「ふつうの会社員なのに成功した!」が辛い。発信のハードルが爆上がりしてる件
さてさて。8月9月と妙にやる気ないモードだった私だけど、その理由を因数分解してみたら、そんな結論が出た。
最近では画像編集や動画編集はむずかしいソフトを扱えなくてもスマホでできるようになって、誰もが発信できるような時代が来たじゃないですか。
それに伴って、いわゆる「ふつうの会社員が」「平凡な主婦が」「無職ニートが」という枕詞がついたタイトルから始まるコンテンツが増えたわけです。
そうするとどうなるか。
なぜかすごく辛くなるのだ。
一般の人々が「こんな自分でもできたんだから」「ふつうでも成功できるんだから」と言うたびに、何だか劣等感を覚えてしまう。
その、自称「ふつうの人」が叶えられたことを叶えられない自分は、「ふつうの人」以下なのか、って!!
もちろん、発信サイドは自分のことだから、本気で「ふつう」「平凡」だと思っている。嘘はついていないし悪気もない。むしろ、親切心ですらある。
「こんな私にすらできたんだから、みんなもやってみようよ!」
そうやってシェアハピしてくれている。圧倒的にいいことなのだ。そこは間違いなくそう思う。
事実、わたしも自分のことを「ふつう」だと思っているからこそ、そういった見せ方で発信をしている。
ただ、その発信を見て真似してみるけれど、まあうまくいかないこともある。
成功には一概に一言ではいえないような複雑な要因が絡まり合っていて、「センス」と言えばそれまでだし、「カリスマ性」もあるし、「努力」でもある。
もちろん、それは自分で気付くのは難しいから、センスのある人でも「ふつうです」と言って発信することもしばしばだ。
さらに、「努力」が必ず報われるとは限らない。
「継続すればなんとかなる」場合もあるし、「継続してもなんともならない」場合もあるのだ。悲しいことに。
物事には再現性のあることと、ないことがあって、感覚だけで当てちゃう人もいれば、戦略的にできる人もいる。そしてもちろん、努力してもできない人もいる。
結論としては、「自分に合った方法を見つけて、正しい努力を継続的にしようね」となるのだが、それができる人って果たして「ふつう」で「平凡」なのかなぁ。
そんなことを友だちに話していたら、「入れる情報はメンタルによって調整しなきゃダメよ」と言われた。
「成功例」は、劇薬だ。
っよっよメンタルのときに入れる「成功例」の発信は自分を奮い立たせるガソリンとなるが、ノーマルメンタルのときに入れる「成功例」は毒草だ。
そんなわけで、いわゆる「ふつうの人」が成功階段を駆け上がっている様子を、おそらく「ふつう以下」な私は眺めていて病んでしまったのだと思う。
「スマホ1台あればYouTubeはできる」
それで、発信のハードルは下がったんだろうか。逆だ。全員が発信できる時代になったことで、全員が「ふつう」じゃなくなったのだ。
それをさらに加速させたのがコロナによる自宅待機からの、自宅でできることからの模索からの、発信人口の増大。
「最近みんな病んでいる」とよく聞くけれど、それは悲しいニュースや自粛の息苦しさ、環境の変化だけじゃない。
「みんなのように発信がうまくできず、成功できず、”ふつう以下”かもしれない自分への劣等感」もあるんじゃないか、とわたしは思うのです。