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連載小説『J-BRIDGE 』15.

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「痛っ」
 暦が明日へ進もうとしている午後十二時五分前。店にやって来て一月ほどになる明石のこめかみに、刺すような痛みが走った。明石の手からするりと抜け落ちたグラスは、空っぽなシンクの中に落ち、そのままパリンと鳴って砕ける。
 反射的に首を向けてしまうような自虐的な音が、客足のまばらな店内にこっそりと広がる。
「大丈夫!? 切った?」
 隣で洗い上がったグラスを拭き上げていたリリーが、過敏な反応で明石に近寄る。
「大丈夫です。すみません、グラス割っちゃって」
 店に来てから初めてのわかりやすい失敗に、気落ちして声量が小さくなる明石。心配していたが故のリリーの鋭い視線も、今の彼にとっては厳しく映る。
「怪我してないなら良かった。これつけてから触ってね」
 リリーから手渡されたゴム手袋をはめ、シンクに散らばった破片を一つ一つ拾い上げる。いちばん大きな破片を手に取りながら、年下の振りをしていて良かったと、リリーに心配される自分を慰めていた。

「ゴミ、捨ててきます」
 少しばかりその場を逃げ出したくなった明石の心に応えるように、破片を覆った新聞紙を入れると大型のゴミ箱がちょうど満腹を迎えてくれた。階段を上がったすぐのところにある電柱へ、明石は一時避難する。
「なんやったんやさっきの……」
 電柱の足下にボンと袋を投げた明石は、自由になった指先でこめかみの辺りを擦る。痛みはもう引いていて、気のせいだと言われればそんな気にもなる。考えても仕方が無いと店に戻ろうとした一歩目で、そこが「佐竹千虎」によって特に殴られた箇所の一つであることを思い出した。「なんで今更……」
 打撲による痛みは、二週間もした頃には引きはじめ、その翌週には殴られた事実すらを忘れるほどだった明石の怪我。結果的に「j-bridge」へ導いた存在であることを差し引いても、千虎に対する感情は今思いかえしてもそのほとんどを恐怖が占めている。
 グラスを割るという失敗を犯し、千虎の事を思い出し。すっきりとしない思いを抱えながら階段を降る明石。店に戻ると、さっきまでダーツを投げていた常連客が居場所をカウンターに移し、リリーと談笑していた。
「おかえりい! ゴミ捨てありがとね!」
 ドアベルの音に過敏な反応を見せたリリーが、明石に気づいて額の前敬礼する。彼女に敬礼を返す訳にもいかず、曖昧な会釈をしながら彼女の隣へと戻った明石。客とリリーは「月に兎がいるかどうか」の話題で盛り上がっていた。
「クレーターはね、きっと兎の寝床なの。月にいる兎は私たちが知っている子たちよりも賢くて、でも餅つきなんかはしない。別に好きじゃ無いでしょ、お餅」
 どこまでが本気なのか、それとも、これもまた「演じる」ことの一つなのか、リリーは真剣な顔つきでそう話していた。「俺は好きやけどなあ、餅」と、カウンターで男が言って、自分がどんな餅が好きなのかと語り始める。
 話はずるずると餅に引っ張られていき、五分もすれば「自分の好きな餅についてのプレゼン大会」へと話は移り変わり、接戦の末に明石の安倍川餅が優勝を決めた。
「明石君、麦のソーダ割りちょうだい」
 客からのオーダーが入る。週に5~6日ほど出勤しているおかげもあってか、最近では店の常連達と顔なじみになり始めた明石。彼のことをこんな風に名前で呼んでくれる人たちも、少しずつ数を増やしていた。
「麦ソーですね、ありがとうございます」
 明石がオーダーに取りかかろうとしたまさにそのタイミングで、ドアベルが声を上げた。音に続いて男性二人、女性一人の若い男女がとたとたと店に入ってくる。
「いらっしゃいませ! あ、あー!」
 明石とリリーの揃った歓迎の声に、明石だけが言葉を続けた。二人いる男性のうちの一人は、明石が働き出して間もない頃に出会った、明石にとってのはじめてのお客さんとも言える彼だった。
「お久しぶりです、覚えてますか?」
 男性が明石に向かって笑いかける。
「もちろんです」
 明石は自信満々にそう返した。覚えているも何も、彼の存在があってこそ明石は舞台に立つことができたのだと、そう考えている。三人は並び合ってカウンターに腰掛け、それぞれ自分の座りやすいように体周りを整える。
「今日は友達とかも連れてきました。またお兄さんに……、すみませんお名前なんて言うんですか?」
「明石海っていいます、僕も名前聞いて良いですか?」
 プライベートの奥深くについて尋ねるような遠慮をみせながら、明石は男性に向かって言う。
「僕は辰野っていいます、タツでいいですよ。また明石さんに会えて良かったです」
「タッちゃん、私たちダーツ投げとくね。お姉さん! ダーツしたいです!」
 辰野の隣に座っていた女性が、目の前にいたリリーに向かって手をあげる。
「わっかりました! そしたらこっちへどうぞ!」
「うわっ、お姉さんめっちゃ美人!」
「うそー! そんなこと言ってくれて嬉しい! ありがと!」
 リリーに案内される形で、辰野と連れ合いで来た二人はカウンターから離れていった。初対面の女性二人がお互いに褒めちぎるフェーズは、ダーツ客用のテーブルに辿り着く頃には終了したようで、オーダーを取ったリリーが戻ってくる。
「海くん、生ビール二つお願い!」 
「了解です! あっ、タツさんは何にしますか?」
 二本を示すリリーの指に親指を立てて応え、忘れず辰野のオーダーも取る明石。ついさっきグラスを割ったことも、こめかみが痛んだこともしばし忘れるくらい、辰野が店に来た一因に自分がいることを喜んでいた。辰野からも生ビールのオーダーが入り、三つのジョッキを手際よくビールで満たしていく。
「……こっち二つ、持って行くね。カウンターはよろしく」
 一度カウンター内に戻ってきたリリーが、注ぎ終えたジョッキのうち二つを持ってまたダーツの場へと去って行く。明石は一つ残ったジョッキを両手で持つと、辰野の前にことりと置いた。
「お待たせしました。タツさん、……本当にまた会えて嬉しいです」
 気の利いた話題を振りたかったけれど、それは明石にとってまだハードルが高かった。何か話さなければと迷った明石は、素直な気持ちを改めて口に出すことにしたらしい。
「どうですか、慣れました? 自分はやっとそろそろ戦力になり出せたかなってレベルです」
 明石の様子を見てか、丁寧に辰野が話を振ってくれる。新入社員ながらもなんとか営業職として食らいついている辰野の側面が、そこに垣間見えるようだった。
「いやー、ぼちぼちですかね。全然まだリリーに敵わないなって感じです」
 そうは言いながらも、少しずつではあるものの、自分が舞台に立っていると思う場面が増えてきた明石。カウンターに一人で立ち、辰野とこうして話している今なんてまさに、自分が一幕を作っている気持ちにすらなっていた。
「あの人は凄いですね、明るくて誰にでも物怖じすることなくて」
 そう言いながら辰野が振り返ると、ちょうどダーツ台の辺りで辰野と共に来た二人と話すリリーの姿がある。もうすっかり打ち解けたのか、女性とはじゃれあっている様子も見えた。
「……ですね。ほんと、見習わないと」
「あっ、こっち来ますよ」
 ゲームのセットが終わり、ダーツを投げ始めた二人。一段落とばかりに伸びをしたリリーがちらりとカウンターに目をやったかと思うと、固い表情ですたすたと戻ってくる。
「リリー、もう仲良くなったんで……」
「ちょっとどいて」
 狭いカウンター内ではひと一人が通るのがやっとで、すれ違うためにはどちらかが体を寄せないと通れない。話しかけた明石の方を見ることもなく、言葉を遮ってカウンターの奥側へ入ったリリーは、縦長のカクテルグラスに氷を詰め始めた。
 きょとんとした様子でリリーを見つめる明石。彼女が天真爛漫然と振る舞うのは客の前だけで、明石と二人の時には口調が冷たくなる。ただ、こんな風に会話を遮られるような事は初めてで、ましてや辰野がいる前なのにと、自分を棚に上げた明石は、リリーの不調を疑った。
 グラスいっぱいに氷を詰めたリリーは、振り返って酒瓶を手に取る。
「あっ!」
 リリーが手にした瓶のラベルが目に入ったとき、明石の脳にはするどい電流が走る。そのラベルには中央に「神の河」と記されていた。
「すみません、リリー、僕がやりま……」
「いい、話してて」
 取り付く島もなく、淡々と手を動かすリリー。ものの数秒でできあがった一つのドリンクは、丁寧に水滴を拭き取られると彼女のすぐ目の前に音もなく置かれた。
「ゲンさんすみません! たいへんお待たせしちゃいました、麦のソーダ割です!」
「おお、もう来んかと思ってたわ。ありがと」
 軽く片手を上げて、早速一口喉を潤すゲンさんと呼ばれた常連客。怒っている訳ではないその表情は、ただ残念だった気持ちを示すように、皺一つ無かった。
 その様をぼうっと見つめる明石は、心配そうな表情で彼のことを見る辰野のことを気にかけることすらできない。一度塞がった口は容易に開くことができなくなり、舞台装置のひとつに成り下がった。
「海くん! 静かになってるじゃん! どうした?」
 助け船か追い打ちか、文字通り口を噤んでいた明石に向かって、「落ち込んでないで話せ」と言わんばかりにリリーが声をかけた。
「はい、すみません……」
「おーい! 海くんめっちゃ落ち込んでる! ゲンさん別に怒ってないよね!? リリーが来たもんねっ」
「いーや、俺はお怒りやでえ。リリーに体で払ってもらわなアカンなあ」
「きゃー!」
 わざとらしさが過ぎるような二人のやりとりが繰り広げられる間、明石はただひたすらに手近にあったグラスを磨き続けていた。何度も何度も同じ所を擦られたグラスは、水滴ひとつ残っていない。それでも明石は、手を止めれば二度と動かなくなるとでもいうように、生産性のない単純な運動を続ける。
 たいへん幼稚ながらも、これは明石にとっての一種の防衛本能だった。一定の動作を続けることで自分の中にリズムをつくる。そうしないといけないほど、明石は動揺で心が宙に浮いていた。目は泳ぎ続け、竦んだ体を誤魔化すように細々とした動きを続ける。にもかかわらず、声帯は麻痺したかのように言葉を紡いでくれることは無い。
「明石さん」
「は、はい!」
「僕もダーツしてきます、また今度いっぱいお話ししましょう」
 辰野はそう言って席を立つと、「大丈夫ですよ」と添えてダーツに興じる二人の元へと向かった。彼が言い残した言葉には、経験則からくる自信のようなものが込められていた。サラリーマン一年目の辰野の言葉だった。

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