平へ向かう」
「琴平? 金毘羅山のあるところ?」
「そうだ。灸まんというのを一度食べてみたいと思ってたんだ」
 行き先はこうして容易に変更される。ソウデントーソウデントーとボルトは騒いでいる。わかったわかった、とそれを宥めるうちに金毘羅山が見えてくる。その山際が朝日に照らされて輪郭が輝きだす。
 まばゆい朝の光も、目隠しをしたまま室内にいる香瑠のもとには届かないだろう。やめろ、もう考えるな。済んだことだ。
 琴平は錆びれた街だ。そこが昭和三十年の日本だと言われても信じてしまいそうなほど文明の気配が消し去られている。およそ人間に出会うことがない。車はいるが、人には出会わない。田舎の典型的な風景とも言えるが、車窓から見える家並みが機能しているように見えないのはどうしたわけだろう? 家が家をやめ、風景の一部となっている。もはや人間の手を離れた家は自然の領域か、それでもまた人間のものであるのか。
たとえば平成という時代はどうであろうか。それは過去となり、「れいわ」の時代に移った今はもはや自然の領域にあるのか。はたまた解体され、有効な資材として供出されるのか。
 かつて七十年代安保の時代がそうであったように。それは一つの語られ尽くし、しゃぶりつくされるトポスとなっていくのだろうか。
 もちろん。そうに決まっている。
 すべては廃れ、あるいはまた発掘される。
 琴平駅の前にはさすがに人がいる。若者もいる。だが、金毘羅山の麓にあるこの街では、観光客が金毘羅山を目指すほかには用がないみたいに見える。
 目的を果たすべく、駅前の売店で灸まんを購入して食べた。灸まんは見事に口内の水分を吸いつくしてしっとりした甘みでいっぱいにする。なるほど、これが甘いお灸か。
「美味しそうだね」
「ジョン、君は食いしん坊だな。医者のくせに」
「医者は関係ないだろ?」
和田邦坊によるパッケージは、郷土のノスタルジーとデザイン性が見事にマッチしており、この土地の野暮ったさをいい具合に優しく包み込んでいる。そのデザインはここが昭和であれ平成であれ関係なく同じ顔で君臨していることだろう。してみれば、このパッケージも〈ねじ式病〉の仲間ではないか。そんなことを考える。
腹が落ち着いたので、ふたたび坂出方面へ向けて車を走らせる。寄り道の多い旅だ。道中、メメクラゲを使って坂出送電塔事件を調べてみる。メメクラゲは周辺の知見を一気に収集する機能をもっている。コミュニケーションが苦手な人間でも探偵の真似事ができるありがたいツールである。 
それによると、あの時は、いろんな説が出回っていたらしい。四国電力に恨みを持っている業者の仕業ではないかとか、番の州の電力を止めたかったのではないかとか、若い鳶のいたずら説や特定の個人が噂されたりとたいへんな騒ぎだったようだ。発電機三基、信号機六十基、一万七千世帯の停電。九千世帯のガス供給停止。
また、夜に山に出入りしている者がいるという通報を警察が見逃していたということも問題視されたようだ。さっきの少年たちがこっちの警察はひどいと言っていたことが重ねて思い出された。
情報を総括すると、どうやらパナウェーブ犯行説は飽くまで五年後の五色台の事件のときに出てきた説であり、当時はまったく捉え方が違っていたことがわかる。
そして、結局は真相は藪の中となった。
有力な説のひとつ、四国電力への恨み、という説はその後の五色台送電塔倒壊未遂事件のときまでくすぶり続けたらしい。そもそもどんな「恨み」がそこに想定されていたのか? 調べていくと、どうやら瀬戸大橋をかける時にたくさん人が死んだその恨みではないかという発想らしい。坂出は瀬戸大橋の玄関口だ。
ふたたび、香瑠の様子を確かめる。
音声もON。
時刻は間もなく十三時になる。彼女が目覚めてもいい頃だ。
実際、彼女は目覚めたようだ。メメクラゲは香瑠の顔をクローズアップする。彼女は目隠しを外して辺りを見回す。そこがどこなのかは、恐らく見慣れた光景ゆえに一瞬で理解できるだろう。だが、それでも彼女の頭はそのことを受け止められずにいるようだった。
この家を出たはずやのに、なんでまたここに戻っとるん? まるでねじで巻き戻されたみたいやないの。実際、その通りなのだ。彼女の旅はとどのつまり一メートルも進んでいない。
彼女はふたたび鞄をもち、家を出ようとする。だが、そこで動きが止まる。目の前に、白装束の父親、サキオが立ちはだかっている。サキオは頭部に巨大なアンテナのようなものを装着している。亡き妻を呼び出すときに使っているいつものやつだ。そして目には3Dでも見るときのような大げさな眼鏡。『未来世紀ブラジル』にでも出てきそうなやつだ。問題は手に握られた果物ナイフだ。
「ルルコ、ルルコ、貴様、離婚だけは許さんぞ。わしはおまえとは離婚などせんのや! わかったか!」
「おとん……うちは香瑠や。おかんとちゃう……」
 だが、サキオは香瑠を殴り飛ばす。
 ルルコ? 耳を疑った。ルルコが香瑠の母親だって? 彼女の母親とどこかで会ったことがあるのか? 思い出そうとするが、思い出せない。思い出せない思い出は記憶とは呼べない。
「何をおまえはわけのわからんことをぉ……やっと戻ってきたと思うたら男の匂いさせよるな?」
 男の匂いとは、恐らく自分の匂いだ。サキオはコーレイジュツのせいで現実と妄想をごっちゃにしている。彼の目の前には亡くなった妻、ルルコがよみがえっているかに見えているのだろう。
 生者と死者の区別が消えているのだ。そのもともとない境界線を、あの受電装置のようなものがいっそう曖昧にしている。アンテナのコードは長く伸びており、分電盤まで繋がっている。
 サキオはなおも攻撃をやめようとしない。髪をつかみ何度も地面にたたきつける。
「おまえはいつも男や! 男、男、男言いよるんや!」
 このままでは香瑠は死んでしまうかも知れない。それだけは避けたかった。だが、この場所から彼女の家に戻るのにはやや難がある。
「その耳、削ぎ落したる!」
 彼女の耳を守らなければならない。シロクマが鮭を食べるように切実な任務がそこにある。
 唯一とれる行動は──。
 車を走らせた。ポケットの中のボルトを握りしめると、その場所がはっきり目に見える気がする。〈ねじ式病〉に感謝だ。五分ほど走らせると、坂出送電塔十四号機が見えてくる。送電塔は、塀などには囲まれておらず、むきだしのまま大木みたいに大地に根差し、空へと手を伸ばしている。
 ここが、二十一年前、事件の舞台となった場所なのか。
 二十一年前──。
 平成が三十年で幕を閉じ、〈れいわ〉に変わったということはとりもなおさず、そういう計算になることはなる。実際の自分の感覚があてにならない以上、それは概算を信じるしかないのだが。
 後部シートから電動レンチを取り出し、一本ずつ外していく。何をやっているのだ、と突っ込む自分はもはやいない。二十一年前に起こったことを、ただ真似るだけだ。ほんの束の間でいい。
 電動レンチよ、誰よりも早く回れ。
 ウィンブルドン、カムチャツカ、コスタリカ、パプアニューギニア。世界中を一瞬で旅するみたいな速さで、あっという間にねじを回せ。
 メメクラゲがゆっくりと海上へ向けて浮上するように、ぐるりぐるりと回転しながら、ボルトは回っていく。
 うぃっすえっす、セロリセロリバス釣りのセオリー。
 電動レンチのくたびれた歌声に乗ってボルトは抜けるよ、一つ、二つ、三つ、四つ……十、二十、ほらあっという間だ。三十、四十、五十、六十、七十……七十一、七十二、七十三、七十四、七十五……そのあたりでぎぃいいという危険な悲鳴は轟いている。このまま行けばどういうことが起こるかわかる。これでは二十一年前の悲劇の繰り返しだ。
 だが──手が止められなかった。香瑠を助けなければ。Mr.mistake、もうmistakeはたくさんだ。もう一つ、外す。
 うぃっすえっす、セロリセロリバス釣りのセオリー。
 電動レンチはご機嫌で回転し、最後の仕事を終える。じつに豪快な仕事だ。そして、その意志は七十三メートルの塔を見事にぐらつかせる。
 その瞬間に起こった当然の結果は、しかしながら衝撃に値している。送電塔が倒れる瞬間の悲鳴たるや落雷とコンドルが結婚したみたいだ。それだけではなく、倒れた瞬間に大地を伝って電流が我が体内に流れてくる。げだりびだりとやってくるその電力はあたかも真冬の朝に滝水に当たったかのごとき衝撃を走らせる。
 だが、次の瞬間、香瑠の無事を確認しようと、どうにか這うようにして車に戻る。だが、メメクラゲが壊れていて何の反応もない。もしやいま、この送電塔が倒壊するそのタイミングで電流が流れ、どうにかなってしまったのか。
 それだけじゃない。車内が妙に静かだ。まるで誰もそこにいないみたいじゃないか。ためしにジョンを呼んでみた。だが反応がない。そこにはジョンの身体ともいうべき年代物の聴診器があるだけだ。十九世紀ロンドンで使われていたというそれをジョンと名付けた。かなり物質のなかでも雄弁で、何かと役に立とうとしてくるから。
 だがもうジョンは何も語りかけてこない。トライアングルもそうだ。それは単なる楽器で、こちらが鳴らすまでは音一つ鳴らしはしない。マークXもそうだ。ただエンジンを吹かしているだけだ。
 落ち着け。我がファミリは疲れて眠っているだけさ。そうだろ?
 オーライ。慣れない旅路だからな。仕方ないさ。クソッ! 仕方ないもんか。こんな緊急事態だってのに。
 慌てつつもやはり香瑠の安否が気にかかる。
 とにかく、ボルトを抜いたことで、ここら一帯は停電になったはず。そうなれば、サキオのアンテナはもはやレイを見せないはずだ。彼は現実に戻るだろう。さすがに現実に戻れば、さっきの自分の脅迫を思い出して、娘に手を上げるような馬鹿な真似はしないはずだ。
 車を走らせる前に、現場からボルトを一本持ち去った。またボルトを集めて回るあの黒いスーツの男が、きっとねじの数が足りないとほぞを噛むはずだ。何せ、やつらは七十六のボルトを集めている。二十一年前のボルトを探すより、今回の事件のボルトを集めたほうが効率が良かろう。
 だが、それでも彼らは集められない。なぜなら自分が一つを持っているから。二十一年前のボルトが一つ。それと、現在のボルトが一つ。仲良くポケットに収まっている。
 焦りをごまかすように口笛を吹く。GRAPEVINEの最新曲「ありふれたすべての光」。この楽曲の素晴らしいところは……と脳内で論じかけて、不意に奇妙な感覚を抱く。知っていたはずのものが、綿菓子のように溶けてうまく語れなくなる。こうしたことは夢のなかでならよく起こる。だが、いくら者と物との区別がつかないこの男でもそのようなことはさすがに──。
 妙な感じだ。メメクラゲも止まっている。そういえば、道行く信号機もすべて止まっている。たしか二十機止まっているんだっけ? いやいや、それは九八年の話で、今の話じゃない。だが、次の瞬間、奇妙なことが起こる。看板に違和感を覚えたのだ。
 そこには微かによれよれになったhideの『ROCKET DIVE』のシングルCDリリースのポスターが貼られている。hideのシングル? リミックスバージョンでも出たのでないかぎり、こんなポスターが今頃貼られているのはどう考えてもおかしなことだ。
 そう考えて、ふと思い出す。諏訪湖サービスエリアでインスタントカメラの自販機があった。いまどきは誰もがスマホで写真を撮る。この時代にインスタントカメラの自販機にどれほどの需要があるのだろうか? それと、ケータイやピッチの充電器。ケータイはともかく、ピッチはない。PHSというものはもはや存在自体が消滅しているのだ。
ここは──今は何年なんだ?
「なあジョン、俺たちは……」
 だが、そう語りかけてもジョンはもはや言葉を発しようともしない。
 ここは──自分の感じている〈いま〉とはいつなのか?
〈ねじ式病〉の患者は、今と過去、未来の区別がつかない。現実と非現実の区別もなく、者と物の区別もない。少なくとも、ジョンはそう言っていた。
 つまり──自分はどれが今とも決めずに混沌を生きてきた。
 ところが今のポスターはどうだ? そしてサービスエリアで目にした光景はどうだ? いや、もっとだ。そこらじゅうにあるポスターのあらゆる芸能人がやや眉が太かったり、香瑠がルーズソックスを履いていたりするのは──。
 香瑠はGRAPEVINEの話はしていた。だが、「そら」という楽曲については熱心に話したが、「光について」も「スロウ」もまだ知らなかったようだった。
 つまり、ここは一九九八年の二月二十日。
 hideはまだ生きていて、「ピンクスパイダー」は誰も知らない。GRAPEVINEもデビューしたてだ。たまごっちに浮かれ、ポケベルが最後のブームを静かに巻き起こし、『タイタニック』の興奮を引きずっている、あの九八年なのだ。
 そして、自分はたったいま、坂出送電塔倒壊事件を起こした張本人になってしまったわけだ。そして、その塔の倒壊のせいで、〈ねじ式病〉が克服され、現在地をはっきりと認識している。者と物の区別もつく。もうジョンは喋ったりしないのだ。
 そして、命綱のような存在だったメメクラゲは存在自体が消え去っている。
 ファミリを失ってしまった。悲しむべきことかどうかはわからないが、心は霧の朝の子馬のように心もとない。
車は動く。
話さなくても、物質は物質としての役割をまっとうするのだ。

T(抜けたボルトは安全な場所へ)

 信号機がすべて止まっている街を走るのは生まれて初めてのことだ。おかげであっという間に目的地に着いてしまう。人工土地周辺もさすがに人だかりができている。みんな突然の停電に戸惑う人たちだ。あの少年たちの姿もある。
 二階部分へと繋がる階段を上っていくと、その先に佐々木家が見えた。ただし、明け方とは違って、屋根にサキオの姿はなく、しんと静まり返っている。
 ノックをするが返事がなかった。
 恐る恐るそのドアを開くと、香瑠が立っていた。
「やっと迎えにきたのね」
 標準語で香瑠は喋る。
 その足元には、サキオの死体が転がっている。香瑠はその死体を軽々とまたぐと、鏡台に立ってアクセサリーケースから何やら赤黒いイヤリングを取り出してハメる。それは、心臓をかたどったものだった。
「急に停電なんてびっくりよねえ」
「送電塔が倒壊したんだ」
「送電塔が? それは面白いジョークね。それより、素敵な旅に出ないこと?」
「旅に?」
「迎えに来てくださったんでしょ?」
「自首するんじゃないのか?」
「正当防衛よ。でもきっと成り立たない。そういうところなの、ここは。ご存じでしょ? ここはとても混沌とした地なのよ」
 ここはとても混沌とした地。
 まるで、〈ねじ式病〉が世界中に広がった
「なあ、香瑠、その喋り方はいったい……」
「私はルルコ。そんな野暮な娘の名前は知らないわ」
 彼女の身体にも、停電の瞬間、妙なショートが起こったのかもしれない。それとも、殺人を犯したことで一時的におかしくなっているのか。
 彼女はリップをしっかり引いてから、ファンデーションを塗り、アイシャドウを塗り直した。顔にできた痣は、見事に隠されていた。
「ここへ連れ戻した俺を恨んでいないのか?」
「恨む? 私はもともとここにいたんだから。これからでしょ?」
 ルルコは生意気なシスターが讃美歌を適当にくちずさむような調子で繰り返す。
「これからよ。これからよ。余分の肉体は溶解されて私の廻転が初まる。分解」
「高田敏子だ」
「よく知ってるわねぇ。私のフェイバリットな詩人よ。私はいまも彼女の詩の世界を歩いているの」
「だったら、俺も同じ世界を歩いてるわけか?」
「そうよ。決まってるわ。あなたははじめからその世界の住民よ。じゃあそろそろ行きましょうか。でもちょっと待って」
 彼女は、手元の懐中電灯を消した。
 真っ暗な室内で、彼女は深呼吸をする。
 彼女が息を吸い込む音が響き、次いでゆっくり吐き出す音だけが響いた。
 それから、ルルコの身体がぴったりと吸い付く。
 蝶が二枚の羽をぴたりと合わせるように。
「まるで夜のフラスコの底みたいね」
 彼女の耳で、心臓のイヤリングが揺れた。
 私の廻転が初まる
 ジャケットのポケットに手を入れた。
「何をしているの?」
「いや、ちょっとボルトを」
 たしかにそこにボルトはある。だが、ボルトは一つしかない。ここへ来る前に拾ったあのボルトだけ。ほかにはない。
 自分はあの日、ボルトを女から受け取った。
あの女から──。
なのに、ボルトは一つしかない。
 それに、いまこうしてルルコを抱きしめていると、何とも妙だ。メメクラゲが消え、我がファミリがことごとく消えてしまったというのに、この女のぬくもりをよく知っている、という感覚だけが奪われていない。その先に、あの夜毎見た夢のような別れが待っていることも。
 ──わかっていた。いつかあなたの心が離れていくって。
 いつか、彼女にそんな台詞を言わせ、泣かせてしまうのだ。それがわかっていながら、彼女を抱いている。
「行こう。そろそろフラスコの底に光が差し込む」
 停電が復旧すれば、光は戻る。そのまえに、もっとありふれた、どこにでもある陽光を浴びるのだ。一九九八年の、今にある光をふんだんに浴びるのだ。
 自分はどこかでこの少女と別れるのだろうか。そして、二十一年後、何もかも忘れたふりで女は自分の前に姿を現し、何もかも混沌として記憶と妄想の区別すらない〈ねじ式病〉にかかった自分とまぐわっているさなかに殺されてしまうのだろう。
そうして、ボルトを託された自分は、ふたたびこの土地に出向くのに違いない。まるで、ベンローズのだまし絵の階段みたいなものだ。登ったはずが元の場所。
 これはいかにもつげ義春的な、メメクラゲ的なループの世界ではないか。
 いまは停電しているから、つかの間まともなだけだ。
 この正常はいつまで続く?
 そうだな。大停電が終わって、メメクラゲが復旧すれば、ふたたびそんな混沌男に戻ってしまう可能性は大いにあるのだ。そのせいで別れに至るのかも知れない。よその女と自分の女の区別もつかずに、何か妙な揉め事でも起こすのか? まったく、厄介な男だ。
 扉を開ける。
 いっせいに光がルルコを包む。
「GRAPEVINEの話でもしようか」
「いいわね」
「次のアルバム、何位になると思う?」
「先の話ね。そうね。まだまだ二十位くらいが関の山じゃないかしら? これからヒット曲が出れば違うでしょうけど」
「俺は三位までいくと思うね」
「あはは、それはさすがに無理よ。いくらなんでもね」
 光はルルコの髪を、肌を輝かせる。
 車に乗り込む。まだメメクラゲは眠っている。永遠に目覚めなければ、少しはまともに生きられるかもしれない、と考える。
 たとえば、このボルトを放り投げれば。
 一台の車が目の前を通り過ぎる。運転席に乗っているのは、あの夜現れた黒服の男だ。これから血眼になってボルトを探して回るのだろう。
 ポケットからボルトを取り出し、棄てようとする。
 だが、それを目ざとくルルコが見つける。
「あら、ポイ捨ては駄目よ。まあ素敵なボルトじゃない。捨てるくらいなら、私にちょうだいな」
「……こんなもんでいいなら」
 彼女はまるで宝石でももらったようにそれを光にかざしてみる。それから、何もない空中に、ねじを回してみせる。
 彼女は呟く。
「私の回転が、始まる」
 それに合わせて、エンジンをかける。
  
 信号機がすべて止まっている街を走るのは生まれて初めてのことだ。おかげであっという間に目的地に着いてしまう。人工土地周辺もさすがに人だかりができている。みんな突然の停電に戸惑う人たちだ。あの少年たちの姿もある。
 二階部分へと繋がる階段を上っていくと、その先に佐々木家が見えた。ただし、明け方とは違って、屋根にサキオの姿はなく、しんと静まり返っている。
 ノックをするが返事がなかった。
 恐る恐るそのドアを開くと、香瑠が立っていた。
「やっと迎えにきたのね」
 標準語で香瑠は喋る。
 その足元には、サキオの死体が転がっている。香瑠はその死体を軽々とまたぐと、鏡台に立ってアクセサリーケースから何やら赤黒いイヤリングを取り出してハメる。それは、心臓をかたどったものだった。
「急に停電なんてびっくりよねえ」
「送電塔が倒壊したんだ」
「送電塔が? それは面白いジョークね。それより、素敵な旅に出ないこと?」
「旅に?」
「迎えに来てくださったんでしょ?」
「自首するんじゃないのか?」
「正当防衛よ。でもきっと成り立たない。そういうところなの、ここは。ご存じでしょ? ここはとても混沌とした地なのよ」
 ここはとても混沌とした地。
 まるで、〈ねじ式病〉が世界中に広がった
「なあ、香瑠、その喋り方はいったい……」
「私はルルコ。そんな野暮な娘の名前は知らないわ」
 彼女の身体にも、停電の瞬間、妙なショートが起こったのかもしれない。それとも、殺人を犯したことで一時的におかしくなっているのか。
 彼女はリップをしっかり引いてから、ファンデーションを塗り、アイシャドウを塗り直した。顔にできた痣は、見事に隠されていた。
「ここへ連れ戻した俺を恨んでいないのか?」
「恨む? 私はもともとここにいたんだから。これからでしょ?」
 ルルコは生意気なシスターが讃美歌を適当にくちずさむような調子で繰り返す。
「これからよ。これからよ。余分の肉体は溶解されて私の廻転が初まる。分解」
「高田敏子だ」
「よく知ってるわねぇ。私のフェイバリットな詩人よ。私はいまも彼女の詩の世界を歩いているの」
「だったら、俺も同じ世界を歩いてるわけか?」
「そうよ。決まってるわ。あなたははじめからその世界の住民よ。じゃあそろそろ行きましょうか。でもちょっと待って」
 彼女は、手元の懐中電灯を消した。
 真っ暗な室内で、彼女は深呼吸をする。
 彼女が息を吸い込む音が響き、次いでゆっくり吐き出す音だけが響いた。
 それから、ルルコの身体がぴったりと吸い付く。
 蝶が二枚の羽をぴたりと合わせるように。
「まるで夜のフラスコの底みたいね」
 彼女の耳で、心臓のイヤリングが揺れた。
 私の廻転が初まる
 ジャケットのポケットに手を入れた。
「何をしているの?」
「いや、ちょっとボルトを」
 たしかにそこにボルトはある。だが、ボルトは一つしかない。ここへ来る前に拾ったあのボルトだけ。ほかにはない。
 自分はあの日、ボルトを女から受け取った。
あの女から──。
 なのに、ボルトは一つしかない。
 それに、いまこうしてルルコを抱きしめていると、何とも妙だ。メメクラゲが消え、我がファミリがことごとく消えてしまったというのに、この女のぬくもりをよく知っている、という感覚だけが奪われていない。その先に、あの夜毎見た夢のような別れが待っていることも。
 ──わかっていた。いつかあなたの心が離れていくって。
 いつか、彼女にそんな台詞を言わせ、泣かせてしまうのだ。それがわかっていながら、彼女を抱いている。
「行こう。そろそろフラスコの底に光が差し込む」
 停電が復旧すれば、光は戻る。そのまえに、もっとありふれた、どこにでもある陽光を浴びるのだ。一九九八年の、今にある光をふんだんに浴びるのだ。
 自分はどこかでこの少女と別れるのだろうか。そして、二十一年後、何もかも忘れたふりで女は自分の前に姿を現し、何もかも混沌として記憶と妄想の区別すらない〈ねじ式病〉にかかった自分とまぐわっているさなかに殺されてしまうのだろう。
そうして、ボルトを託された自分は、ふたたびこの土地に出向くのに違いない。まるで、ベンローズのだまし絵の階段みたいなものだ。登ったはずが元の場所。
 これはいかにもつげ義春的な、メメクラゲ的なループの世界ではないか。
 いまは停電しているから、つかの間まともなだけだ。
 この正常はいつまで続く?
 そうだな。大停電が終わって、メメクラゲが復旧すれば、ふたたびそんな混沌男に戻ってしまう可能性は大いにあるのだ。そのせいで別れに至るのかも知れない。よその女と自分の女の区別もつかずに、何か妙な揉め事でも起こすのか? まったく、厄介な男だ。
 扉を開ける。
 いっせいに光がルルコを包む。
「GRAPEVINEの話でもしようか」
「いいわね」
「次のアルバム、何位になると思う?」
「先の話ね。そうね。まだまだ二十位くらいが関の山じゃないかしら? これからヒット曲が出れば違うでしょうけど」
「俺は三位までいくと思うね」
「あはは、それはさすがに無理よ。いくらなんでもね」
 光はルルコの髪を、肌を輝かせる。
 車に乗り込む。まだメメクラゲは眠っている。永遠に目覚めなければ、少しはまともに生きられるかもしれない、と考える。
 たとえば、このボルトを放り投げれば。
 一台の車が目の前を通り過ぎる。運転席に乗っているのは、あの夜現れた黒服の男だ。これから血眼になってボルトを探して回るのだろう。
 ポケットからボルトを取り出し、棄てようとする。
 だが、それを目ざとくルルコが見つける。
「あら、ポイ捨ては駄目よ。まあ素敵なボルトじゃない。捨てるくらいなら、私にちょうだいな」
「……こんなもんでいいなら」
 彼女はまるで宝石でももらったようにそれを光にかざしてみる。それから、何もない空中に、ねじを回してみせる。
 彼女は呟く。
「私の回転が、始まる」
 それに合わせて、エンジンをかける。
  

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