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「粋」のススメ|髪棚の三冊 vol.1

『美意識の芽』(五十嵐郁雄/GIGA SPIRIT)※絶版
「いき」の構造(九鬼周造/岩波文庫)
ブランドの世紀(山田登世子/マガジンハウス)

髪棚の三冊 vol.1

(初出「ビプロスニュース 2017 vol34」の記事を加筆再構成しました)

■蟻牙の鋭鋒

 五十嵐郁雄さんは「粋」を体現する編集人だった。美容業界誌の編集に長く携わった後、2003年、横浜東口のオフィスビルの一隅に自身のオフィス「蟻牙スピリッツ」(通称:蟻の巣)を設らえた。屋号に掲げた「蟻の牙」には、小さき者なれど世界と対峙せんとする強かでしなやかな矜持が示されていた。五十嵐さんは「蟻の一歩」と自嘲していたけれど、新しいものを楽しめる感性と、それでいて時代や権威に迎合しない「蟻の牙」は鋭く、深く、粋だった。

 やがて五十嵐さんは有志の美容師を集めて私塾を開いた。私はその一期生だった。
 月一回、7〜8名も集えば身動きも不自由なほどの「蟻の巣」で行われたのは、デザインに潜む多層な対比構造をマネージするための座学だった。たとえば内面の“きちんと感”と外面の“こなれ感”、そうした対比の効いたカッコ良さが美容師に求められているのだよ、その対比構造の感覚こそが「粋」と呼ばれる美意識の核なのだよ、と。

 五十嵐さんの言う「粋」は九鬼周造の『「いき」の構造』(岩波書店、1930年初版)にインスパイアされていた。
 独仏に遊学した九鬼は、母国日本の「粋」という概念を西欧語の「chic」(上品)や「raffine」(洗練)や「coquet」(媚態)などといった語と照合させながら考察した。
 たとえば西洋の「ダンディズム」は英雄主義の残り香の中で男性に限って適用されるのに対して、「粋」は同じ英雄主義的な武士道をまとっているものの、仏教的世界観を取り込みながら、苦界に身を沈めているか弱い女性によってまでも呼吸されている。とすれば、「粋(いき)」とは身分や性差を越えてわが民族に独自な「生き」かたであり「意気」なのではあるまいか、と。

 こうした美意識が日本文化独自の実存的な感覚なのだとしたら、それは言語翻訳のみでは徴表し尽くせない。類似の概念を西洋文化に求めたところで、内容を異にした個々の匂があるのみである。客観的表現を急ぐ前に、主観的体験を先ず会得するべきなのである。九鬼はそう考えた。
 和魂を洋才に寄せて理解を求めるばかりでは、民族的特殊性についての解釈学などは成り立たないのだ。

 かくして九鬼は日本的美意識のユニークネスを「上品」「下品」「派手」「地味」「意気」「野暮」「甘味」「渋味」の八趣味に分節し、直六面体の頂点へ鮮やかに配置して立体的な陰影を描出したのだ。この和魂に洋才をインタースコアさせる編集感覚は、何よりも「粋」な手筋だったと言えるだろう

さび:〔O・上品・地味〕のつくる三角形と〔P・意気・渋味〕のつくる三角形を両端面とした三角柱
:〔上品・地味・渋味〕のつくる三角形を底面とし〔O〕を頂点とする四面体
:〔甘味・意気・渋味〕のつくる三角形を底面とし〔下品〕を頂点とする四面体
きざ:〔派手・下品〕を結ぶ直線上
:〔O・P〕を軸として交差する二つの対角面上

「いき」の構造(九鬼周造/岩波文庫)より


■モダン軸とエロス軸

 とはいえ九鬼が構造的に描出した「粋」の概念は、21世紀に生きる私たちにとってはやや古風でドメスティックな感覚にみえることは否めない。そこで五十嵐さんは美容ジャーナリストとしての視点を九鬼マトリクスに重畳させて、「粋」の概念のアップデートを試みた。

 五十嵐さんはこんなふうに考えた。
 伝統的な女性の一生は、無垢で清らかな少女時代(=清)から始まり、華やかな女盛り(=華)を経過して、品性を備えながら熟して行く(=品)。この規範的とも言えるクラシックなタイムラインを、「」と漢字一文字に象徴させながら三間連結として描出し、まずは仮置きしておく。
 ついで、女性の社会進出に象徴されるような現代的価値観を体現するタイムラインを、鮮烈な新奇(=新)さから洗練された知性(=知)への成熟と捉え、その過程で往来する多様な美意識の発動に「」というラベリングを与えることにした。
 ここで重要なことは、「粋」を「新 → 粋 → 知」とリニアな三間連結のなかに定位するのではなく、非線形で動的な成長プロセスを想定したことである。すなわち「粋」とは、過剰を抑制する知的なセンスであり、既成の価値観を逆転させるイノベーティブなモードであり、「」を媒介する編集装置なのである。

 こうした次第を五十嵐さんは「モダン軸」と「エロス軸」による直交座標型二軸四方にマッピングして、「粋」の持つダイナミックな揺らぎや佇まいをも座標軸の上にトレースしてみせた。

『美意識の芽』(五十嵐郁雄、GIGA SPIRIT)より

モダン軸(ヨコ軸):時代に対する姿勢。従来からある価値観を大切にするか、新時代の価値観を積極的に取り入れるか。
エロス軸(タテ軸):表現が抑制的か開放的か 

:夢が夢として可能性に満ちている。清純。ロマンティック。
:先例のないような斬新さ。前衛。キッチュ。ポストモダン。
:従来的な価値観の核心。エレガンス。女性的な華、男性的な力を体現する。
:先進性の体現。能力や合理性の極み。都会的な洗練。インテリジェンス。
:控えめで無難な価値意識。品格。伝統。シック。
:個に重きを置きながら本質を極めようとする価値観。モダンの側のエレガンス。

※「清」(ロマンティック)については、
その体現者が現代では絶滅していると五十嵐は考え、マトリクスからは除外された。

 五十嵐マトリクスについて特筆しておかなくてはならないのは、座標上に布置された全ての概念が動的なベクトルを保持していることである。マトリクスからは、時代の流れにともなって変遷する「時代の気分」や、その背後ではたらく「流行の力学」なども読み取ることができるのだ。
 たとえば20世紀初頭以降の「時代の気分」を支配した価値意識の変遷について、蟻の巣セミナーでの講義を採録したメモを以下にキーノートしておくので参考にされたい。

20世紀の価値意識は、上図マトリクスの左下の象限を起点として、先ずは右上の象限へ向かい、次いで"8の字"を描くように左上へ回帰する軌跡で変遷してきた。

(1)20世紀初頭(華から知へ)
前世紀の産業革命が起爆剤となって「」から「」へ向かおうとした。「アールヌーボー」→「アールデコ」に象徴されるように、あらゆる製品生産の場は工房から工場へ移り、モノもコトも重厚長大から軽薄短小へと錬磨されて行った。この流れはミッドセンチュリーを迎えて尚加速し、科学技術の進歩と経済の拡大に乗って、誰もが明るくポジティブな未来像を描いた。高度成長の時代。「1964東京五輪」はこのフェイズ。

(2)20世紀後半(知から品へ)
環境汚染やオイルショッック、東西冷戦による緊張などから、過剰な進歩への反動として時代の空気は「」から「」へ向かう。一億総中流時代。SF映画などで描かれる未来像が、明るく希望に満ちた進歩主義から退廃的で陰を帯びたものへ変容し始めたのはこのフェイズ。

(3)20世紀末(品から新へ)
さらに共産圏の崩壊やバブル崩壊を経て、世紀をまたぎつつ時代の気分は「」から「」へ向かった。エスニックブームや、「カワイイ」に象徴される「キッチュ」への指向はこのフェイズで説明できるだろう。多様性を手がかりに、硬直した時代をブレイクスルーしようとするベクトル。

(4)21世紀初頭(新から華へ)
21世紀のスタートは911と311によって風向きが変わり、「」から再び「」へ戻ろうとしているように見える。「2020東京五輪」はこの保守化の流れにおいて準備されようとしている。

(五十嵐さんの講義を元に筆者が構成)

 私たち一人一人が個々に抱いている美意識は、常に「時代の気分」や「流行の力学」のなかで文字通り漂流しているのである。そして美意識には時代ごとに主流と傍流があって、「粋」はそのどちらからも浮遊しながら両者の境界線上を抜き差しするように息づいている。


■貴族と帰属

 ここで『ブランドの世紀』(山田登世子、マガジンハウス)を手すりに、ファッション史を駆け足で振り返りながら時代や社会の潮流を点検してみよう。

 古くから人の装いは、その衣装を纏う者の地位を象徴する機能を果たしてきた。とりわけ中世までは「モード」といえば貴族階級の特権的な専有物で、貴族と庶民は外面的な装いによって厳密に区分けされ、ルール(規範)やスタンダード(標準)が求められてきた。その意味で「モード」にはきわめて政治的な思惑が込められており、こうした事情について英ヴィクトリア朝の歴史学者トマス・カーライルは「社会は衣服(≒モード)の上に建設されてきた」と評している。
 こうしたルールが初めて劇的に撤廃されたキッカケは産業革命だった。平民でありながら経済力と名誉意識を持つ市民階級があらわれたことで、服装の制限はとりはらわれ、モードは市民社会の「自由」を象徴する生活流儀となって行った。

 ところが、ファッションの自由化はむしろ19世紀市民の服装を均質化させることになった。男性の間に「ダンディズム」という美意識が興って、人目に立たない服装が好まれ、制服のように非個性的な装いがモードになった。

 このとき働いた力学は、"貴族"から市民への政権交代である。市民社会の謳歌を勝ち取った成功者たちは、あらたな特権階級を表象させるモードを作り出し、その流行へ"帰属"することを積極的に求めたのである。
 貴族願望と帰属本能。おそらく世界は今も昔も、この2つの"キゾク"によって廻っているのではないだろうか。人は誰しも他者から承認して欲しいと願うし、できれば他者よりも優位な地位に属すことを望む。それは自尊心を満たす反面、争いや差別を助長するだろう。共感と疎外とは表裏一体であることを、私たちは心に留めておかなくてはならない。

"どんなに美の基準が変わったとしても、その理想像が全否定されることはない。
コントラスト表現は、理想的な快適を意識させるための裏返しの表現なのだ。"
美意識の芽(五十嵐郁雄/GIGA SPIRIT)より

 さてダンディズムの流行の裏側で、女性たちは、男性に保護される家族としてその富を家長に代わって「代行消費」するようになって行った。
 そして「消費」を目的とする価値意識として「新しさ」という要素が一層耳目を集めることになり、流行の周期は加速し、多様なモードが次々に消費されていくことになったのだ。


■中心と周縁

 かくして20世紀は「モードの世紀」となった。パリを中心としたオートクチュールのシステムが確立されると、雑誌やテレビなどの新興メディアの隆盛も手伝って、「モード」は企業による経済流通支配の先鞭となって世界の津々浦々へと伝播されて行く。

 こうした巨大な産業複合体が「モード」を生産する様子は映画『プラダを着た悪魔』などにも描かれている。ファッションの今日的消費者たちは、かつての新興市民が貴族の装いを手本としたように、メディアから送り込まれる情報に目を凝らしては「模倣」という水流のたえまない流れに身を任せているのだ。つまり事程左様に「モード」や「流行」はその出自に中央集権的な事情を孕んでおり、その玉座には「幸福の理想像」とも呼ぶべき金殿玉楼がそびえていることを看過してはならない。

 こうしたモードのメインストリームに対して放射状に対比概念を展開させた周縁に、21世紀の「粋」は息づいている。
 ただし「粋」の生息域は、決して主流に対しての傍流にあるのではない。マジョリティに対抗するマイノリティということでもない。価値の多様さとは、中心が想定された規範や標準によって語られるべきではないのだ。
 「粋」とは、既存の意味や価値を再解釈するモードであり、別様の可能性のプレゼンテーションであり、よくよく練られた逸脱へのディレクションなのである。

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