「まあるく」なるのは良いことでしょうか
「まあるくなったなぁ」と思う人が何人かいる。
そう思うってことはつまり、前までは「尖ってるなぁ」と思っていたということで、つまるところ良いことだ。
「まあるくなる」ってどういうことなんだろうと考えてみると、わたしは「承認欲求が満たされる」ことなのだと思う。
尖っているのは、まわりから自分の身を守るためで、守るのはすべての人が敵だと思っているからで、敵だと思っているのは誰も認めてないし、誰からも認められないと思っているからだ。
そんな受け入れてくれない世界だけど、そこに自分の存在を主張したい。このトゲをぶっ刺したい。誰でもいいから気付いてほしい。聞いてほしい。目を向けてほしい。
わたしの経験則から言うとこんな感じだ。すべてがポイズンでたまらないのだ。
芝居の稽古をしているなかで、「役者は承認欲求の塊だ」と先生が話していたことがあるが、わたしは役者に限らず、クリエイター全般に言えることだと思った。
言いたいことがあるから筆を取り、紙にぶちまけていく。オブラートに包んで音に乗せていく。ファインダーを覗いて人差し指に力を込める。
創作意欲の源は大抵「怒り」や「悲しみ」で、だからこそいわゆる名作と呼ばれる話は悲劇ばかりだし名曲は失恋ソングが多い。
では、「まあるく」なってしまったらどうなるんだろう。
たとえば、家族や友だちや恋人や楽しい趣味や仕事ですべての承認欲求が満たされてしまったら。
たぶん、アウトプットの回数は激減すると思う。
最近のわたしは、ちょっと「まあるく」なってしまったなぁと思うし、それを観察しているのが楽しい。
もしかしたら死活問題なのかもしれないけど、私は「まあるく」なるのは悪くないなと思った。
自我が色濃く出始めた中2のころから毎日ザワザワと波打ってきた心が今はとても優しく穏やかに揺れているし、のんびりと流れる時間を感じているのは心地よい。
あぁ、老後ってこんな感じなのかもしれないと思うくらいに。(早い)
ところで、そんな承認欲求がある程度満たされてしまったら、クリエイターはどこへ流れ着くのだろう。
「アイツ、まあるくなってつまんなくなったな」なんて言われて、憤慨してまた筆を取り始めるんだろうか。
承認欲求ではない「言いたいこと」が出てくるんだろうか。
自分を満たすためではなく、誰かを満たすためのフェーズに移るんだろうか。
とりあえず様子見です。