連載小説『J-BRIDGE 』11.
「あとこれ腰に巻いて、七時になったら店開けるから」
明石が店についてから三十分と少し。リリーに言われるがまま、ロッカーに入っていた服に着替えた明石。ベストが似合いそうな白いシャツに黒いスラックス、すっかり店員になった彼の手に下半身全体を覆うサロンがリリーの手から渡された。
「熊沢さんは来ないんですか?」
両手に持った紐を腹の前で結びながら明石が尋ねる。リリーが頼りないという訳では無かったが、右も左もわからない新人である自分と二人では、いささか不安を感じての質問だった。
「朗ちゃん?」
リリーは熊沢のことを「朗ちゃん」と呼ぶ。ちゃん付けとはほど遠い風貌の熊沢をそう呼ぶことを明石は面白く感じていた。
「あの人はあんまり来ないよ? この前来たのだって三週間ぶりくらい。君を背負ってびちょびちょでね」
「あ……、そうなんですか」
思いもよらず自分の話になり、明石はその後の言葉が続かなかった。あの日がもし晴れていたのなら熊沢は自分を拾ってくれただろうか、雨に濡れて地面に横たわる姿があまりにも惨めだったからこそ、彼はそこからすくい上げてくれたのだろうかと、尋ねる予定の無い疑問を頭で反芻する。
加えて、自らの体を濡らすような不利益を被ってまでの善意が、明石の心にすとんと落ちてこない。余裕が無いと人は人を助けないのに、余裕がある人ほどその下に積まれた多くの苦しみに気がつかない。そんな風に考える明石にとって、熊沢の行動は奇妙で仕方なかった。もしかすると、熊沢にとって自分は「人」で無いのではないかと、そう勘ぐったりもした。
「なんで僕のこと拾ってくれたんですかね?」
それ以上頭の中で考えることが難しくなった明石は、リリーにというよりも空中に疑問を振りまくように言った。
「さあ?」
リリーはそれだけで話を終わらせると、「そろそろ片付けるよ」と言って明石を先導するようにカーテンの向こうへと姿を消す。まだぼんやりと宙を見つめていた明石が、慌ててそれに続いた。
「さっ、まず海くんは洗い物ね。私が下げてくるからガンガン洗ってって」
「洗い物って……、あれ全部ですか!?」
明石が指差した先には、バーカウンターの内側に接された深いシンク。それが二つ並び合っていて、そのどちらもが様々な形状のグラスでひしめき合っていた。
「あれで半分くらいかな、昨日は日曜日なのにいっぱい来てくれたんだ」
「片付けから始まるんですか……」
ゆうに三十は越えるグラスやジョッキたちを眺めて明石がぼやく。開店前で客がいないとはいえ、店に染み込んでいるのはまったりとした静けさ。繁華街からは少し離れた位置にあるこの店が、これほどのグラスが必要になるとは、今の明石には信じ難かった。
「そう、一日の始まりは片付けから。始めるよ」
そう言ってカウンターの内側からホールへと出て行ったリリーは、手始めにホールのローテーブルに広がった食器類を積み重ね始めた。ホールをはじめとして、そもそも店内に空間を区切る間仕切りは存在せず、カウンターに立った明石からリリーのところまで四メートルほど。
そこから更に二倍ほどの距離が壁の一面になっていて、ダーツ台が五台、壁に面して並んでいる。
「よろしくう」
両手いっぱいにジョッキを抱えたリリーが明石の元へ戻ってきた。カウンターにゴトリと広げると、素早く体を翻す。今度は重ねた食器類を手に戻ってきた。
「何してんの? 終わらないから早くして」
手が止まっていたどころか、着手すらまだしていない明石のことをリリーがひと睨み。抑揚のないその口調は氷の張った湖のようで、遠慮の無い冷ややかさが、むしろ清々しさすら感じさせる。
「あっ、すみません」
明石が軽い謝罪をした頃には、リリーはもう次の動き出しを始めていた。一通り片付いたホールを越え、向かうは明石から見て右手側。
広がるのは四台並んだビリヤード台に、それぞれ備え付けられた小さなテーブル。その卓上にはグラスは一つかあっても二つ。その代わりとしてか、小さな灰皿は四つともが、もれなく吸い殻が溢れ出していた。
リリーに指摘された明石は慌てて袖をまくり、ようやくシンクに散らかるグラスに手をつけていた。
その手際は思いの外こなれたもので、重ねた灰皿を手に戻ってきたリリーも、素直な驚きの声を上げる。
「へえ、海くん凄いじゃん。なんでそんな出来るの?」
「バイトしてたんですよ、……色々と」
今更ながらフリーターだと言うことが気になった明石は、どうにも言葉にキレが無い。
「今って大学生だっけ?」
灰皿に溜まった灰と吸い殻が、明石の足下に佇んだ一斗缶に注ぎ込まれる。
「いや、違いますけど」
「そっか、じゃあフリーターだ。色々経験できていいよね、こうやって役に立つこともあるし」
「積み上げてるものは無いですよ。若いうちはそれでもまだありですけど」
明石は手元を見ないながらでも、洗い終わったグラスの数を増やしていく。ゴム手袋をつけたリリーが、明石の足下に屈んで灰皿の隅に溜まった灰を刮ぎ落としていた。
「なんでもいいや、とにかく今は助かってるもん。さあどんどん洗っていって」
すっかり綺麗になった灰皿をカウンターの端に積み重ねたリリーは、裸になった手のひらで明石の背中をぽんと叩く。
「そろそろ開けるよ、上行ってくる」
リリーはそう言うと、入り口の扉を開けて姿を消した。階段を駆け上がっていく軽快な足音が、ドアベルの音と混ざり合ってリズムを刻む。
「これ、終わるかなあ」
誰に聞かせるわけでも無く音を上げた明石の声は、蛇口から流れる水音にほとんどかき消される。そうは言いながらも、ひとつ、またひとつと洗い上がったグラスを積み上げていく。自分にできることはそれくらいだと、明石はそう考えていた。
「いらっしゃーい! そちらへどうぞ!」
ぐるぐると自分の中を回遊し出していた明石の思考は、予想外の黄色い声に遮られる。声の主は他でもないリリー、そのはずだった。
「リリー?」
再び開いた扉から入ってきたのは二人。前を行くのはひょろりと長い体躯に髷を結った、どことなく遊び人を感じさせる男性。その後ろに続くのは確かにリリーなのだが、明石がどれだけ頭をこねくり回しても、その女性とリリーとがどうしても結びつかない。
それほどまでに、その声色、振る舞い、表情。もって生まれた外見以外のほとんどが、彼の知るリリーとはあまりに異なっていた。
「リリー、今日も元気やなあ」
「そりゃあね!」
両手を腰に当ててえっへんしているリリーを、明石は目を点にして眺めている。そんな彼が立つカウンターの方へと、二人が歩みを揃えるように近づいてきた。
「見て見て! 彼が今日からのニューフェイスでっす!」
リリーとおぼしき彼女が両腕をいっぱいに広げ、手先をひらひらさせて明石の方を示す。突然に紹介を受けた明石は、考えられる精一杯でそれに応えようとした。
「はじめまして、明石海と言います。本日からこのお店で……」
「固い固い!」
明石の自己紹介は髷の男に遮られる。
「兄ちゃん固いわ。リリーも朗ももっと適当やで? そんなんでやってけるんかいな」
「ひどーい。朗ちゃんはいいにしても私もなの?」
リリーがわざとらしくおどけてみせた。出鼻を挫かれるようになった明石の傍では、何の感傷も無く水道水が流れ出ている。
「海くん、水止めて」
リリーに指摘されてハッとなる明石。「挨拶は礼儀正しく」とこれまで教わってきた彼にとって、「固い」ことは褒められはすれど指摘なんて受けたことが無い。
「あっ、すみません……」
「腹でも痛いんか? 元気だしいな!」
髷の男は明石にさらなるハッパをかけながらカウンターのいちばん端に腰掛けた。「とりあえず生で」と言った男の声は、かろうじて耳で捉えただけの明石にとって意味を成していない。
「海くん聞こえた? あちらのお客さん、『マゲさん』に生入れてあげて」
いつの間にか隣に来ていたリリーから指示を受ける。二人背中側にそびえ立つ業務用の冷凍庫。そこから取り出されたジョッキは霜が降りるほどキンキンに冷えていて、リリーから手渡されたときの冷たさでどんよりとしていた明石の頭がにわかにシャキッとした。
「……はい! 生ビールですね」
冷凍庫の隣に備え付けられたサーバーのレバーを引き、ジョッキを満たしていく。今更のことであったが、ここはお酒を提供する店であることを明石は実感した。
アルコールによる失敗の末にここにいることを、リリーは知っているのだろうか。そんなことが気にかかりながらも、黄色と白の液体をきっちり7:3で層を分けて注ぎきる。
「お待たせしました、……生ビールです」
「おっ! ええ感じやん!」
明石が差し出したジョッキをひょいとすくい上げた髷の男は、一息でそれをほとんど飲み干す。
「くあーっ!」
傾いた頭をグンと引き戻す拍子に髷がゆらりと波打つ。
「おいしい?」
可愛さ6割あどけなさ3割、そこに美しさを2割足したような表情のリリーが、首を傾けて尋ねる。4割ほど加わっていたあざとさが、それでやっとそのリリーを完成させているようだった。
「ああ旨いわ。けどリリーが入れてくれてたらもっと旨かったんやけどなあ」
「またまたー、そんなこといっても何もでないよ?」
「嘘やんっ!?」
テンポの良い会話から一人置き去りになった明石は、その様子を傍で遠巻きに眺める。その後もぽつりぽつりとではあるものの間を空けずお客は続き、表の看板がクローズになるまで、明石が会話の中に入りきることはついぞ無かった。
閉店後、灯る明かりの数が極端に減った店内。レジスターを前に丸椅子に腰掛け、その日の売り上げを計算するリリーの背中がカウンターの客側に立つ明石の眼に映る。彼女が漂わせる空気感は営業中とはまた違っていた。少し気が抜けたようにも見えるその後ろ姿がふわりと振り向く。
「お疲れ様、初日だし疲れたでしょ」
無理の無い微笑でそう語りかけるリリー。その表情は間違いなく年下のものだった。
「リリー、凄かったですね。人が変わったみたいでした」
明石が素直な感想を告げると、その言葉にリリーは首だけで返答する。「実際変わってるのかもね。演じてるところあるし」
「演じてる?」
その言葉は明石の中でしっくりときた。入り口から現れたリリーをまるで別の人かのように思ったのも、あながち間違いでは無かったのだと、明石は心の中で納得する。
「なるほど、そんな感じですか。僕も別人のつもりでやればもっと上手く話せるように……」
「真似しなくていい」
背もたれの無い簡素な丸椅子に座るリリーが、強い口調で明石へと叫ぶ。そこでくるりと体ごと回った。
「……真似しなくていいの」
「えっ? なんでですか、僕だってリリーみたいにお客さんと楽しく話したいんですよ」
明石は本心でそう思っていた。今日一日を過ごしてみて、リリーと様々な客が話す輪に入れないことを、思いの外苦しく思う自分がいた。
「自分があんまり好きじゃ無いんですよ。だから誰かになりきるって考えた方が、やりやすいかもしれなくて……」
「海くんは普段どうやって人と話してる?」
「人と? えっと、お互いに声を出して……って感じ、かと……」
リリーから問いかけられたことが明石にはよくわからず、しばらくの間眉間に皺を寄せたり、首をぐるっと捻ったりして答えを探す。けれども適当な返事がうまくでてこない。人と話すことについてなんて、これまで当たり前にやってきた。
「まあいいや。とにかく、別に真似しなくてもいいの。お客さんを楽しませるためにどうしようかって考えた結果が、私にとってはアレだっただけ」
リリーのその物言いは、営業中の自分の振る舞いを揶揄しているようにも思える。少し迷った挙げ句、彼女は言葉を付け加えた。
「正しいやり方かは知らないけど、私はあのやり方をしてる。海くんも自分なりの方法を探せばいいんだよ」
「先に帰って良いよ、お疲れ様」と告げ、再び体を反転させるリリー。レジスターに向き合う背中を見送る形で、明石は店員として足を踏み入れて初めての「j-bridge」を後にした。