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情報代謝と価値の流通|髪棚の三冊 vol.3
『エンデの遺言』(河邑厚徳+グループ現代、NHK出版)
『ブロックチェーン・レボリューション』(ドン・タプスコット+アレックス・タプスコット/ダイヤモンド社 )
『クラブとサロン』(NTT出版)
■ヒトの生む価値
私が「地域通貨」の実践を初めて取材したのは、まだSNSのようなニューロネットワーク型メディアがブレイクする前夜、2007年のことだった。
当時私はタウン誌やローカルFM等のメディアを借りて、サロンに出入りする「人が運ぶ物語」に注目したドキュメンタリー風の情報発信を試みていた。もちろんサロンのブランディングを意識したプロジェクトではあったけれど、経済的なリターンを期待した宣伝戦略の一環というよりは、人と人との交流によって織りなされるセレンディップな価値を時代や社会のなかで描出しようと考えていた。
思えば21世紀初頭の2つのディケイドは、"等身大のセンス"と"拡張するイメージ"との相克だった。もちろん「感性」と「想像」は一繋がりに動くものなのだが、テクノロジーの進展はこれらの連関を必ずしも充実させる方向へ運んではいないように見える。
美容業界全体を思えば、商品販売を通した「モノがもたらす恩恵」は重要なファクターなのだが、サロンの現場ではモノの流通以上に「ヒトの生む価値」こそが優先されるべきであるのは言うまでもない。けれどファッションというものは、どうしたって"ヒトの営みや振る舞い"よりも"モノの流行や興亡"へ意識のカーソルが向かいやすい。美容業を「商売」と割り切るならそれで構わないのだろうけれど、それでは「ヒトの暮らし」をデザインすることには届かない。美容師は、せめてモノとヒトを等距離で俯瞰する視線を常備しておきたい。
さて日本で「地域通貨」なる概念が広まるキッカケとなったのは『エンデの遺言』(1999年/NHK)だった。念のため注釈しておくと、エンデとは映画『ネバーエンディング・ストーリー』や『モモ』の原作を書いたファンタジー作家ミヒャエル・エンデのことである。いわば「ドイツの宮崎駿」と言えばイメージしやすいだろうか。
エンデは物語の力を借りて、今はまだ目に見えないけれど将来直面するであろう人類の危機を問うた。「危機」と言っても核戦争による人類滅亡のようなハリウッド的終末論ではなく、先進工業国が当たり前に享受している生産と消費を「成長の強制」だと痛罵し、資本主義社会を支える金融構造に異議を申し立てた。
現代における通貨には1)交換の媒体、2)価値の尺度、3)価値の保存、4)投機的利益の道具、5)支配の道具、などの機能が混在している。これをエンデは「例えばパン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金は、二つの異なった種類のお金である」と喝破した。
お金自体が商品として売買されると、その価値はグロテスクに自己増殖して行く。いったいその価値はいつ、どこで、誰が担保しているのか?これは何かの犠牲を伴う黒魔術である。このままお金を求め、使い続けるのなら、やがて人間は自然から手酷いしっぺ返しを受けるだろう、と。
エンデのこのラストメッセージがNHKによって報道されるや、各地で「地域通貨」「老化するお金」といった考え方に基づく実践的な試みが雨後の筍のように萌芽して行った。
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湘南茅ヶ崎エリアの有志によって運営されている地域通貨「ビーチマネー」は、地域の環境美化のための労働奉仕を経済的な価値の創出と結びつけるエコロジカルな取り組みだ。海岸清掃の折にゴミに紛れて拾われる七色のビーチグラスを、地域に呼びかけて協力店を募って割引クーポンのような機能を持たせている。ローカルサーファーの堀直也くんが、海と人と店を繋ぐために尽力した。
ビーチマネーは、ビーチクリーンを通して地域内の交流を活性しようとする、いわば「エコロジー啓蒙キャンペーン」だ。通貨としては、流通規模が限定されていることもあって脆弱であることは否めない。だが、エンデの言う「黒魔術」とは逆方向へのベクトルを模索しようとする点でユニークな試みである。
何しろ原資となるビーチグラスは、我々の資本主義社会が廃棄したゴミである。金や石油やダイヤモンドのように自然界の希少資源を消耗させることはないし、いつか海岸廃棄物が一掃されれば新規の通貨発行は停止されるからインフレも起こらない。何よりも「Think globally, act locally」を実践しようとする営為そのものが「ヒトの生む価値」に他ならない。
ただし、湘南のビーチマネーがささやかながらも付加価値を生んでいるのは、そこに投機的な利益を見込める金融市場があるからではない。「海岸清掃に奉仕してくれてご苦労さま」という純粋なねぎらいの想いを、共同体のなかで分散しながら共有しているからである。
問題は、こうした「ヒトの生む価値」がしばしば「ヒトの求める価値」とすれ違うことである。
人間の営みは誰にとってもどんな場面でも絶対的に尊いのだが、その尊さを資本価値として相対的に計上するのは難しい。仮にヒトの営為の尊さを客観的な指標に基づいて定量スコアしたとしても、この社会は“明日の価値”よりも“今日の成果”を評価するだろう。
その点、ビーチマネーが媒介している価値は、商品やサービスなど定量的に値付けされるような資本価値ではなく、人によって判断基準の異なるようなナイーブで不定形な定性的価値なのだ。こうした「ヒトの生む価値」は、多くの場合、定性的であるがゆえに、何らかのかたちで定量スコアへ変換しない限り「ヒトの求める価値」として広く共有されにくい。そして多くの者は、7世代先の不確かな未来へ投資するより、目の前の生活の安定や向上を優先するだろう。
つまり地域通貨とは、豊かで多様な定性的価値を定量的にスコアリングすることによって再評価しようとする試みなのである。そもそも値付けできないものを数値化して測ろうとするのだから、その実践には非常に困難な作業が伴う。
それゆえ技術的にも概念的にも、こうしたスコアリング問題への回答が「次世代の通貨」には求められている。
■価値の測り方
次世代通貨についての技術的なマスタープランは、2008年、サトシ・ナカモトを名乗る謎の人物(もしくはグループ)によって唐突に提出された。サトシが発表した論文には「ビットコイン」と呼ばれる暗号通貨を使った分散台帳技術についての仕様が書かれていた。
この技術の最も革新的な点は、通貨の発行や管理に国家や公的な機関が一切関与しないことだ。中心となるデータベースは存在せず、全てがネットワーク上に分散され稼働しているので、誰もがデータの正しさを逐一検証することができる。暗号通貨の取引データは一定時間ごとにブロックとなって鎖のように繋がって記録されて行くので、このシステムには「ブロックチェーン」という名が与えられた。
たとえ悪意ある者がハッキングを試みたところで、チェーンを過去へ遡って全てのブロックを改ざんすることは不可能だ。しかもシステムへ連なろうとする者が多いほどデータ全体の複雑度が増すので、システム全体のセキュリティはますます強化される仕掛けになっている。
本稿ではブロックチェーンについての詳細な解説までは踏み込まないが、期待される可能性をいくつか順不同でかいつまんでおく。
一つは、言わずもがなだが次世代通貨ツールとしての完璧な適性である。暗号通貨の普及は、商取引のためのコスト、契約にまつわるリスクマネジメント、財についての完全なトレーサビリティ、透明かつ迅速なコーポレート・ガバナンス等、あらゆる面で経済効率を劇的に向上させるだろう。
さらには、記録されたデータの信頼性をネットワーク自体が保証するため、第三者による信用保証が不要になる。これについては社会的な法整備を待たねばならないものの、本人確認のための照会手続き一切を各個人が自身で管理する権利を尊重されるようになるとすれば、その衝撃はどう控えめに見積もっても国家や社会の仕組みを根底から更新させるほどの破壊力を秘めている。
つまりブロックチェーンのポテンシャルが余すところなく解放された時、私たちは望むなら、自身の存在証明も、世界のあらゆる事物についての価値評価も、全て自らの手でコントロール可能な社会を構築できるのだ。
とすれば当然ながら、ネットワークに参加するユーザー一人一人の意識やリテラシーが問われることになる。
しかしながら、現在の為替市場において投機目的での取引は8割と見込まれていることから、暗号通貨への参入動機もこれに近い状況であると察っせられる。そうだとすれば、残念ながら暗号通貨も相変わらず自己増殖を目論んだ黒魔術に冒されるばかりだろう。テクノロジーがアップデートされてもそれを利用する者の意識が前世紀のままなのだ。
欲望に翻弄される性は人間として仕方がないとしても、せめて私たちは様々に行き交う情報の価値を評価するためのリテラシーを養うことが求められているのではないだろうか。
■情報リテラシーの作法
「情報リテラシー」の必要性は、映像作家の鎌仲ひとみさんに諭された。鎌仲さんはNHK『エンデの遺言』の制作スタッフの一人で、その後も一貫してドキュメンタリー畑で映像作品を精力的に世に放ち続けている。
2008年、私は東京工科大学の研究室に鎌仲さんを訪ねてお話しを伺ったことがある。当時鎌仲さんは、ドキュメンタリーの手法とともに「メディアリテラシー」について学生たちに教授していた。私が制作するFM番組のためのインタビュー取材だった。そのアーカイブから一部を下に紹介したい。
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___メディアリテラシーを養う教育とはどういうものなのでしょう?
鎌仲:
それはいろいろあるのですが、人から何かを言われた時にそれをキチンと聞いて自分の中で咀嚼して、それについて自分の意見を言える人間になる、ということがメディアリテラシーの基本なんです。思考を深めるスキルを身につけるということです。
___ということはマスメディアに対してというだけでなく、人と人との関係性についてのことでもありますね。
鎌仲:
そうです。コミュニケーション能力がすごく必要です。その力を養うには、発信する立場に立てばすぐ分かるんです。
例えばブログを書いたら、ヒット数を多くしようといろいろな工夫がある訳です。キャッチーにしたり、明るく華やかにしたり、人を惹きつけるいろいろな方法がありますよね。
作る側に立って初めて、必ずしもすべて公平でフェアな形で情報が出されているのではないと分かってくる訳です。
___大学ではどんなアプローチで講義されているのでしょうか。
鎌仲:
一番大事なのは第一次情報。直接自分が取材をするということなんです。 実体験はメディアではないんです。その人だけの経験だからその人のものになるんですよ。
でも自分が実体験をして、そのことを人に伝えようとした時にどうでしょうか? 主観が入らないか? 絶対入りますよ。だから「客観報道が在る」という思い込みを、先ず打ち砕かないといけないんです。客観報道なんてあり得ませんよ。主観報道を客観的にやっているだけです。(笑)
自分も相対化して見ることができるようになるのが最終目標ですね。
___誰もが受け手であり、送り手でもある。
鎌仲:
発信してるんですよ、人間は。それを見て読み込むことをやっているんです。「今日の上司の雰囲気は?」とか、体全体で発信されているものがありますからね。「あ、今日はマズそう」とかね。(笑)
このインタビューの後、時代は空前のSNSブームを迎えたのだが、「誰もが情報発信の主体となり得ることで培われる筈」と期待された情報リテラシーの醸成は、残念ながらまったく追い着いていないように見える。多様な価値を評価するはずのネットワークは多数性に侵食されるか、然もなくばフィルターバブルのクラスターに分断されるばかりだ。
21世紀に生きる私たちに求められるリテラシーは、大量かつ雑多な情報を取捨選択するだけでは不十分だ。たんに情報を情報として消費するのではなく、食物から栄養素を血や肉へ代謝させるような能力が求められている。そのいわば「情報代謝力」と呼ぶべき能力こそが、すなわち情報リテラシーとして求められている。
■情報から価値を生む
古代中国、斉の宣王は王都の稷門に学識豊かな者を集めて住まわせ、大いに学問を奨励したという。そこでは多様多彩な思想や学問が触発しあい、誘発され、創出されて行った。これがいわゆる諸子百家の爛熟で、孔子、孟子、墨子らカリスマ思想家たちが次々に登場し、彼ら百家の争鳴は今も私たちに大きく残響し続けている。
このように高度な情報交換によって新たな価値観が創発される状況は、現代のネットワーク社会を先駆する姿と見ることができるだろう。
何であれ独自の情報価値が生まれる際には、そこに何らかの「好み」が関与する。それはときにフェチや偏愛と呼ばれるものかも知れない。「数寄」の発生である。
ただしこのとき、情報ネットワークにはハブ機能を担う存在が求められる。人が何かを偏愛し、その数寄を交換し合う場として用意されたのが「西のコーヒーハウス・東の茶室」だった。そこでは人が集い交わり結び合う場が用意され、数寄の醸成装置としての機能を担ったのだ。
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◆向かって右上の唐物が陳列された室では闘茶、連歌が催されようとしている。庭には盆栽が飾られ、左方の室で立てられた茶が運ばれる。◆人と人が一所に集うことは、それだけで一世に一回かぎりの出来事である。場に臨む客人としての心構えを、茶の湯では「一座の建立」にあると説いている。またそのときの会話は「世間の雑談(ぞうだん)」などの俗は野暮だから避けるようにと戒める。
社会学者F・L・K・シューの定義によれば、ある目的に従って意識的につくられた集まりは全て「クラブ」と呼ぶのだという。
今日的なクラブ文化の原型である18世紀イギリスのコーヒーハウスは、金さえ出せば誰でも自由に出入りできる場だったが、やがて特権的な選良性を極める方向へ向かって、独自のクラブ空間を構築するようになって行った。
クラブとは、共同体とその外部の境界において結社されるコミュニティだ。ここでいう共同体とはそれ自体の自己保存を目的にした構造のことで、いわば「身内」と言い換えられる。ジェンダーの観点から言えば、このウチとソトを往来するのは伝統的に男性の役割だった。それゆえイギリスのコーヒーハウスが家庭と職場の中間領域である街頭において発生し、しかも女人禁制だったことは象徴的である。
一方、フランス発の「サロン」は貴婦人のリュエル(寝室)から始まった。
17世紀初頭、二十歳を過ぎたばかりのランブィエ侯爵夫人カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌは出産後の体調不良を理由に宮廷を引退し、自宅にサロンを開いた。ランヴィエ邸には、宮廷人、文人、貴族、中産階級の人々が身分の上下にかかわりなく一私人として集い、互いに人柄を慕い合い、才を買われ、技能で評価され、純粋なヨコの友情関係で結ばれて行った。
こうしたサロン文化での知的な情報交換は思想を充実進展させ、18世紀には『百科全書』のような結実をみながら、やがて社会的政治的な行動をゆりおこすに至ったのだ。
クラブの多くは特権的で閉鎖的な傾向があるが、サロンは原則的には開放されている。だからサロンには客に対する主宰的価値観が動く。
つまりクラブ式に結社すれば排他的であるがゆえに数寄が際立ち、その数寄を醸成するように場を設えるならサロン風にホストの存在が求められるということだ。
ホストは一期一会に集う「客」と「時・場・事」の間に出入りして、エディティング・モデルの交わし合いを促進誘発させる役回りを担う。これはまさしく「師範代ロール」のプロトタイプと言えるだろう。編集学校の「教室」はサロンなのである。
ところで、明治日本が「クラブ」を「倶楽部」と翻訳したことは良くも悪くも日本的な社交感覚を誘った。倶に楽しむという当て字は、親睦や互助のニュアンスを過剰に想起させるのだ。畢竟、現代日本のコミュニティは数寄を極め、磨き、傾く(カブく)エッジへ向かうのではなく、ともすると同調圧力のベクトルへ流れる傾向があるのは否めないだろう。
この事態に輪をかけてSNSの隆盛である。巨大な「倶楽部社会」を指向するのではなく、多様で先鋭的な「クラブ」を多数出現させて、価値を相互に交換流通させるイメージを抱きたい。時を超え場を跨ぐことがますます容易になっていく社会のなかで、私たちは細分化された共依存コミュニティに引きこもるべきではないのである。
リアルに人が集う美容室が「サロン」と呼ばれることの意義は重大だ。私が美容師として抱く問題意識はここにある。
強靭な情報代謝力を鍛え、極化した数寄を媒介しながら、価値を創造し交換流通する作業がサロンワーカーには求められている。