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見知らぬものと出会う|髪棚の三冊 vol.4

見知らぬものと出会う(木村大治、東京大学出版会)2018年
機械カニバリズム(久保明教、講談社選書メチエ)2018年
〈弱いロボット〉の思考(岡田美智男、講談社現代新書)2017年

髪棚の三冊 vol.4
(※初出「遊刊エディスト」2020年3月の記事を再構成しました)


■想像できないことを想像する

 不気味なウイルスが世界を侵食している。しかもこれまでのところ、どうやら彼らの勢力拡大キャンペーンはまずまずの成果を上げているように見える。COVID-19は、厄介なことに人類に対して充分に高い適応力を持っているらしい。彼らはこのまま私たちの社会に定住してしまうのかも知れない。
 
 時系列は前後するが、人工知能研究企業のOpenAIは先頃、AIによる文章生成ツールのリリースの延期を発表した。開発責任者はその理由を「人類を愛することを教えられていない超高知能マシン」がもたらす潜在的脅威に備えるためだと語ったそうだ。マシンの生み出す価値が富の過剰な集中をもたらし、世界のあり様を変えてしまうことを危惧したのだという。

 ウイルスもAIも、その出自や知能の有無はさておき、人類に対する脅威の質は似通っている。
 まず第一に、彼らはわれわれを愛することを知らない。心の通じない相手が、必ずしも敵対的であるとは限らないが、互いにわかり合う関係を構築することは容易でない。
 第二に、彼らはわれわれの承知しない方法でわれわれの領土に地位を得ようとしている。しかも彼らは、われわれ自身が承知している以上にわれわれのことを知っているのだ。

 見知らぬもの、なんだかよくわからないもの、いまはまだ現れていないもの、まったくもって想定外のもの、われわれの認知や反応の速度や深度を超えた能力を潜在させるもの。
 もしも彼らが私たちの社会に定住しようとするなら、互いにコミュニケーションをとることは可能だろうか?

未知との遭遇の3パターン]◆他者と相互に関係しあうときには、上図のような二軸を想定する必要がある。◆横軸は相手に対してポジティブかどうか、即ち敵と味方を区別するメトリックであり、縦軸は、そもそも相手と相互行為しようとする意思があるかないかのアクシスである。◆たとえば、戦争状態にある当事者同士は「互いに敵対している」という枠組み自体は共有している。いわば、敵も味方も同じ穴のムジナなのだ。◆しかし人類にとってウイルスやAIは、互いに意思を疎通し合う関係にあるかどうか甚だ疑わしい。「わからん系」はこの象限にあるだろう。◆わからん系とは相互関係が成立しないので、敵味方について判断することができない。(『見知らぬものと出会う』木村大治/東京大学出版会 より)

 敵対的攻撃を防御するにせよ、友好的接触を受容するにせよ、相手の出方を想像して先回りすることは不可欠である。想像できないことを想像するための作法について、私たちは大急ぎで準備する必要に迫られている。


■世界は一つより多く、複数より少ない

 何であれモノゴトについての価値観や見解が異なる者どうしが関わり合う場面では、そのモノゴトについての認識の相違をあげつらうべきではない。

 たとえば霊感の強い友人に接するとき、私たちは霊が見えるかどうかはさておき、霊が存在する世界を彼/彼女が生きていることを受容している。
 ここで重要なことは、霊の存在の真偽ではなく、そもそもこの世界に何が存在するのかという世界観である。私の環世界に存在するものが、同じように他者の環世界にも存在する訳ではないのだ。

 私たちが生きている世界は一つではない。かといって、各々がそれぞれ全く異なる世界を生きているわけでもない。そしてまた、世界の全体像を俯瞰して観察することは誰にもできない。
 世界のこうした様相を、人類学者のマリリン・ストラザーンは「世界は一つよりは多く、複数よりは少ない」と評している。この世界は、この世界について異なる見解をもつ者同士が、統一的な基準のないまま関わり合い、共存しながら部分的に繋がっているのだ。(『機械カニバリズム』久保明教/講談社選書メチエ)

◆バスケットボールでは、片方の足を床から離さず、もう片方の足を自由に動かしてパスの方向を探す。この動かさない足をピボットフット、動かす足をフリーフットと呼ぶ。◆人が想像の翼を広げるときにも、何らかのピボットを経由して既知と未知とが橋渡しされている。◆またこのことは、新しい冒険はピボットからしか出発できないことを示している。
(『見知らぬものと出会う』木村大治/東京大学出版会 より)

 他者や異者と接続する、あるいは語り難いものについて語るとき、私たちは不可知の「壁」に支持点(ピボット)となるような「窓」を仮設する。そして、その窓越しにムコウを覗くようにして、既知からの視線の延長線上に未知を想像する。
 つまり、未知へのアクセスには、ピボットの置かれ方が大きく影響するばかりでなく、既存の知識や経験による投射を避けることができないのだ。

 価値や文化の多様とは、独立したフィルターバブルの集合ではなく、ユニークネスが多重に連鎖する曼陀羅と見るべきなのである。そして、ハイゼンベルクが不確定性原理で示したように、世界を記述しようとする者は世界に参加することから逃れらない。


■美意識は怖がらない

 人はなぜ怖がるのか。

 一般に感情のたかぶりは思考にネガティブな影響をもたらすとみなされることが多いが、神経科学者のアントニオ・R・ダマシオは、「情動」や「感情」はむしろ合理的な思考にポジティブな影響をもたらし得ると論じている。
 たとえば「夜道を歩いているときに感じる不安」のようなネガティブな感情は、一次的には心臓の高鳴りや筋肉の緊張といった身体反応として表れる。この身体反応を、ダマシオは「ソマティック・マーカー」と名づけた。このソマティック・マーカーが危険信号として機能することによって、人は危険を回避し、他の行動オプションを選択するように促されるのだ。反対に、ポジティブなソマティック・マーカーが起動する場面では、人はその信号に誘われるようにして行動へ導かれる。

 こうした身体反応による察知力について、棋界の第一人者である羽生善治は「筋の良い手に美しさを感じられるかどうか」と述べている。
 勝負の現場では、可能性のある指手を総当たりで探索していては間に合わない。流れの中で瞬時に適切な「読み」を限られた範囲に絞り込むことが将棋の強さに関わるのだ。そうした指手のオプションを取捨選択する際に核となる身体感覚を、羽生は「美意識」と表現しているのである。

 さて、現在のデジタル技術は「情報を探索する」ための技術から「情報を評価する」ための技術となりつつある。
 ソフトウェアは、手本となる正解例を与えればパターン抽出の精度を上げる。このとき機械は、人間が与えた手本を人間には理解できない方法で模倣し、評価関数を自動調整して行く。そしてソフトウェアは人間のやり方とは異なる文脈で「美意識」を培い、機械の構築した美意識によって評価された情報を、人間は自分たちのクォリティ・オブ・ライフを向上させるリソースにしようとしているのである。

 羽生が極限の状況下での判断基準を美意識と呼ぶように、何であれプロフェッショナルな者には不安や恐怖、疲労や欲求、諦念や興奮といった情動を制御することが求められる。その点を強調するなら、身体感覚を持たない機械はプロフェッショナルとしての完璧な資質を有しているとも言えるだろう。なにしろ機械は疲れを知らず、怖がりもせず、諦めることなく、何かを勝ち取ろうとする欲望すらないのだから。

 ただしここで忘れてはならないことがある。機械やウイルスが「怖がらない」のは、怖さを克服して情動を制御する能力を獲得したわけではなく、そもそも感情や情動に関する機能や反応回路を持たないからなのである。だが、もしも彼らのふるまいに、あたかも自律的に情動を制御する能力のようなものを見出すことが出来るとしたら、彼らも何らかソマティック・マーカーに相当する機能を有していると想像せざるを得ないだろう。

 つまり私たちは、機械やウイルスには「ない」はずの美意識を仮想することによって、彼らのなかに「怖がらない」という資質を見出そうとしているのである。だから私たちは機械を頼りにもするし、ウイルスを怖がりもするのだ。

「他者」とは、「他」でありながら、自分と同じ「者」でもあるという、二重性を帯びた存在なのである。

(『見知らぬものと出会う』木村大治/東京大学出版会)

 人間の想像力は、想像できないものですら「否定形のアナロジー」によって想像し得るものへと変換して行く。だとすれば、私たちは、既に、「見知らぬもの」との新たな関係を構築し始めていると言えるだろう。


■「0.5人称の私」とN次創作

 この世界のなかで否応なく他者と共存している私たちは、誰一人として独立した傍観者になることは許されていない。
 このことは、他者の視点を通じて自らを構成しなければオリジナリティを確立できないことを意味している(『機械カニバリズム』久保明教/講談社選書メチエ)。

 たとえばネットコミュニティにおける発話は、書き手である「私」の意図とは異なる複数の文脈へと流出していく。このとき、ネットワーク上へ拡散された「私」は、より多くの読み手と接続されるチャンスを得ることと引き換えに、書き手でありながらどのように「私」を受容してもらいたいかを制御する権限を失う。
 断片化された「私」の存在は、非自律的であるからこそ他者との接続可能性を増大させ、タグとして可視化されることで無数の文脈を横断し得るのである。
 このようにネットワーク上へ積極的に主体性を置く創作様式は「N次創作」と呼ばれる。作家たる「私」は、自律的で完結した自己を主張するのではなく、他者との新たな繋がりを発生させる力によって存在を評価されるのだ。
 いわば、ネット上で発信する「私」とは「0.5人称の私」であり、未知の他者に受容されることによって「一人称の私」が発掘されて行く。

 こうした多層多重な相互編集は、現代のITテクノロジーによって今あらためて可視化されているのだが、そもそも私たちのコミュニケーションはN次の相互行為そのものなのである。
 相互関係を構築するための第一歩は、自らの状況を相手から参照可能な状態に表示しておくことである。そして、相手から向けられる視線に自らの視線を重ねながら、互いに互いの気持ちを探り合う。
 私たちの日常的な会話をみても、はじめに言葉を繰り出そうとした瞬間には、まだそこで伝えたいメッセージは完成されていないことがほとんどだろう。とりあえず言葉を繰り出すなかで、その意味や価値がおぼろげに見えてくるのだ。相互編集は、互いに行為を繰り出すことによって進展するのである。

相互行為から生きた「意味」を生み出すには、自分の不完全さや不完結さの一部を相手に委ね、一緒に意味や価値を生み出すというオープンなスタンスが必要なのだ。

(『〈弱いロボット〉の思考』岡田美智男/講談社現代新書)

 こうした相互行為論は、COVID-19のような差し迫った領土侵犯に対して有効な視点をもたらすことはないかも知れない。けれど、不足や欠落といった〈弱さ〉こそが自他の彼岸を橋渡しするのだとしたら、そこには私たちを一歩先の未来へ導くような編集可能性を見出せるのではないだろうか。

 現代社会に暮らす私たちは、何であれ利便性を志向したデザインやサービスに満たされている。それらは疲れることを知らず、怖がることもなく、黙々と働くことを期待され、私たちはその利便性とのトレードオフとして、恩恵を「提供する者」とそれを「消費する者」という非対称な関係が社会に溢れることを甘受している。
 その一方で、機能を削ぎ落としたチープなデザインが、むしろ人と機械のリッチな関係性を引き出してしまうことは刮目すべき行為方略と言えるだろう。自らの〈弱さ〉を積極的に受容するデザインは、周囲の参加や解釈を引き出す「余白」の編集なのである。

 いま自分はどんな状態にあって、どこへ進もうとしているのか。「私」という情報は、一人きりでは意味や価値を開いていくことができない。
 私たちは、「他者」との関わりを手がかりに自分の存在の質や意味を探り、自らの不完全さや不完結さを克服して行くべきなのだろう。

ロボットなのに人の助けを求める「ゴミ箱ロボット」
◆岡田美智男の開発する弱いロボットは、不完全だけれど、なんだかかわいい。周囲の者が思わず手助けしてしまう他力本願な方略なのである。◆〈ゴミ箱ロボット〉は、ランドリーバスケットにホイールとセンサーが取り付けられており、よたよたと歩いたりペコリとお辞儀をしたりはするが、自らゴミを拾う機能はない。◆不完全なロボットのたどたどしく貧弱なデザインは、私たちの手助けを引き出したり、相互行為を誘発する「余地」を残している。

〈弱さ〉をちからに! してしまうロボットたち

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