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家系図を作ってみた(母方編)

父方編に続いて母方編である。


かかった費用・日数


戸籍の請求の方法と必要なものは基本的にどの自治体でも同じである。
まずは自身の本籍地に自身が掲載されている戸籍謄本を取得する。
私の本籍地はなぜか祖父母の自宅なので、隣市の役所で自身が掲載されている戸籍と父方の祖父母が掲載されている戸籍謄本が手に入った。
窓口で必要なものは以下の通りである。

①身分証明書
→顔写真付きなら1枚、顔写真がないものは2枚必要
②戸籍証明等請求書
→事前に家で印刷してして記入しておくとスムーズ
窓口で「家系図作成のため取れるものは全てお願いします」と言えば、役所の方にスムーズに伝わる。

母方は以降は遠方なため、全て郵送請求で行った。
郵送請求の場合に必要なものは以下の通りである。

①戸籍謄本等郵送証明書
→「○○市 戸籍郵送請求」で検索すると出てくる
②自身の身分証明書のコピー
③欲しい戸籍と自身の関係がわかる戸籍のコピー
→簡単な系図を記載したメモを同封すると良い
④定額小為替
→基本的に1万円分送れば追加で必要になることは少ない
⑤返信用切手        
→どれくらいの重さになるかはわからないので多めに入れておくと安心
⑥返信用封筒

メモに「家系図作成のため、取れる分は全てお願いします」と書いておくと役所の担当者に分かりやすい。

大まかな費用・かかった日数は以下の通りである。(全て通常郵便)

8月25日 本籍地の役所に戸籍を請求(2通)
8月26日 三重県菰野町に戸籍を請求
9月5日 三重県菰野町から戸籍謄本到着(1通)
9月6日 新潟県新潟市に戸籍を請求 
10月31日 新潟県新潟市から戸籍謄本到着(11通)
戸籍謄本 750円×12通
為替手数料 750円
切手代(往復)  約800円 

※封筒は家にあるものを使用したので計算外とする。

できあがった家系図(母方)

これが戸籍で辿った母方の系図だ。祖父の系統と祖母の系統に分けて作成した。
最も古い戸籍は天保8(1837)年生まれであった。
父方の佐賀県に比べると通数が少なかった。やはり自治体によって残存数が異なるようだ。
なお、戸籍にはさらに多くの人の情報があったが、上手くまとめられなかったため、直系の先祖とその兄弟のみ家系図に記した。
母方の直系の先祖は現在の新潟県新潟市南区に本籍を置いていた。


母方 祖母の系統
母方 祖母の系統

先祖を調べてみた

自治体史類には名前が見つからなかったが、曾祖父(祖父の父)①と曾祖母(祖父の母)の兄弟②③の軍歴証明が新潟市に残っていたので請求した。
これらは別記事で後日紹介する。

土地の歴史を調べてみた

先祖の個人の歴史は辿れなかったので、土地の歴史を調べてみた。
白根は現在でこそ田畑が広がる地域だが、それまでの歩みは決して平坦な道ではなかった。

白根郷のそもそもの始まりは,信濃川の,遠く長野県,その他上流の山々から流れ出た土砂が堆積してできた,第4紀新生層の肥沃の壌土である。こういう地形的特質をもつ白根郷は,信濃川,中之口川の年々の洪水氾濫により,植付し青田も一面のぬかるみとなり,収穫皆無ということも珍しくなかったという。
そのために食生活は粗末であり,夜は,わずかばかりの暖をとり,行燈の下で針仕事をする婦人たち,また,ひびやあかぎれに膏薬をはる姿,土間に煎餅布団にくるまって,寝ながらにして星がさしこむ粗末な家屋であった。
このような本郷の開墾は,400余年前,上杉謙信が戦略的手段として農業の振興を志し,開墾を奨めたのが始まりであり,そのころから農民自ら開墾を志す者が現われ,各地で開発が進められるようになり,標高の高い南部の上流部堤防沿いから始まり,下流へと進んでいった。江戸末期には,北部下流部まで進み,集落ができるようになり,当時の治水開発は,狭い耕地を堤防で囲んだ「囲」造りであり,少しずつ田畑を拡大してきたわけである。また「江丸」を各地に設け,余水吐に利用したり,今現在も実施されている藻刈,渠底工事などは,江戸時代から盛んに行われていた。
本郷には多くの潟があり,その中でも一番大きい白蓮潟の開発は江戸初期からであり,農民だけでは開拓が困難なため,当時納めていた新発田藩が乗り出し,白根郷の耕地を拡げてきたわけで,こうした先人たちの血のにじむような長年の努力も,一夜にして洪水で水泡に帰してしまうこともたびたびあった。

『白根郷の歩み』より引用

浄楽寺村(現在の新潟市南区)

寛永20(1643)年頃赤渋村(現在の新潟市南区赤渋)の青木兵右衛門が新発田藩の命を受けて白蓮潟周辺の荒地を開発して成立。
新発田藩領。
延宝年間(1673~81年)に検地を受け中山村・小蔵子村・古川村・和泉村・上諏訪木村・下諏訪木村・能登村・七軒村・十五間村・神屋村・小坂村・上高井村・中高井村・田中村(北田中村)・下山崎村・引越村の16か村に分村。

神屋(現在の新潟市南区神屋)

寛文以降(1661~1673年)に開発。
蒲原郡のうち。神谷とも書いた。
浄楽寺新田16か村の1つ。延宝6(1678)年分村して成立。
新発田藩領。
村高は、「旧高旧領」(明治時代初期の調査)によると247石余。なお、郷帳類では浄楽寺新田の高に含まれていたと思われる。
明治12年中蒲原郡に所属。同17年の戸数34・人口221(中蒲原郡誌)。
同22年浄楽寺村の大字となる。
明治22年~現在の大字名。はじめ浄楽寺村、明治35年白根町、昭和34年からは白根市の大字。

能登(現在の新潟市南区能登)

江戸期~明治22年の村名。蒲原郡のうち。
浄楽寺新田16か村の1つ。延宝年間に検地をうけて成立。
新発田藩領。村高は「旧高旧領」261石余。なお郷帳類では浄楽寺新田の高に含まれていたと思われる。
同21年の戸数119・人口528。
同22年白根町の大字となる。
明治22年~現在の大字名。
はじめ白根町、昭和34年からは白根市の大字。
一部が昭和60年東町1丁目、同62年能登1~2丁目となる。

白根(現在の新潟市南区白根)

江戸期~明治22年の村名。蒲原郡のうち。
天正2(1574)年袖山半兵衛重勝によって開発され成立。その後元禄2(1689)年袖山忠兵衛が4と9の日の六斎市開設の許可を得てからは在郷町、また中ノ口川舟運の集散地の河岸町として発展したため白根町とも称した。
新発田藩領。
村高は、「元禄郷帳」122石余、「天保郷帳」433石余。
寛政年間の大火(おみき火事)により焦土と化し一時は衰えたが、文化年間頃染織物の生産が始まり復興。仏壇製造も江戸期から開始されたという。
中ノ口川を挟んで行われる凧合戦は新発田藩領である当村と村上藩領である西白根村の両村の反目から始まったという(中蒲原郡誌)。
明治5年大河津分水工事に端を発した悌輔騒動で、首謀者渡辺悌輔は当村を通って新潟に向かったという(同前)
同12年中蒲原郡に所属。
同20年大火によって800余戸焼失。
同22年白根町の大字となる。

1961~69年の航空写真
川に囲まれているのがわかる

参考文献
・『角川日本地名大辞典(旧地名編)』KADOKAWA
・金内與一郎『白根郷の歩み』農業土木学会誌 50巻7号 p.581-583(1982)
・新潟県中蒲原郡『中蒲原郡誌』(1986)

祖父母から聞いた話

母方祖母は私が幼少期に、祖父は令和二年に亡くなっているため、直接聞くことができないが、過去に聞いた話をここに記す。
母が小学校低学年の頃に、祖父の実家を訪れたときに母から見た祖母④が、「狭くて暗い中二階に閉じ込められて怖い」と思っていたそうだが、つい先日母の兄と電話をしていた際に、「祖父①が生きている間は、祖母④の方が偉かったし婿養子みたいなもの」と話した。そのうえ、その部屋は狭くはなくて、むしろ広かったようだ。
実際に戸籍上では婿養子ではなかったが、実家同士のパワーバランスによるものではないかと思っている。
祖父は五男で、幼少期には「男なのに家事をやらされて嫌だ」と思っていたそうだが、祖母に先立たれてから20年以上一人で家事をこなしていて、亡くなった際に警察の方が「本当に男性の一人暮らしでしたか?」と聞かれたそうだ。やはり、家事は男女ともにできた方が自分のためになるなと改めて思った。


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