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書く習慣1ヶ月チャレンジDAY2・「今やっている仕事・学んでいること」〜想像でしかないことを想像できるのが想像力だ〜


私は、学ぶことが好きだ。
かといって、学生時代勉強が好きだったかというと、それは義務的に感じていたので、大人になって「テストで何点取らないといけない」などといった制約なしに、しかも自分の興味のあることだけを勉強できるようになったのが、とても嬉しい。

だから、今興味のあるいくつかのことを思いっきり勉強しているのだが、今回はそのうちの一つである韓国語の勉強について、自分の仕事と絡めながら少し書きたいと思う。

私は今年の2月に、突然K-popの沼にハマった。
といっても、全く興味がなかった世界というわけでもない。実は中学時代が、かの「ヨン様ブーム」の頃にあたっていたので、見事に韓国ドラマの世界に魅了され、特に劇中の音楽にハマりOSTをずっと聴いていた。


意味はほとんどわからないのに、気づけば何曲か、韓国語のまま歌詞を覚えてしまい、未だに歌える。

自分の通っていた中学校は、当時次々と新しい取り組みをしていたので、音楽の授業では韓国の音楽を勉強・演奏したり、韓国の学生さんとの交流会をしたりしていて、自分たち自身の修学旅行の行き先もなんと韓国だった。

しかし、とある理由で私は高校入学後の3年間、ほとんど音楽というものを聞かなくなってしまい、日々の勉強に追われる中で、一度韓国ドラマや音楽との関わりは途切れてしまった。

再び繋がりができたのは、大学の第二言語で朝鮮語を選択したことだった。
以前興味を持っていたものだからと迷わず選択したものの、やはりテストに追われながらの勉強はなかなか楽しいと思えず…… どちらかというと、義務的に勉強してしまった。

大学時代に大きなK-popブームがきたが、流行りの曲として楽しむ程度で、どこかのグループを特別応援するということもなく、それよりも中学時代に聴いていたOSTを懐かしんだり、応援している国内のアイドルのコンサートに行ったりする方が好きで、まただんだんとこの世界から遠ざかっていた。


しかし、「縁がある」人やものごとというのは、一度や二度離れてもまた繋がりが生まれるものなのかもしれない。


それから10年が経ち、コロナ禍の世界がやってきた。
毎月楽しみにしていたコンサートもなくなり、わたしの心にはぽっかりと穴が空いた。
インドアな趣味はたくさん持っていても、エンタメで満たされていたワクワクは、やはり何でも埋められなかった。


そんな時、見たいドラマがあったことで登録したNetflixからいつも激推しされるので、そんなに言うなら見てみるか?と軽い気持ちで見た「愛の不時着」のおかげで、韓国ドラマ熱が再びメラメラと燃え上がった。


そして、いくつか韓国ドラマを見ていった中で出会った俳優さん(だと信じていた人)が実はアイドルだったことを知り、初めて特定のK-popグループを猛烈に推すこととなった。

彼らのデビューはちょうど自分の大学時代にあたるので、あのとき好きになっていれば、と思った回数は数えきれないが、これまた縁というものは、繋がるタイミングでしか繋がらないのだろうと思う。

そして、こうなると、推しの音楽や言葉を推しの文化や感性で受け取りたいと思うものだ。
今の時代、翻訳機能を使えば何を話しているかがわかるし、歌詞を検索すれば日本語訳をしてくれている人のサイトも出てくる。

それでも、やはり微妙な「ニュアンス」はその言語独特のものがあるわけで、彼らの本当に伝えたいことは、日本人の私たちには「日本語の範疇で」「日本語のフィルターを通して」しか伝わっていないのかなぁと思うと寂しい。

だから、120%自分の意志で、韓国語の勉強を再開した。

日本語と近いところも多い言語だけど、やはり大量のハングルを見ても一つひとつゆっくり解読しようとしては全くできずに気が遠くなることもある。
これ、読めるようになる日など来るのか???と果てしない旅を思うと絶望感は無視できない。

それでも、大学時代の勉強のおかげで、ハングルの基本的な読み書きは少し記憶に残っていたし、中学時代いくつかの曲の歌詞を覚えていたおかげですんなり入ってくる単語もあったので、「これは、ゼロから勉強するよりは、100倍はラクなんだろうな」と感じた。

その時義務的にやっていたことであっても、本当に興味を持って猛烈に勉強したくなる日が来ることは、大いにある。そしてその時、自分の勉強していたことがめちゃくちゃ助けになるんだなぁと感じた。

そして、信じられないほど長い道のりだと思っていたのが、最近は推しから送られてくるメッセージが、翻訳機能を通さずわかることも増えてきたので、ますます勉強が楽しくなった。
モチベーションは大事である。


というのが、韓国語の勉強を通して感じたことなのだが、これが仕事で大いに役に立った。

私は今、仕事で英語を教えている。

英語については、将来仕事で使うことを見据え3歳から触れてきたので、一応教える資格があるレベルにはいるし、知らない単語に出会うことがかなり少ないくらいまで知識は増やした(それでも、まだ自分ではまだまだ勉強しなければならないと思うのだが)。

だから、それなりに伸び悩んだりまだまだだなぁと感じたことはあっても、抵抗は感じたことがないし、「英語がぜんっぜんわからない!!!!!!!」という思いは、したことがない。


教える上で、「わからない人の気持ちになって考える」ことは、最重要項目の一つだと思う。だから、英語の勉強に困難を感じている相手の気持ちと苦しみを最大限想像すること、「わかる人の立場」からものを言わないようにすることは、常に心がけてきたつもりだ。

それでも、韓国語の勉強を通して、「なんとなく読み方はわかるけど、ひとつも意味がわからない」「読み方すらわからない、記号か?」という体験をしたことで、初めて「何もわからない」ことのつらさや戸惑いが身をもって理解できた。
これまでの想像は、やっぱり想像でしかなかった。


「こんなの将来役に立たないよ」「どうせ英語使うような仕事とかしないし」
そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。今のその想像は、想像でしかないんだと思う。

「あぁ、やらされながらでも、ちゃんと英語勉強しておいてよかったな」と思える日が来るかもしれない。
英語は必要ない道に進んでも、いい大人になってから、英語圏のアーティストの大ファンになって、趣味として勉強したくなる日が来るかもしれない。
結局自分は英語とは関わりがなくても、生まれてきた子どもが、すごく英語に興味を持つ子かもしれない。

そんな先のことわからないよ、と言われるかもしれないけれど、この話をしてそうか!と思ってくれる人もいるかもしれないなぁと感じた。

そして、私自身韓国語の勉強が続いているのは、「好きな人たちのことを理解したい」という目的、「それができ始めた」という喜びに支えられてのことだ。

でも、学生時代の私自身の勉強のモチベーションは、「負けたくない」一本だった。
ものすごい負けず嫌いの性質だったので、勉強自体がいかに義務的なものであっても、「負けたくないライバル」が存在すればそれだけで勉強に向かう十分な(むしろ唯一の)理由だった。

だから、もちろん自分ほど負けん気に溢れた人は多くはないだろうけど、やる気を起こさせるには、ちょっとでも「負けたくない」スイッチを刺激することは有効だと思っていた。

でも、「何か楽しいことがないと、その勉強をする気持ちが起こらない」ということこそ、十分すぎるほど「勉強したくない」理由だ。
「自分の興味に基づいていて、わかりたいと思う、わかると喜びを感じる」ということこそ、勉強する最大のモチベーションだと気づいた。
自分と人とは違うなんてわかっていたつもりだったのに、やっぱり、想像は想像でしかなかった。

こうして自分の勉強を通して学んだことで、教えるときの心持ちが、すこし変わった。
教える側も、常に学習者でなければならないというのは、こういうことだと思った。

でも、やっぱり忘れてはならないと思う。
「自分の身をもって体験した!だからわかる!」と思ってはいけないということを。
感じたことは全て、自分のフィルターを通してのことで、相手の考えや感情は、どんなに一生懸命想像しても、あくまでも自分という人間が想像している範疇を出ることはないということを。
本当の想像力とは、想像が想像でしかないことを想像できることなんだと感じた。

でも、限界があるに見える「想像力」も、実体がない分、とても自由だとも言える。
だから、今指導させてもらっている人たちには、想像できないことが待っているからこそ、ワクワクするんだと思ってほしい。

私自身も、「相手の気持ちをちゃんと想像している」と思っていてもそれはあくまで想像であることを自覚しつつ、その人がどんな風に伸びていくか、その人がどんな素敵な未来を送るかはまだ誰も知らないというワクワクを常に持ち続けたいと思った。




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