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Base Ball Bear 『天使だったじゃないか』 に寄せて

2月末に Base Ball Bear の Mini Album『天使だったじゃないか』がリリースされてから、繰り返し繰り返し聴いては、「天使だったじゃないか」ってどういうことだろう、と考えていた。今、ぼんやりと辿りついた答え、というか感触のようなものを記しておこうと思う。

「天使だったじゃないか」
それは、人生がひとつの物語に回収されてしまう前の混沌と雑然に対する賛美なのではないだろうか。
本来、生活は要約できないものだし、人生は物語にしなくていい。朝起きて顔を洗って歯を磨いて朝食を食べる。こうやって文字に起こせることの隙間の、文字にされない部分に「生活」はあるし、トピックや映える場面ではないところに人生があるからだ。

1曲目『ランドリー』には、< 表示されない 君のストーリー/関われなかった センタク > というフレーズがあるが、この「ストーリー」には「物語」と「インスタのストーリーズ」をかけているのだろう。
まず「インスタのストーリーズ」の方から考えてみると、「表示されない」ということは「君」がストーリーズを限定公開にしていて、主人公はその限定公開リストから外されてしまった、ということなのだろうか。まあそのへんの詳しいことまではよくわからないが、そもそもこのインスタのストーリーズというのが、なかなか気持ち悪い機能だなと改めて思った。それは自らが自らの生活や人生を要約し、時にはわざと曖昧にして匂わせ、24時間以内に消えるという限定性によってたいして価値のないものに価値を持たせてクリックさせ、しかもその公開範囲を狭めることで「私のプライベートに関わらせてあげる人」を選定するという、グロテスクな構造になっている。無料で簡単につくることができる物語と地獄だ。
そうやって「君」が自ら切り取り編集した「君の物語」から切り捨てられた主人公は、もう「君の物語」に関わることはできない。インスタグラムというシステムの中の「物語」からだけでなく、君の「人生」そのものに関われなくなっていく。上記のフレーズの「ストーリー」のもうひとつの、というか本来の意味の「物語」も、現代においては、人間とシステムの両方から切り刻まれ歪められ都合よく編集されたものになっている、ということを突きつけられる。

ほかにも、『ランドリー』では「ストーリー」にすることで切り捨てられる、こぼれ落ちていくものについて歌われている。
< 全部送信取り消したい/こぼした思いはつのるまま > では、文字にした瞬間にこぼれ落ちて行間に散らばってしまうものこそが本当に届けたかったものなのに永遠に届かない、ということが歌われている気がしたし、
< 四捨五入で無くなる/意味が付け足される/滞る マイソウル > には、小数点以下の微妙なニュアンスが大事だったのにそこは切り捨てられて、こちらが意図していない不可解な意味がなぜか尾ひれのように付け足され続けて、最初に創った側の魂が汚されていってしまう、という現代に蔓延る最悪な状況が歌われている気がした。

そういった「物語」「ストーリー」に関する現状に対してのアンサーなのだろうか、2曲目の『_FREE_』には、「人生と心に無料で口出しさせるものか」という意志が感じられる。
< 孤独な夜も/あなたと過ごした日々も/そばにいた青い鳥/いまはもう見なくなったんです > と、あの頃の twitter はもうなくなってしまったので見なくなった(それによって「青い鳥」というある種の幸福も何処かへ行ってしまった)ことが示唆され、それは <無関係な連なり/束ねて運命としたり/神よ ありがとう 助かるよ > という皮肉に垣間見れるように、一部はアルゴリズムのせいでもある、と歌われているように感じた。
アルゴリズムもまた、勝手に「おすすめ」を製成されてしまうという、なんとも気持ち悪いシステムだ。自分が選んだものではなく、アルゴリズムという神が選んだものを次々に見せられるという地獄。私たちはアルゴリズムの奴隷じゃねえ。この曲の中で「うるせえよ」と言うのは、そういう「物語」に回収しようとするすべての大きな力に対して、かろうじてロックができることなのだと思った。Base Ball Bear が2024年においてもロックバンドであることを実感した瞬間だった。

そういえば、『_FREE_』のイントロを初めて聴いたとき、syrup16g の『翌日』だと思った。ほかにも『天使だったじゃないか』には、所々にあの頃の(というのは2000年代初頭の)下北沢ギターロックの匂いがする。syrup16g、レミオロメン、GOING UNDER GROUND、LOST IN TIME、the ARROWS、アナログフィッシュ、etc。
今振り返ってみれば、そういうバンドが描いていたのは、まさに物語には回収できない「生活」だったなと思う。
レミオロメンの『ビールとプリン』における、あのどうすることもできないレンジがなるタイミング。GOING UNDER GROUND の『グラフティー』における、<ベロでうずくまるブドウ飴 > の酸味と甘さ。あの時代のギターロックの歌詞は、どれもこれも今聴くととても誠実に聴こえる。みんななんとかしてメロディーに乗せる「詩」を書こうとしていたのだとわかる。そして、それらは2024年から見るとまさに「天使だったじゃないか」と感じる。創作者の魂が汚されたり切り取られたりしないで、作品として残っている。

世知辛い2024年、そしてこれから夜に向かう私たち。
シロクマの動画をひたすら見ているくらい疲れていて、タイムマシンはぶっ壊れて、もう「天使だった」頃には < Never going back > 決して戻れず、歳をとっていくだけ。< 永遠に道路工事 > しているなあと思ってうんざりしていた街は、< いつのまに知らない街に変わってしまった > 。渋谷も下北沢も。あの雑貨屋もあの定食屋もなぜか全部古着屋になってしまった。内装も外装もないガラスのドアの向こうに服だけが並んでいる古着屋に。休日は観光客で溢れ、店には行列ができ、<いつもの中華>(珉亭)にもありつけない。

それでも新しい街を少しずつ受け入れはじめた自分もいる。下北沢には新しい商業施設がたくさんできたが、それらは高層ビルではなく、どれも2階建ての建物だったし、どこにでもあるチェーン店ばかりにはならなかった。一番街から茶沢通りに歩いてみれば、もう開かずの踏切はないけれど相変わらず楽しいし落ち着く。ミスクチャーもオオゼキもピーコックもある。悪いことばかりじゃない。

人生も生活も街も、色々な方面から脅かされる。政治から、システムから、他人から、時には自分の中から。だけど『天使だったじゃないか』を聴いていると、やっぱりそれらをひとつの「物語」に回収することからだけは、なんとしても守らなければ、抵抗しなければと思う。あの頃のギターロックのように、誠実にバズらずに、ライブハウスに降りる階段でフライヤーを配るように、「うるせえよ」って言っていきたい。かろうじて街を守った人たちのように、2024年に『天使だったじゃないか』を創った Base Ball Bear のように、システムや行間からこぼれ落ちる「生活」を抱きしめていたい。


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