良い文章を書くには、とにかく書く。人の文章も自分の文章も読んで書く。これを繰り返す。
人生で初めて一冊最後まで読み終えた!
単行本を3時間半。1日30分、7日間で読み終わった!
人並みよりも遅いのは自覚している。
だけど、42年間一度も一冊本を読み終えた事がない私にとっては最後まで読み終えることの方が大事でそれができ、達成感を味わっている。
今月の目標の一つは月に一冊本を読むこと。
しかし、7日で読み終えてしまいせっかく読書の習慣がついたのにそれを途絶えるのは勿体ないので同じ本をもう一度読むことにした。
今回の目的は概要を書くこと。
2025年1月の本は
堀井憲一郎さんの「いますぐ書け、の文章法」
読み手の立場になって書くこと
アマチュアの人は、自分の書きたいものが大事で、その後に読んだ人のことを考えている。読み手は二の次。
アマチュアの人が設定している読者は「きちんと読んでくれる読者」
プロが想定しているのは「不親切で、不熱心な読者」
自分の旅行記を書こうとする時「準備から描写して、起こった順」に書いていきたいと思っていませんか。
でも、それは「読者の都合をまったく無視した書き方」です。
そこには読み手の視点がない。書き手の都合しかない。
旅の手記を、旅立ちから書かずに、おもしろい部分から書けるようになること。それが「読み手の立場に立って書くこと」なのです。
「漢字を減らせ」「すぐ改行しろ」
「読者がどちらの音で読めばいいか迷うような漢字は使うな」
「これぐらいの漢字、知ってて当然でしょ。知らないほうが悪い」というスタンスは、自分の方式を人に押し付けていることになる。
読者よりも書き手の気持ちが優先されている。
読んでいる人のことを考えるというのは、自分とは知識の違う他人が読んでも、つっかかりがなく読める文章を用意する、ということである。
読者は絞ったほうがいい
絞った相手に本気で語ると、伝わる。
最初から全人類みんな、と語りかける話は、人類のほとんどに聞いてもらえないだろう。
それよりも、卒業生20人を前に、先生が愛情を持って本気で語った言葉は、その卒業生を越え、年代を越え、国境を越え、言葉の壁を越えて多くの人の胸に届く可能性を秘めている。
「何を、誰に向かって、どう書くか」と各テーマを事前に決める
それが企画立案。
最終的にどこを目指しているのか、を常に考えておかないと、わけのわからない文章ができる。
「とりとめのない文章になってしまいましたが」と最後に断りを入れてしまう文章は、だいたいがそれである。
いくら脱線しても構わないが、最終的にはどこを目指しているのか、だけは強く持っていないと、ちゃんとした文章にならない。
見出しは「逆説」がいい
読む人の立場を考えるということは、「あまり、興味ないんだけど」と思って読み始めた人」をどう引き込んできて、本気で読ませるか。
「面白いタイトルがつけられること」
どんな種類の文章でもきちんとした文章なら、必ずタイトルをつけることができる。これは優れた文章の特徴だ。
優れた文章とは、一つのことだけをわかりやすく書いていて、ストレートに言いたいことが伝わってくる。
逆にタイトルがつけにくいのは、いろんな要素が入っているからで、それが”分かりにくい文章”の典型です。
タイトルをつけにくいものは、悪い文章である。それはブログでも日記でも同じ。
その日の出来事がただ羅列されてるだけなら、その日の日付をタイトルにするしかなく、それは公開する性質のものではない。
タイトルをつける行為はきちんとした文章を書くことと密接に関係しているのである。
面白い文章は読者を惹きつけ、タイトルもつけやすい。
「タイトルに結論を入れろ」
よい文章は、上司に「で、言いたいことは何か」と聞かせない文章のことである。
結論を先に書け。それなら3秒で分かる。そのあと、簡単な説明を入れろ。7秒で読めるくらいの説明。だったら10秒で全容が把握できる。10秒で全容が把握できた企画書については、続いて読もうとする。
人を変えるために書かないと意味がない
例えば「唐揚げを簡単に、美味しく揚げる方法」でもいいのである。
片栗粉を一つずつきちんとまぶして揚げるのが正しいレシピだと信じていた若奥様が、「調味料と一緒に片栗粉も袋に入れて外から揉んでしまえば同じです」という文章を読んで、それで唐揚げを画期的に手際よく揚げられるようになったら、それは文章として最高である。
誰も読んでくれない高邁で自己完結的な革命論より遥かに価値がある。
簡単な唐揚げの方法には、実際に作った人の説得力がある。
頭の中で考えられた精密なる理想的革命理論には、身体性がない。それでは人を動かせない。
人は人の話を聞きたいだけなのだ。人の考えはあまり聞きたくない。
志を大きく持てるよう「人を変える」と言ってあるが、具体的なテーマは小さいものでいい。
身辺雑記エッセイなどは、まさに「人を変える意識」だけの文章だとも言える。革命を唱える政治理論よりも日常生活エッセイのほうがよほど人を変える意識に満ちている。
人を変えるものを書くにはどうすればいいのか、「なんだか変だな」をストック
何か変だな、今まで言われていたこと、世間で常識だと思われてることはちょっと間違ってるんじゃないか、そういう発想からしか使える企画は出ない。
唐揚げの作り方は、ほんとうにこれでいいのか。天気予報の見方はいまのままで正しいのか。いつもと違う通学路を使うとどうなるのか。そういうことである。
「なんだか変だな」を一週間で何回持てるか、である。日常生活で。
それをいくつストックしているか、がすべてである。
ある意味、真面目でない方法でいく。今までの方法や、今までの道や今までの見方にちょっと茶々を入れてみるという感じである。真面目な人は既に獲得した方法を手放そうとしない。その方が楽だから。
緑茶にたっぷり砂糖を入れたらじぃさんに怒られるだろうし、通学路を変えて迷って帰れなくなったらまず説教をくらう。新しい泳法を独自に開発して水泳の時間に溺れたら大騒ぎになる。
でも、そういうことをいつもやるかどうか、でしかない。
やらない人は、あまり怒られずにまっとうな道を進み、でもって企画会議のときに有効なアイデアが出せずに苦しみそうだ。
いつも奇抜なことばかりやっている人は、企画を考えるのが苦痛ではない。企画なんざ、いくらでも出てくる
発想は努力ではたどり着けない。でも粘らないと新しい発想は生まれてこない。
ひらめきは、どうしても偶然性に支配される。でも、常にひらめこうとしてる人にしか訪れない、ということである。
結論から書け。時間軸で書くな
まず、結論。そのあと経緯の説明。それが読む人に都合の良い順序です。
結論が遅い企画書や報告の特徴は、時間軸に沿って書かれているところにある。
それを読むことは、その発案者の”発案に至るまでの時間”を共有することを強要される。なんで発案に至るまでの物語を我慢して聞かなきゃいけなんだ。そういう視点が欠落している。
読む人のことを考えて書いていない。ただ、自分が納得する流れで書いている。
だ、か、ら、それが読む人のことを考えていないってことです。
「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」は、物語の冒頭で犯人がわかる。倒叙法と呼ばれる手法だ。すべての企画書はこれでいってください。
時系列に沿って書くな、というのも最初はなかなか難しい。
「どうしても時間の流れ通りに文章は残したい」と考えるなら、そういう人が大事なのは自分であって、読者ではない。
時間軸に沿って書くのは書き手の都合。
自己を表現するものではない。自己が晒されるものでしかない
“どううまく表現するか”ではなく、”どの言葉を使わないか”で表現は磨かれていく。
「自己表現として文章を書きたい」という発想は、ほとんどの場合「俺の話を聞け」と言ってるにすぎない。
自分の内側にあるものをストレートに出すので、それを受け入れて欲しい。という心の動きを「自己表現したい」と言い換えてるに過ぎない。
「私の今の苦しい状況を聞いて欲しいんです」という文章は、それは読者を想定しているとはいってもそれは「この人なら私の話を聞いてくれるだろうという期待」でしかなく、それはその人の心を動かしたいから話しているのではなく、自己救済のために話しているばかりである。それは確かに聞いてくれるかもしれないが、届きはしない。そして優しくない読者は聞いてもくれない。ほぼすべての読者は優しくない。
文章を書くのは肉体の作業である。頭脳で制御しきれない
文章を書くのは、スポーツと同じである。
実際に書かないと駄目だ。
書いて、うまくいかず沈む。でも書く。書く。また書く。とにかく書く。
書いて、書いてる最中に制御が効かなくなったら、そこで怖がって止めずにそのまま書き続ける。また、書く。
それを続けるしかない。
「うまく書けないで悩んでいます」というのは、多くの場合、「一回でさっそうとうまく書き上げようとしてるんですが、それがうまくいかないんです」というものだ。
一回でうまく書き上げる。そんなことができるわけがない。文章は頭で考えてもどうにもできない。
もちろん、書くだけで、書きっぱなしだと、駄目だ。
できれば一度寝て、起きて、読む。時間を経てから読む。
人の文章も読まないといけないけど、自分の文章も読んで、読んで、また書く。大事なのは前に進むこと。
前に進むためにどうするか。何でもいい。書く。書く。それも「明確な目鼻がついて声が聞こえてくる相手」を想定して、書く。書く。そうやって進んでゆくばかりだ。
ボキャブラリーを増やしたり、国語力を高めるには、読むしかない
とにかく読む。読む。次々と読む。同じものを繰り返し読む。
何歳だろうと78歳だろうと読む。
文章はあくまで個人から発するものである
「公」の立場になって人様に間違いを指摘する存在と化する「社会的発言」こそが、文章を書く時の大きな敵である。現政府よりも上の立場に立って、悪いところを指摘して、改善する方向を指し示す。
多分言ってる本人はすごく高いところから発言していて気持ちいいんだろうけれど、でもそんなところからは人を動かすなにかは絶対に生まれてこない。
何を書いてもいい文章を書く時、何を書くか。
それは自分の話である。あなた個人の体験とそこから生まれたなにかの感想である。あなた個人の疑問である。あなたが感じたきわめて個人的な風景である。
現政権の管理能力のなさについては、それは他の人に任せておけばいい。
あらゆる文章はすべて「個人」が発信して、個人的な視点からしか発言できないのである。
文書は、ふつう独断と偏見によって書かれるものなのだ。独断も偏見もない文章は残念ながら読むに耐えない。
読者の立場からすれば、独断と偏見になりますが、というフレーズなんか、全く必要ないのである。
一人称と文末の”思う”は極力つけないほうがいい
でないと、すべての文章末に「思う」とつけたくなるからである。
文末に「思う」とあったら、すべてチェックして、可能なかぎり、取り除く。
日本語の文章は、一人称をすべて取り除くことが可能である。そして、それができたほうが読みやすい。
冒頭の一文の最初の一言が「私は」若しくは「僕は」であることは、できる限り避ける。
古来、我が邦(くに)では一人称はなくても文章は書けるし、一人称が少ないほうがいい文章だとされてきた伝統があるのだ。