怒られちゃってさ
怒られちゃったんです。
当たり前だけど、怒られて「やった!!怒られた!!!ありがとう!!!」なんてストレートに思う人なんていないわけで。
なんだかずっと胃が痛くて、自分の行いで怒らせてしまったこと、考えの足りない過去の自分に腹が立ったのも、そこまで怒らなくてもいいじゃんか、と思ったのも本当。
でも、そこで怒られながら気付かされたことがあった。
「怒られながら、意見をコロコロと変えているんじゃないか」
そんな指摘。そして、実際そうなんだと思う指摘。
思えば、説教には良い思い出がない。うちの母の説教はとてつもなく長くて、小学生のころから眠たい目をこすりながら「はやく終わらないかなあ」と思っていた。
そうして上の空できいていれば、「あんたはいつも右から左ね」なんて言われて、そりゃ2時間も同じ話を延々と聞かされていれば右から左にもなるよと毒づいていたものだ。
そんな生活を繰り返していると、だんだんと「いかにしてこの説教を早く終わらせるか」というほうに神経を集中させるようになる。
それは、たとえば相手に同調するとか、しおらしくするとか、言いたいことを飲み込むとか。
まあ端的に言えば、はやめに妥協しておくこと。
でも、それが裏目に出ちゃったらしい。
無意識に行っていた「同調」がバレて、私は相手が怒っていることの本質を見つめ直すことから逃げて、怒りを鎮めることに注力してしまうんだなということに気付いた。
それは、怒りも収まるはずがない。
怒りってイライラと悲しみでできている。
相手の行動が信じられなくて、わかってほしくて、わかってもらえなくて、それでもやっぱり知ってほしくて、ぶつける。
もちろんぶつける側も体力がいるし、ぶつけられる側も体力がいる。
逃げたいなぁと思う反面で、逃げてはいけないなと思う。
怒りを鎮めようと努力するのではなく、本質的な怒りの原因を理解してわかりあえたら。変わらなくちゃと思えたら。
まだ課題は山積みだけど、「怒られちゃった」をもっとポジティブに捉えられたらと思う。