結局、ユダヤ教にも手を出さないといけなくなっちゃうでしょう。
ギリシア神話とキリスト教の触れ合い
昨日話したようにキリスト教では神様のことをdzeusっていうようです。ギリシア神話のゼウスとキリスト教の神様は異なるわけですが、同じ名前になっているのはどうしてなんだろう。と思うんですね。
キリスト教は紀元前になかったことは、自明なわけですが、もともとユダヤ教の一派で、神様は同じものなので、人はいつユダヤ教の神様を認識したのか、というところが気になったので、さかのぼってみました。
旧約聖書は、これまでちょっとだけのぞいたことはあり、ただの伝説ではなくて、結構歴史的な事実であることは薄々感じていましたが、なかなか突き合わせてみることがありませんでしたが、このたび、三日月地帯の歴史をちょこちょこ見る機会があったのでそれをベースにみかえしてみました。
いつのことかわからないものの、最初はメソポタミアにいた人が、西の方に移住したのがはじまりみたいです。
時代的には青銅器時代です。
その後、エジプトへ移動したいきさつは、
とありますが、エジプトの歴史を見てみると、
に相当するのではないかと思います。
エジプト脱出については
このとき、追い出されたのかなあとも思えるのですが、
からするとすこし時期が異なっています。
さて、このころギリシアはというと、ちょうどエジプトへ入った頃ミケーネ文明がはじまり、遅い説で見ると、エジプトを脱出するころ海の民の侵入によってミケーネ文明は終焉をむかえている。トロイ戦争もちょうどこのころである。
ペリシテ人は紀元前13世紀から紀元前12世紀にかけて地中海東部地域に来襲した「海の民」と呼ばれる諸集団を構成した人々の一部であり、エーゲ海域とギリシャのミケーネ文明を担った人々に起源を持つと考えられている。
イスラエル王国ができたころ、ギリシアは暗黒時代で、このころ青銅器時代から鉄器時代へ移行する。海の民が去った後ギリシアにはドーリア人が南下し、ギリシア神話を受け継ぎ、紀元前8世紀には文字として残し始めてた。
このときには、すでにゼウスがいた。
ギリシアではこのころペルシアに勝利してアテネをはじめあちこちで神殿がたてられている。
その後アテネはマケドニア王国の支配下にはいるとともに、アレクサンドロス3世によって、小アジア、パレスチナ、エジプトには、ギリシアの文化がひろがってゆく。また、このとき、マケドニア王国はユダヤ教徒触れ合うことになったのでしょう。
ローマの始まりは、エーゲ文明を担ったトロイの人たちだったので、ローマ神話にギリシア神話の影響が色濃く残っているのかな。
ローマは、マケドニア王国と何度も戦い、最終的にギリシアをローマ帝国の傘下におさめた。ローマ帝国内で、キリスト教は起こり、300年後にキリスト教が公認され、ギリシア神話の信仰はなくなった。
旧約聖書の現本
旧約聖書といっている時点でユダヤ教ではないんですが、そこはおいといて、
『旧約聖書』は原則としてヘブライ語で記載され、一部にアラム語で記載されている。
ユダヤ教では、ユダヤ戦争後にユダヤ教を再編した1世紀の終わりごろのヤムニア会議で正典が確認された。このヘブライ語本文を、8世紀以降、マソラ学者が母音記号等を加えて編集したものがマソラ本文で、全24書である。現在のところ、これを印刷体で出版したBHS(Biblia Hebraica Stuttgartensia、1967/1977年の略)が最も標準的なテキストとして利用されている。
紀元前250年頃からギリシア語に翻訳された七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)があるが、現代残されている複数の写本はその数が一致しているわけではない。パウロを含めたキリスト教徒が日常的に用い、新約聖書に引用されているのも主としてこのギリシア語の七十人訳であり、キリスト教は伝統的にこれを正典として扱ってきた。マソラ本文と七十人訳聖書では構成と配列が異なる。
旧約聖書の構成
天地創造と部族長の物語
神が7日間で世界を創り、楽園に男と女(アダムとイブ)を住まわせた。
彼らが蛇の誘惑によって禁忌を犯したので楽園を追放された。
最初の殺人であるカインとアベルの兄弟の話、ノアの箱舟、バベルの塔。
アブラハム・イサク・ヤコブの3代の族長の物語。
アブラハムはバビロニアから出発して、カナンにやってきた遊牧民の族長。
神から祝福を受け諸民族の父になるという約束を与えられた。
イサクはアブラハムの息子であり、彼にも子孫が栄える旨が神から約束されている。
ヤコブはイサクの息子で、彼と契約を結んだ神はヤコブとその子孫にカナンの土地を与えると約束している。ヤコブはこの契約でイスラエルと改名し、彼の子孫はイスラエル人と呼ばれるようになった。
ヤコブは12人の男子および数人の女子をもうけたが、男子それぞれがイスラエル十二氏族の長とされている。つまりヤコブがイスラエル/ユダヤ人の始祖である。
続けてヤコブの末子のヨセフの物語が記されている。兄たちに殺されかけてエジプトに奴隷として売り飛ばされながら、夢占いと実力で立身出世してエジプトの宰相にまで登りつめ、飢饉に苦しむようになった父と兄たちをエジプトに呼び寄せて救う話である。(紀元前17世紀?)
悪徳の町であるソドムとゴモラの滅亡、ヤコブと神の使者との格闘などの話。 多くの系図が含まれておりイスラエル周辺部族の縁起等も語られている。
モーセと律法
物語は出エジプト記につながっていく。前述のヨセフの時代にエジプトに移住していたイスラエル人達は、王朝が変ったために、やがて迫害されるようになる。(エジプト第19王朝の時代紀元前1293年頃 - 紀元前1185年頃?)そこに、エジプト人として教育を受けたモーセが、神から召命を受けて立ち上がりイスラエル人たちを率いてエジプトを脱出。
神が族長ヤコブに約束したカナンの地を目指しながら40年間シナイ半島で放浪する。
モーセが数々の奇跡でエジプト王を威嚇し、追跡するエジプト軍を逃れるために海を二つに割ってその間を通っていく。
シナイ山でモーセとイスラエル人は神から十戒を授かり)、他にも様々な祭儀規定や倫理規定、法律が言い渡される。このシナイ山での契約は、ユダヤ教の重要な原点のひとつとされている。
「ヤーウェ(ヤハウェ)」という神の名はモーセの召命時に初めて明かされ、モーセ以前には「アブラハムの神」「イサクの神」「ヤコブの神」という呼ばれ方でしか知られていなかった部族の神が、名前を明かした状態で民衆全体と契約を結んだのである。
レビ記、民数記、申命記には、おびただしい量の法律、倫理規定、禁忌規定、祭祀規定が記されており、これらをまとめて律法(トーラー、原義は「教え」)と呼ぶ。
申命記の最後でヨルダン川東岸から約束の地であるカナンを遠く望んだモーセは、そこでヨシュアを後継者に指名して後、モアブの地で没する。
ヨシュア記ではヨシュアに率いられたイスラエル人たちによってカナンの諸都市が攻略され、そこに移住していく様子が描かれる。
デボラ、ギデオン、サムソンといった軍事指導者が続いていくのだが、彼らは士師と称され、部族連合体であったイスラエル人たちの裁判官と軍事指導者の役割を兼ねていた。また、彼らは預言者でもある。
最後の士師がサムエルである。ここで物語はサムエル記に移り、イスラエル部族連合体が王制国家に移行する様子が描かれている。
民衆の要求に応えて渋々ながらではあるがサムエルはサウルを王に指名するのである。 サウルはアンモン人やペリシテ人との戦争に勝つなど功績をあげるが、アマレク人との戦いで神の意に背いたためにサムエルから遠ざけられた。サウルに次いでサムエルから王に指名されるのが羊飼いであったダビデである。
ダビデが王国を継ぐ。 ダビデはまず南部のユダの王となり、次いで北部のイスラエルの王となった。そしてエルサレムに遷都する。(紀元前1000年ごろ)
王国はダビデの息子のソロモン王の時代に最盛期を迎える。彼はダビデがエルサレムに運び込んだ「契約の箱」を安置するための壮麗な神殿を建築してユダヤ教の中心地としてのエルサレムを確立し、次いで自らのために豪華な宮殿を造営した。旧約聖書ではその富の噂を聞きつけて遠国からの献納が絶えなかったとしている。その中ではシバの女王の来訪などが有名であろう
。
列王記はこの後、南北の王朝史を綴っていくことになる。それによれば、北部のイスラエル王国は短命な王朝が相次ぎ最後にはアッシリアに滅ぼされてしまう。(紀元前721年)また南部ユダ王国ではダビデ王の血筋が続くものの最後にはバビロニアに滅ぼされ、神殿は破壊されて多数の国民が連行されてしまう(バビロン捕囚)(紀元前586年)。ユダ王国では、宗教改革が行われたことが伝えられており、ヨシア王の時代にモーセの律法が再発見された。
バビロン捕囚での様子は旧約聖書の歴史書には記されず、預言書の中から窺い知るしかない。イザヤ書やエレミヤ書、エゼキエル書、原ダニエル書がバビロン捕囚の時代に編纂されたと推定されており、流謫の嘆きが語られている。
やがてバビロニアがペルシャに滅ぼされる(紀元前539年)と、ユダヤへの帰還活動が始まる。ダレイオス1世の時代になって神殿建設が許可され、エルサレム神殿は復興する。その後、アルタクセルクセス王の時代に「モーセの律法に詳しい書記官」であるエズラがペルシャ帝国からエルサレムに派遣されて、ペルシャ王の「献酌官」ネヘミヤと共にモーセの律法の復興運動を起こしたことがエズラ記、ネヘミヤ記で描かれている。エズラは外国人との結婚を無効宣告し、ユダヤ人の純化運動を進めた。ここで復興された神殿がハスモン王朝時代に拡張され、イエスの時代に至っている。
キリスト教の旧約聖書にあるエステル記は、この時期にペルシャ王の后になったユダヤ人女性エステルについての挿話である。
ユダヤ人の歴史
民族の始祖アブラハムが、現在のイラク南部とされる「カルデア(メソポタミア)のウル」から部族を引き連れて「カナンの地」(現在のイスラエル、パレスチナ付近)に移住したとされる。
ヘブライ人と呼ばれる彼らは、この付近で遊牧生活を続けた。 紀元前17世紀ごろ、ヘブライ人はカナンの地から古代エジプトに集団移住した。古代エジプトの地で奴隷とされた。
その後、エジプト第19王朝の時代(紀元前1293年頃 - 紀元前1185年頃)に、再び大きな気候変動が起こり、エジプトのヘブライ人指導者モーセが中心となり、約60万人の人々がエジプトからシナイ半島に脱出を果たす(出エジプト)。彼らは神から与えられた「約束の地」と信じられたカナンの地(パレスチナ)にたどり着き、この地の先住民であったカナン人やペリシテ人を、長年にわたる拮抗の末に駆逐または同化させて、カナンの地に定着した。
このころからイスラエル人を自称するようになり、ヘブライ語もこの頃にカナン人の言葉を取り入れて成立したと考えられる。紀元前1207年の出来事を記したエジプトのイスラエル石碑(英語版)に: i i z Z1s Z1s r i A r Z1 T14 A1 B1 Z2s (ヒエログリフ:𓇋-𓇋-𓊃:𓏤𓏤:𓂋-𓇋-𓄿-𓂋:𓏤-𓌙-𓀀𓁐:𓏥 - YSRYR - イスラエル)と記されているのがイスラエルという部族についての最古の文献である。
紀元前10世紀ごろ、古代イスラエル人はヤハウェ信仰(ユダヤ教の原型)を国教とする古代イスラエル王国をカナン(パレスチナ)に建国した。ユダヤ人は、紀元前1000年ごろと推定されるダビデ王の時代には、推定500万の人口を持っていたとされる。。ソロモン王の死後、紀元前930年ごろ、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した(「ユダヤ」とは元来、ユダ王国のあったパレスチナ南部を指す)。北のイスラエル王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ、多くの人民が捕虜としてアッシリアに囚われるか離散した(アッシリア捕囚、失われた十支族)。南のユダ王国は、紀元前609年にメギドの戦いでエジプトに敗北し、エジプトの支配下に入ったが、紀元前606年にカルケミシュの戦いでエジプトが新バビロニアに敗れた。紀元前587年に新バビロニアの侵攻に遭い(エルサレム包囲戦)、翌年にはユダ王国が滅亡してエフドと呼ばれる属州が置かれ、多くの人民が捕虜としてバビロンに囚われた(バビロン捕囚)。彼らはユダ王国の遺民という意味でユダヤ人と呼ばれるようになった。 紀元前539年のオピスの戦いで、アケメネス朝ペルシアによって新バビロニア王国が滅亡すると、捕囚のユダヤ人はキュロス2世によって解放されてエルサレムに帰還し、ペルシア帝国の支配下で統一イスラエルの領域で自治国エフド・メディナタとして復興された。 ユダヤ教の教義も、このころにほぼ確立された。アケメネス朝の滅亡後、古代マケドニア王国、セレウコス朝シリアなどに宗主国が引き継がれ、最終的にはローマ帝国領のユダヤ属州とされる。
このころにはヘブライ語はすでに古典語となり、日常語としては系統の近いアラム語にほぼ取って代わり、のちに国際語としてギリシャ語も浸透した。 また、ヘレニズム諸国の各地に商人などとして移住したユダヤ人移民(ディアスポラ)の活動も、このころに始まる。ローマ支配下の紀元20年代ごろ、ユダヤ属州北部ナザレの民から出たイエス・キリスト(ナザレのイエス)が活動したと伝えられる。 紀元66年からローマ帝国に対し反乱を起こすが(ユダヤ戦争)、鎮圧されてユダヤ人による自治は完全に廃止され、厳しい民族的弾圧を受けた。132年、バル・コクバの乱が起こったが鎮圧され、ユダヤ人の自称である「イスラエル」という名や、ユダヤ属州という地名も廃され、かつて古代イスラエル人の敵であったペリシテ人に由来するパレスチナという地名があえて復活された。
エジプト王国
エジプト原始王時代(紀元前4200年頃 - 紀元前3150年)
エジプト初期王朝時代(紀元前3150年 - 紀元前2686年)
エジプト古王国(紀元前2686年 - 紀元前2181年)
エジプト第1中間期(紀元前2181年 - 紀元前2040年)
エジプト中王国(紀元前2040年 - 紀元前1663年)
エジプト第2中間期(紀元前1663年 - 紀元前1570年)
エジプト新王国(紀元前1570年 - 紀元前1070年)
エジプト第3中間期(紀元前1069年 - 紀元前525年)
エジプト末期王朝(紀元前525年 - 紀元前332年)
原始王朝時代(黎明期、上エジプト、下エジプト)
(紀元前4200年頃 - 紀元前3150年)
エジプト文明が誕生し、人々が定住し農耕を開始したのは、およそ紀元前5000年ごろと考えられており、紀元前4500年ごろにはモエリス湖畔にファイユーム文化が成立し、紀元前4400年ごろからは上エジプトの峡谷地帯を中心にナカダ文化が興った。この時期のエジプトはいくつもの部族国家に分裂しており、やがてこの国家群が徐々に統合されていくつかの国家にまとまりはじめた。ただし統合された部族国家は地域的なまとまりをもち続け、上エジプトに22、下エジプトに20、合計約42あるノモスと呼ばれる行政地区としてエジプト各王朝の行政単位となっていった。紀元前3500年頃にはまず上エジプト、そして下エジプト、二つの統一国家が成立したと考えられている。
紀元前3300年頃にはヒエログリフの文字体系が確立し、太陽暦(シリウス・ナイル暦)が普及した。
初期王朝時代(第1 - 2王朝) 紀元前3150年頃、上エジプトのナルメル王が下エジプトを軍事的に征服し、上下エジプトを統一してエジプト第1王朝を開いたとされる。従来はエジプト第1王朝の建国者とされてきたメネス王がナルメル王にあたるのか、それとも別の王に比定されるのかについては諸説ある。また、ナルメルは上下エジプトの王として確認される最古の王であるが、ナルメル王よりも古い上下エジプトの王がいた可能性もある。
ヘロドトスによれば第1王朝期に、上下エジプトの境界地域に首都としてメン・ネフェル(メンフィス)が築かれたとされ、以後第一中間期の第8王朝にいたるまでエジプトの各王朝はここに都した。エジプト第1王朝は紀元前2890年頃に王統の交代によってエジプト第2王朝となった。この初期王朝時代の2王朝については資料が少なく、不明な点も多い。
古王国時代(第3 - 6王朝) (紀元前3150年 - 紀元前2686年)
ギーザの三大ピラミッド。
メンカウラー王、カフラー王、クフ王のピラミッド。
紀元前2686年頃成立したエジプト第3王朝からは、エジプト古王国期と呼ばれ、エジプト最初の繁栄期に入る。首都は一貫してメンフィスに置かれた。
紀元前2650年頃に第3王朝第2代の王であるジョセル王が建設した階段ピラミッドは、エジプト史上最古のピラミッドとされる。
以後マスタバに代わりピラミッドが王墓の中心的な形式となった。
紀元前2613年にはスネフェルが即位し、エジプト第4王朝が始まる。紀元前2600年頃にヌビア(エジプト南部アスワンあたりからスーダンにかけての地方の名称)、リビュア、シナイに遠征隊を派遣して勢力範囲を広げる
。スネフェルの次の王であるクフの時代に、ピラミッド建設は頂点を迎え、世界最大のピラミッドであるギザの大ピラミッドが建設された。
クフの2代あとにあたるカフラー王は、ピラミッドとその門前にあるギザの大スフィンクスを建造し、さらにその次のメンカウラー王がメンカウラー王のピラミッドを建設し、ピラミッドの建設は頂点に達した。この3つのピラミッドは三大ピラミッドと呼ばれ、エジプト古王国時代を代表する建造物となっている。
第5王朝に入るとピラミッドの意味が変質して巨大な石造りのものを建てられることはなくなり、材料も日干しレンガを使用したことで耐久性の低いものとなった。
エジプト第6王朝では、紀元前2383年に即位し94年間在位したペピ2世の治世中期より各地の州(セパアト、ギリシア語ではノモスと呼ばれる)に拠る州侯たちの勢力が増大し、中央政府の統制力は失われていった。ペピ2世が崩御したころには中央政権の統治は有名無実なものとなっており、紀元前2181年に第6王朝が崩壊したことにより古王国時代は終焉した。
第1中間期(第7 - 10王朝) 第6王朝崩壊後、首都メンフィスにはエジプト第7王朝、エジプト第8王朝という短命で無力な後継王朝が続いたが、実際には各地の州侯たちによる内乱状態が続いていた。この混乱の時代を総称し、第1中間期と呼ぶ。やがて上エジプト北部のヘラクレオポリスに興ったエジプト第9王朝がエジプト北部を制圧したものの全土を統一することはできなかった。上エジプト南部のテーベに勃興したエジプト第11王朝との南北対立の情勢となった。
中王国時代(第11 - 12王朝) 紀元前2060年頃に第11王朝にメンチュヘテプ2世は、第10王朝を打倒してエジプトを再び統一した。
首都は引き続きテーベにおかれた。また中王国期に入るとピラミッドの造営も復活したが、第4王朝期のような壮大なピラミッドはもはや建造されず、日干しレンガを多用したものが主となった。
紀元前1991年頃にはアメンエムハト1世によってエジプト第12王朝が開かれ、首都もメンフィス近郊のイチ・タウィへと遷した。歴代の王は、ナイル川の支流が注ぎこむ広大な沼沢地であったファイユーム盆地の開発にが力を注いだ。センウセレト2世は紀元前1900年頃にアル・ラフーンにピラミッド(ラフーンのピラミッド)を造営している。中王国はヌビアに対するものを除き対外遠征をあまり行わず、とくにシリア方面には軍事進出を行わなかった。紀元前1800年頃にはファイユーム盆地の開発が完成し広大な穀倉地帯となった。 、またハワーラのピラミッドが造営されている。
第2中間期(第13 - 17王朝) 第13王朝の統治力は急速に弱体化していったヌビアがエジプトから独立し、ついでエジプト第14王朝などいくつかの小諸侯が各地に分立したが、やがて紀元前1663年頃にはパレスチナ方面からやってきたとされるヒクソスという異民族によってエジプト第15王朝が立てられ、各地の小諸侯を従属させて覇権を確立した。下エジプトのアヴァリスに拠点を置いていた第15王朝に対し、一時は従属していたテーベを中心とする勢力がエジプト第17王朝として独立し、南北分立の体制となった。また、第15王朝は下エジプトのみならず、隣接するパレスチナも自らの勢力圏としていた。
新王国時代(第18 - 20王朝) 紀元前1540年頃、上エジプトを支配していた第17王朝のイアフメス1世がヒクソスを放逐して南北エジプトを再統一し、エジプト新王国時代がはじまった。イアフメス1世は第17王朝の王であるが、エジプト統一という一大画期があるため、連続した王朝にもかかわらずこれ以後の王朝は慣例としてエジプト第18王朝と呼ばれる。イアフメス1世はさらにヒクソスを追ってパレスチナへと侵攻し、第15王朝を完全に滅ぼした。これが嚆矢となり、以後のエジプト歴代王朝は、パレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、ナイル川流域を越えた大帝国を建設するようになっていった。このため、新王国時代は「帝国時代」とも呼ばれる。首都は統一前と同じく引き続きテーベにおかれた。 イアフメス1世はさらに南のヌビアにも再進出し、この地方を再びエジプトの支配下に組み入れた。紀元前1524年頃に即位したトトメス1世はこの国力の伸長を背景に積極的な外征を行い、ティグリス・ユーフラテス川上流部を地盤とする大国ミタンニへと侵攻し、ユーフラテス河畔の重要都市カルケミシュまで侵攻してその地に境界石を建立した。また彼は陵墓の地として王家の谷を開発し、以後新王国時代の王のほとんどはこの地へと埋葬された。 紀元前1479年頃に子のトトメス3世が即位したものの若年であったため、実際には共治王として即位したトトメス2世の王妃であるハトシェプストが実権を握り、統治を行っていた。ハトシェプストは遠征よりも内政や交易を重視し、この時代にプントとの交易が再開され、またクレタなどとの交易も拡大したが、一方で遠征を行わなかったためミタンニとの勢力圏の境界にあるシリア・パレスチナ地方の諸国が次々と離反していった。 紀元前1458年頃に、実権を握ったトトメス3世は打って変わってアジアへの積極的な遠征を行い、メギドの戦いなど数々の戦いで勝利を収めて国威を回復させた。続くアメンホテプ2世、トトメス4世、アメンホテプ3世の時代にも繁栄はそのまま維持され、エジプトの国力は絶頂期を迎えた。しかしこのころにはもともとテーベ市の守護神であった主神アメンを奉じる神官勢力の伸長が著しくなっており、王家と徐々に衝突するようになっていた。 次のアメンホテプ4世は紀元前1346年ごろにアクエンアテンと名乗って伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止、アメン信仰の中心地である首都テーベからアマルナへと遷都し、太陽神アテンの一神崇拝に改める、いわゆるアマルナ宗教改革を行った。このアテン信仰は世界最初の一神教といわれ、アマルナ美術と呼ばれる美術が花開いたが、国内の統治に集中して戦闘を避けたため、当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトにシリア・パレスチナ地方の属国群を奪われ、国力が一時低下する。 紀元前1333年頃に即位したツタンカーメン王はアメン信仰を復活させ、アマルナを放棄してテーベへと首都を戻したが若くして死去した。ホルエムヘブは官僚制を整備し神官勢力を統制してアマルナ時代から混乱していた国内情勢を落ち着かせたが継嗣がおらず、親友であるラムセス1世を後継に指名して死去した。これにより第18王朝の血筋は絶え、以後は第19王朝と呼ばれる。前1291年に即位した次のセティ1世はアマルナ時代に失われていた北シリア方面へと遠征して再び膨張主義を取るようになった。 紀元前1279年ごろに即位した次のラムセス2世は古代エジプト最大の王と呼ばれ、彼の長い統治の時代に新王国は最盛期を迎えた。紀元前1274年にはシリア北部のオロンテス川でムワタリ2世率いるヒッタイトと衝突し、カデシュの戦いが起きた。この戦いは痛み分けに終わり、この時結ばれた平和条約(現存する最古の平和条約)はのちにヒッタイトの首都ハットゥシャから粘土板の形で出土している。またラムセス2世は国内においてもさまざまな大規模建築物を建設し、下エジプトのデルタ地方東部に新首都ペル・ラムセスを建設して遷都した。 その次のメルエンプタハ王の時代には紀元前1208年ごろに海の民の侵入を撃退したが、彼の死後は短期間の在位の王が続き、内政は混乱していった。紀元前1185年頃には第19王朝は絶え、第20王朝が新たに開かれた。第20王朝第2代のラムセス3世は最後の偉大なファラオと呼ばれ、この時代に新王国は最後の繁栄期を迎えたが、彼の死後は国勢は下り坂に向かい、やがて紀元前1070年頃に第20王朝が滅ぶとともに新王国時代も終わりを告げた。これ以後古代エジプトが終焉するまでの約1000年は、基本的には他国に対する軍事的劣勢が続いた。
第3中間期(大司祭国家、第21 - 26王朝) 第20王朝末期にはテーベを中心とするアメン神官団が勢力を増していき、紀元前1080年頃にはアメン神官団の長ヘリホルがテーベに神権国家(アメン大司祭国家)を立てたことでエジプトは再び南北に分裂することとなった。紀元前1069年に成立した第21王朝は首都をペル・ラムセスからタニスへと移し、アメン大司祭国家に名目的な宗主権を及ぼした。紀元前945年にはリビュア人傭兵の子孫であるシェションク1世が下エジプトに第22王朝を開き、アメン大司祭国家を併合して再統一を果たすが、その後は再びアメン大司祭が独立したほか下エジプトに5人の王が分立するなど混乱を極めた。こうした中、エジプトの強い文化的影響を受けていた南のヌビアが勢力を拡大し、紀元前747年にはピアンキがヌビアから進撃してエジプト全土を制圧し、第25王朝を開いた。しかしその後、メソポタミアに強力な帝国を築いたアッシリアの圧迫にさらされ、紀元前671年にはアッシリア王エセルハドンの侵入をうけて下エジプトが陥落。一時奪回に成功したものの、アッシュールバニパル王率いるアッシリア軍に紀元前663年にはテーベを落とされて第25王朝のヌビア人はヌビアへと撤退した。
末期王朝(第27 - 31王朝) アッシュールバニパルはサイスを支配していたネコ1世にエジプト統治を委任し間接統治を行った。この王朝を第26王朝と呼ぶ。第26王朝は当初はアッシリアの従属王朝であったが、アッシリアの急速な衰退にともなって自立の度を深め、紀元前655年にはネコ1世の子であるプサメティコス1世がアッシリアからの独立を果たす。これ以後は末期王朝時代と呼ばれ、また第26王朝は首都の名からサイス朝とも呼ばれる。アッシリアはその後滅亡し、その遺領はエジプト、新バビロニア、リディア、メディアの4つの王朝によって分割された。プサメティコス1世の次のネコ2世はパレスチナ・シリア地方へと進出したものの、紀元前605年、カルケミシュの戦いで新バビロニアのネブカドネザル2世に敗れてこの進出は頓挫した。サイス朝時代のエジプトはシリアをめぐって新バビロニアとその後も小競り合いを繰り返しながらも、上記のオリエント4大国のひとつとして大きな勢力を持ったが、紀元前550年にメディアを滅ぼしたアケメネス朝のキュロス2世が急速に勢力を伸ばし、リディアおよび新バビロニアが滅ぼされるとそれに圧倒され、紀元前525年にはプサメティコス3世がアケメネス朝のカンビュセス2世に敗れ、エジプトはペルシアによって征服された。 ペルシアのエジプト支配は121年間に及び、これを第27王朝と呼ぶが、歴代のペルシア王の多くはエジプトの文化に干渉しなかった。しかしダレイオス2世の死後、王位継承争いによってペルシアの統治が緩むと、サイスに勢力を持っていたアミルタイオスが反乱を起こし、紀元前404年にはペルシアからふたたび独立を達成した。これが第28王朝である。第28王朝はアミルタイオス一代で滅び、次いで紀元前397年から紀元前378年にかけては第29王朝が、紀元前378年からは第30王朝が立てられ、約60年間にわたってエジプトは独立を維持したが、東方を統一する大帝国であるアケメネス朝はつねにエジプトの再征服を狙っており、それにおびえながらの不安定な政情が続いた。そして紀元前341年、アケメネス朝のアルタクセルクセス3世の軍勢に最後のエジプト人ファラオであるネクタネボ2世が敗れ、エジプトはペルシアに再征服された。アルタクセルクセス3世はエジプトの信仰を弾圧し、圧政を敷いた。
グレコ・ローマン期
プトレマイオス朝(紀元前332年 - 紀元前30年)
ペルシアのこの圧政は10年間しか継続せず、紀元前332年、マケドニア王のアレクサンドロス3世がエジプトへと侵攻し、占領された。アレクサンドロスがペルシアを滅ぼすとエジプトもそのままアレクサンドロス帝国の一地方となったが、紀元前323年にアレクサンドロス3世が死去すると後継者たちによってディアドコイ戦争が勃発し、王国は分裂した。 この混乱の中でディアドコイ(大王の後継者と呼号してその遺領を争ったマケドニアの部将たち)の一人であるプトレマイオスがこの地に拠って勢力を拡大し、紀元前305年にはプトレマイオス1世として即位することで、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝が建国された。この王朝はセレウコス朝シリア王国、アンティゴノス朝マケドニア王国と並ぶヘレニズム3王国のひとつであり、国王および王朝の中枢はギリシャ人によって占められていた。 プトレマイオス1世は首都をアレクサンドロスによって建設された海港都市であるアレクサンドリアに置き、国制を整え、またムセイオンおよびアレクサンドリア図書館を建設して学術を振興するなどの善政を敷いた。続くプトレマイオス2世およびプトレマイオス3世の時代にも繁栄が続いたが、その後は暗愚な王と政局の混乱が続き、またシリアをめぐるセレウコス朝(イランを支配したギリシア系の国)との6回にわたるシリア戦争などの打ち続く戦争によって国力は疲弊していった。紀元前80年にはプトレマイオス11世が殺されたことで王家の直系が断絶し、以後は勢力を増していく共和政ローマの影響力が増大していくこととなった。 紀元前51年に即位したクレオパトラ7世はガイウス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスといったローマの有力者たちと誼を通じることでエジプトの存続を図ったが、紀元前31年にオクタウィアヌス率いるローマ軍にアクティウムの海戦で敗北し、紀元前30年にアレクサンドリアが陥落。クレオパトラ7世は自殺し、プトレマイオス朝は滅亡した。これによりエジプトの独立王朝時代は終焉し、以後はローマの皇帝属州アエギュプトゥスとなった。
ローマ帝国
王政期 紀元前753年(建国)から紀元前509年
トロイア戦争におけるトロイア側の武将で、トロイア滅亡後にイタリア半島に逃れてきたアイネイアースの子孫であるロームルスに始まる伝説上の七人の王が治めていた期間。古代ローマでは、アイネイアースが、トロイア滅亡後、詩、音楽、医学、貿易、政治システムを持って、イタリア半島に逃れて、古代ローマを建国したという物語は、古代ローマが古代ギリシアの歴史とつながる長い連続と価値づけられ、非常に重要と考えられていた。
初期の4人の王はローマ建設時の中心となったラテン人とサビニ人から選ばれているが、その後の3人の王はエトルリア人出身であるとされる。これは初期のローマにおいてエトルリア人による他民族支配を受けていたことを示すと考えられている。
共和政期 紀元前509年から紀元前27年
ローマがイタリア半島の一都市国家から地中海の全域に属州を持つ帝政になるまでの期間を指す。政治は元老院と執政官ら政務官を中心として、民会などで一般ローマ市民の意思も反映されながら民主的に運営された。
共和政初期 ルキウス・ユニウス・ブルトゥスによる王政の打倒からイタリア半島の中部・南部を勢力に加えるまでの期間。
共和政中期 三次に及ぶカルタゴとのポエニ戦争の時期。
セレウコス朝やアンティゴノス朝といったヘレニズム諸国との戦争での勝利によって属州を獲得しその勢力圏を広げていった時期。
第二次ポエニ戦争に勝利してカルタゴの脅威が減少すると、イタリア半島外へ勢力を拡大させた。
第一次マケドニア戦争(紀元前215年 - 紀元前205年):ピリッポス5世がハンニバルと同盟し戦う。
ローマ・シリア戦争(紀元前192年 - 紀元前188年):セレウコス朝シリアに勝利し小アジア諸国と同盟を結ぶ(アパメイアの和約)。
第二次マケドニア戦争(紀元前200年 - 紀元前196年):フラミニヌスによりローマ勝利。
第三次マケドニア戦争(紀元前171年 - 紀元前168年):アンティゴノス朝が滅亡。
第四次マケドニア戦争(紀元前150年 - 紀元前148年):マケドニア属州が成立。
ガイウス・ユリウス・カエサル(紀元前100年 - 紀元前44年3月15日)
アウグストゥスはガイウス・ユリウス・カエサルの養子となった。
共和政末期 グラックス兄弟の改革と死、その後の内乱の一世紀を経て、アウグストゥスによる帝政の樹立までの期間。
帝政期
初期 アウグストゥス(紀元前27年 - 紀元14年)からはじまるユリウス=クラウディウス朝からフラウィウス朝までとするもの。
中期 セウェルス朝から始まり、軍人皇帝時代を経て、ディオクレティアヌス帝が即位するまで。
後期 ディオクレティアヌスの即位を開始とする。そのまま西ローマ帝国の滅亡までを帝政後期としてくくることも多いが、テオドシウス1世の死後に帝国が東西に分裂した後は、通常は西ローマ帝国、東ローマ帝国としてわける。
コンスタンティヌス1世のミラノ勅令(313年2月)によってキリスト教が公認され、徐々にローマの支配イデオロギーの中の枢要な部分を占めるようになっていった。
マケドニア王国
マケドニア王国(ギリシア語: Μακεδονικό βασίλειο)は、紀元前7世紀に古代ギリシア人によって建国された歴史上の国家である。
アルゲアス朝(ギリシア語: Ἀργεάδαι、ラテン文字転記:Argeadai)は、古代ギリシアの王朝。紀元前約700年から紀元前310年まで、マケドニアを統治した。
ギリシア人から異民族扱いされていたマケドニア王が参加することは、ギリシア人ではないとの理由で関係者から異議を唱えられていたオリンピックについて、マケドニア王アレクサンドロス1世が紀元前504年か500年の競技に参加したという出来事についても述べている。ヘラノディカイは、彼のアルゴス出身との主張を調査した後、マケドニア人は実はギリシア人であると承認し、彼の参加を認めた。
紀元前359年、ピリッポス2世が兄ペルディッカス3世の戦死を受け、兄の遺児アミュンタス4世の摂政となり、間を置かずして甥を退けマケドニア王に即位した。当時の強国の一つだったテーバイに3年の間人質として滞在し、その政治や軍事を学んだピリッポス2世は、ギリシア先進文化を積極的に取り入れ、国政の改革や国力の増強に努めた。そして紀元前338年、カイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍に勝利し、翌紀元前337年にはスパルタを除く全ギリシアを統一するコリントス同盟を結成し、その盟主となった。
アレクサンドロス大王
紀元前336年、ピリッポス2世が暗殺され、その息子アレクサンドロス3世(大王)が後を継いだ。アレクサンドロスは紀元前334年にペルシアへの遠征を開始し、紀元前333年のイッソスの戦いでペルシア王ダレイオス3世の軍を打ち破り、アルベラ・ガウガメラの戦いで再びダレイオス3世率いるペルシア軍を撃破し、ペルシア征服を実現させる。 ペルシアの征服に成功したのちもアレクサンドロスの東方への遠征は続き、インドの外辺まで支配下に治めた。この世界帝国の実現によって、ギリシアの文化や考え方が各地へと広まるだけでなく、東西文化の交流や民族の融合が盛んになった(ヘレニズム)。 ディアドコイ戦争 紀元前323年、アレクサンドロスが後継者を決めないまま急逝すると、配下の将軍たち(ディアドコイ)によるディアドコイ戦争が勃発した結果、アルゲアス朝は断絶した。ヨーロッパ側領土にはアンティパトロス朝、リュシマコス朝が立ち、アンティゴノス朝が小アジアに拠り、三者の争いの中でアンティゴノス朝が生き残った。
アレクサンドロスの帝国はマケドニアのアンティゴノス朝、エジプトのプトレマイオス朝、シリアのセレウコス朝の3つに分裂した。
マケドニア戦争と滅亡
その後マケドニアは、地中海世界に勢力を拡大する共和政ローマの圧力に直面することとなった。第一次マケドニア戦争(紀元前214年 - 紀元前205年)では勢力を保てたものの、第二次マケドニア戦争(紀元前200年 - 紀元前196年)に敗れたのち、第三次マケドニア戦争(紀元前171年 - 紀元前168年)の敗北によって、ペルセウスは捕虜となり廃位、アンティゴノス朝は滅亡して、マケドニアは4つの共和国に分割された。第四次マケドニア戦争(紀元前149年 - 紀元前148年)での反乱がローマに鎮圧されると、紀元前148年にローマの属州の一つ(マケドニア属州)となった。