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a flood of circle 『WILD BUNNY BLUES/野うさぎのブルース』 に寄せて (2024年11月6日リリース)

「野うさぎ」というのは、誰かに飼われているうさぎや動物園にいるうさぎなんかとは違って、そんなにかわいいものではないのだろう。清潔でもないし、汚れていて、特定の人間に愛されているわけでもない。ただ野うさぎは自然の中で食べ物を探し走り生きている。それは多分、スピッツで言うところの「小さな生き物」であり「優しいだけじゃなく偉大な獣」だ。

1曲目『WILD BUNNY BLUES / 野うさぎのブルース』で、佐々木亮介は自分自身を「野うさぎ」だと歌う。

< ブルシットな世界に 俺 / 小さい野うさぎ / 食い荒らしてる畑 / 砂埃上げ 逃げる >
< 誰にも選ばれない世界を走ってく > 
< 誰にも守られない世界で歌ってる >

野うさぎであるということ、それはつまり、野生である、野良であるということで、そのしんどさと自由が同時に押し寄せてくる。安全な場所で守られている人や誰かに選ばれたことのある人には理解できない野晒しの心境。自分を救ってくれるのは自分の昔の傷だけという救いのなさ。それを今歌ってくれる人がいるというだけで、少しだけ屋根の下に辿り着けた気分になった。

今から考えれば、昨年9月にシングルとしてリリースされ今作にも収録されている『ゴールド・ディガーズ』から、この「野うさぎ」や「野晒し」のイメージは始まっていたのだと思う。『ゴールド・ディガーズ』を初めて聴いたとき、ここまで曝け出すのかと衝撃を受けた。そして、そこまで曝け出された音楽を聴いていると、行き止まりの人生を少しだけ笑えた。< 百方塞がり > で < 本気出したって所詮こんなで >、このまま何もかなわないだろうなって気づいているし、これからの人生に成功はないって気づいている。でも選択肢は二つしかない。終わりにするか進むかだ。終わりにできないなら、0.00000000001mmでも掘るしかない。救済策なんてものは永遠にやってこないし、失われたものは取り戻せない。自分でこつこつ掘るしか道はない。結局いつもそこに戻ってくる。だから < 素手で掘っていく 痛いけどやっぱ確かなツール > という泥くさいフレーズに深く頷いてしまうし、バカにされても映えなくてもずるいことはしたくないなと改めて思う。そして、ぎりぎりの人間にとって現時点で一番ポジティブな生き方ってこれなのかもなと思う。光を求めて素手で掘っていく、荒々しく進んでいくドライブ感のあるグルーヴに身体を運ばれた先で < 抜けりゃ抜け穴じゃボケ > っていうのが最高に気持ちよくて、何もないとわかっているけど一瞬だけ光に向かって進んでみたくなる。OASIS や WEEZER に夢中になっていたいつかの自分に一瞬戻って、ロックってやっぱりいいね、と思う。

また、今年3月にリリースされたEP『キャンドルソング』(今作では8曲目)でも、佐々木亮介は赤裸々に曝け出していた。そのどうしようもなく生々しく、抜き差しならないことが歌われているのを聴いて、正直ちょっと動揺した。でも、動揺したあとで、揺れている魂はここまで揺れている音楽にしか救えないのだと、強く思った。< 分かったのさ振り返れば好きなバンドがそこで鳴らしてるだけ > < 分かったのさ振り返れば消えない歌が胸に灯っているだけ > というある種の確信のようなものに辿り着いたかのように見えて、最後は < まだ 揺れる > だ。そう、どこまで行っても < 未来はちゃんと闇の中 > だし、< 安定なら死ぬまでない > のだ。ずっと、ずっと揺れている。本当に悲しいことだが、揺れているから、揺れている私に響くのだろうと思った。断言や確信は、揺れている心に何の効果ももたらさない。揺れている心に届くのは、揺れている音楽だけなのだ。

揺れている佐々木亮介と、揺れている自分。
「野うさぎ」も「誰一人こぼさない優しい歌からこぼれ落ちた人」も「誰もが光へ飛んでいっても闇に残った一匹」も、佐々木亮介であると同時に揺れている私でもあるのだと思った。きっとこのアルバムは、マサムネにもカートにも佐々木亮介にもなれない、どこまでも半端な私のような人間に、a flood of circle が全力で振った旗なのだろうと思えた。百方塞がりの行き止まりの路地に a flood of circle がいた。かっこいいギターソロがあって、寄り添うベースラインがあって、ドラムが全てを天に向かって吹き飛ばしてくれて、そして佐々木亮介がそこに立って歌っている、ロックバンドがそこにいた。

このアルバムには、そこかしこにスピッツを連想させる言葉が散りばめられている。「夢じゃない」「三日月」「フェイクファー」「うめぼし」「醒めない」。絶対的に孤独で、でも「小さな生き物」として、獣として、生きるのを諦めないスピッツに憧れながら、しかしそこはマサムネになろうとするのではなくあくまでも佐々木亮介として < 孤独なんか内臓の一つじゃん > という目から鱗の一節を繰り出してきたところに、感動してしまった。スピッツとは違う方法で孤独を扱おうとしている。スピッツとは違う生き物として生きようとしている。そこに心を打たれてしまった。

それから、『ベイビーブルーの星を探して』がめちゃくちゃいい。
< ソラシド > で上がり <ファミレド > で下がる、でも最後は < 何度も歌うソラシド > で上がろうとする。崩れそうで壊れそうでもうとっくに限界で最近の歌がどんどん分からなくなっている頭にうどんの出汁のように染みわたっていく曲だ。

そして、なんといってもラストのアオキテツ作詞作曲の「11」が最高だ。
意味のわからない歌詞を佐々木亮介とアオキテツが交互に歌っているのを聴いて、最後になんかほっとした。ロックってこれでいい。いや、ロックはこれがいい。

生きていていい理由なんてひとつもない私のためのブルースが、私の周りの空気を揺らしている。内臓の一つである孤独と揺れている魂に触れようとする。その瞬間、< 15年叫んでる同じようなメロディー > が、たいした根拠もなく「新しい」「革新的」だと宣伝されているものを、野うさぎのような跳躍で軽々と超えていくのを目撃した。


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