人は「誰かのために」がんばれる生き物なんだ
私は文章を書くのが好きだ。
それは、自分が考えていることや感じていることを早く、確実に、相手に届けられる伝達方法であり、自分という人間を表現するひとつの手段だと思っているからだ。
そうやってずっと書き続けてきたけれど、こうして表立って(これを表立ってというのかはわからないけれど)発信していくには、もうひとつ大事なものが必要だということがわかった。
それは、誰かの喜びを自分の喜びへと転嫁できることだ。
『習慣が10割』という本のなかでは、「人は自分のためよりも、誰かのためのほうが頑張れる」という一文があって、「そういうものなのかねぇ」と思ったけれど、いくつか思い当たる節があった。
たとえば旅行。ひとり旅だったら時間もプランも適当で良いけれど、友だちと一緒に行くのなら思いっきり楽しめるプランにして、ずっと笑っていられるような旅行にしたいとリサーチを頑張る。
たとえばバレンタインのチョコレート。自分のために作るチョコレートなんて別にどうだって良いけど、友だちや好きな人に渡すチョコレートは綺麗で美味しいものであって欲しいと願うから、一生懸命つくる。
たとえばnoteやブログ。自分のためにTwitter運用ノウハウを分析したり、仕事術を書くのなんて別に楽しくないしやる気も起きないけれど、読んでくれる誰かがいるから書き続けようと思う。
自分のことばかり考えているのではなく、「誰かのために」動ける人は、尊いなぁ、すごいなぁ、と思っていたけれど、自分も自然とそれができていたのだと嬉しくなる。
プライベートも睡眠時間も削って、食事を食べることすら忘れて書くことができる、その無限のパワーの裏側には「早く届けなきゃ!」の思いが眠っていた。
それに気付いた。
今まで自分は何と戦いながら文字を生み出しているのだろうと疑問だったけど、戦っているのではなく、ただ、誰かのために届けたかっただけなのだ。
たとえそれが、自己満足だとしても、「誰かのため」に書いた文章は、絶対に誰かの胸に届いていると信じている。
今、本当に届く文章を発表している人はどんな人だろうか。
文才をひけらかしたい人だろうか。一方的に気持ちを届けたいだけの人だろうか。
私は、誰かのための道標を灯したい人だと思う。