“好き”なだけでも許されたいよ
言わずもがな、わたしはとても多趣味な人間なのだけれど、そのなかにも明確に「得意なこと」と「好きなこと」と「極めたいこと」がそれぞれある。
得意なことは、目を瞑ってでもできること。他の人が苦労してやることを、ちょちょいとできちゃうこと。
好きなことは、誰に頼まれるわけでもなく勝手にやってしまうこと。お金になんて全然ならなくても、最優先で手を動かしてしまうこと。
極めたいことは、うまくなりたいけれど自信がないこと。やりたいのにヘタクソでもどかしいこと。
たぶん、この3つのどれもが仕事にできることだと思う。得意なことが1番需要があって、好きなことはヘタクソでも気力で続けられて、極めたいことはあえて自分を厳しい環境におくことで上達させることができる。
ただ、そのなかにも「ただ好きなだけのこと」はある。
わたしは、写真が好きだ。
バイトをして貯めたお金で、一眼レフを買ったあの日から、毎日首にカメラをぶら下げて登校していた。
いわゆる「カメラ女子」だった。
写真部に入って、良い紙と額縁を買って展示会へ一生懸命搬入したこともある。
でも、わたしのなかで欠けていたものは、「写真がうまくなりたい」という思いだった。
学べば学ぶほどそこには数字が並んでいて、よくわからなくなった。ISOを上げれば画質が粗くなる、という知識はあっても、じゃあ夕方に最適な数値は、とか言われてもサッパリ。
毎回毎回環境に合わせてダイヤルを回すことしかしてこなかったわたしは、未だにその答えを知らない。
でも、唯一と言っていいほど今後も熱心に勉強することはない分野だとも思う。
ただ、シャッターを切りたいと思った瞬間に切り取って、相手に見せて笑顔をもらえたら嬉しいもの。
それがわたしにとっての「写真」で、わたしの好きなものなんだと思う。
「好き」は、せっかく好きなのだから極めなくてはならないと思うかもしれないけど、でも、「ただ好きなだけ」という形が存在することも許されたい。
一般的にいい写真とか、悪い写真とかあるのかもしれないけど、わたしがいいと思って相手に渡して、相手がいいと思ってくれるのなら、わたしはそれでいいと思ってしまうんだ。
そんな形も許されたい。