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「はい」という言葉に意味はあるか

「はい」

何気なく使ってしまうこの相槌を再定義しなくてはいけないな、と思ったのは、言葉の意味が忘れられてしまったと感じたからだ。

厳しい稽古のなかで、ズバズバと指摘し続ける先生に対して、はい、はい、と真剣な顔で返していたらこう言われた。

「”はい”って言うのは、”わかった”とか”できる”って意味だからな」

何かを見透かされたような気がした。

ありがとうとか、ごめんなさいとか、すみませんとか、無意識に口を注いで出てしまう言葉はいくつかあるけれど、使えば使うほど言葉の意味はどんどん薄まっていき、言葉はただの記号のようになる。

同じように、「はい」も意味のない相槌となってしまっていたんだろう。

とりあえず「はい」と言っておけば何がが収まると思い込んでいる自分がいて恥ずかしくなった。

何気なく機械的に使ってしまう言葉はたくさんあるけれど、本来、順番は逆なのだ。

言葉があって感情があるのではなく、感情があって、それを表現するために、相手に伝えるために言葉がある。

言葉があまりに便利すぎて、それを忘れかけていた。

日本語は、どうも感情の出にくい言葉らしい。

というのも、語彙が多すぎて、感情を込めなくても言葉巧みに表現できてしまうからなのだ。

平安時代に、あの一見わかりにくい暗号のような恋文が流行ったのも何となく頷ける。日本語には言葉そのものにも、行間にも意味もあり、時として感情とは裏腹の言語も用いる、大変わかりづらく不親切で奥ゆかしい言葉なのだ。

それゆえに、言葉に感情がのっかりにくい。英語みたいに、「ワァァット!?」と表情と感情たっぷりにやる必要がない。

だからこそ、もっと感情を大事にしなくちゃいけない。

「はい」という何気ない言葉にも、ちゃんと意味と思いを込める。忘れないようにしたい。



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