花が枯れそうなときに、ちゃんと水をやれる人でありたい
2ヶ月前から実家ライフをエンジョイしているわたし。
もともと5人家族で3人兄弟の全員が巣立ってしまった今、別にわたしひとりユーターンしてきてもあまり支障がないだろうと踏んでいたが、ひとつだけ問題があるらしい。
それは、家事でもなく、お金でもなく、「時間」の問題だ。
コロナ禍もあり、カレンダーにもほとんど予定が書かれていない母には「時間に追われる」という感覚がないらしい。
だから、「今日は15時からミーティングがある」「明後日は東京に行く」と毎日さまざまな予定が詰まっているわたしの存在は、母にとってはパニックのもととなる。
「明日は仕事あるの?」
「今日は何時に出るの?」
といちいち聞くのは母にとってはプチストレスなのである。わたしにしてみれば、曜日問わずに仕事が入っているのは当たり前だし、かといって1日仕事をしているわけでもなく、2時間だけミーティングがある、という日もある。
そんな日常にすっかり慣れてしまっているので、それまでにテキトーにお昼を済ませてパソコンの前に座り、おわったら買い物に行く…とあまり深く考えずに予定を組み立てるのもお手のものだが、母にとってはそうではない。
わたしに「15時からミーティング」という予定がひとつあるだけで、ソワソワしてしまうのだ。
間に合うためには何時にごはんを用意すればいいのか、買い物に行くにしても何時に帰って来なければいけないのか、いろいろ考えなくてはならない。
わたしにしてみれば、仮にごはんが間に合わないのなら、途中で切り上げてもいいし、ミーティング後に食べればいいし…などと楽観的に捉えてしまうけれど、母にとって「予定」というのはそんな生半可なものではないのだ。
1日にひとつ予定があるだけでも、ペースが乱されてしまう。だから、すべての予定をカレンダーに書いてほしいと言われるのだが、いかんせん予定というのはコロコロ変わるので、変わった予定を消し忘れて「あれ!? まだ家にいるの!?」とまた母をハラハラさせてしまう。
なんだか非常に申し訳なくなると同時に、「予定がない生活ってどんな感じなのだろう」と思う。
母はなにも予定がなくても7時には目が覚めてしまうそうで、毎朝下の階からは韓国ドラマの音が聴こえる。パンを焼いて、コーヒーを淹れて朝食を済ませ、洗濯物や掃除をしたら、お昼まで庭いじり(ガーデニング)をする。
そしてお昼を食べながら韓国ドラマを観て、昼寝をして、買いものに行くなり、近所のおばあちゃんちに行くなり、ネットサーフィンをするなり、好きなことに勤しむ。
そんな自由な「マイルーティン」ができているのだ。
一方で、わたしの毎日は変則的である。都内で仕事漬けの日もあるし、家にこもって原稿を書く日もあるし、何もなくて午後まで寝ている日もある。
しかし、部屋にこもっているわたしが何をしているのか母にはわからないので、「お昼はいるのかしら」「一緒に買い物に行けるのかしら」とソワソワさせてしまうのだ。
毎日毎日変則的な予定があることに慣れきっているわたしには、この特異性に気づけない。
ある意味で「いつなにをしてもいい」「思い立ったらすぐに動ける」という生活は、とても心地良さそう…というか、本来はそうあるべきなのかもしれない。
ある日目覚めたら、母が「今から車の練習がてら、パンを買いに行こうか」と誘ってくれた。
パジャマを脱いでワンピースに袖を通し、適当に髪を整えて車に飛び乗る。母の案内で知らない道を走る。時間に限りはない。何時に着いてもいいし、渋滞にハマってもいい。パンが売り切れていたら、別のお店に入ればいい。
のろのろ運転で目的地に辿り着いても、責める人なんて誰もいないのだ。
ゆっくりと時間をかけて選んだパンを頬張りながら、そうやって「思いつき」で動けることの尊さを噛み締めた。
午後になると、母はふらりと庭へ出て花を愛でる。それは別にマストじゃない。時間だって、5分でもいいし、3時間でもいい。
花が枯れそうなときに、ちゃんと水をやれるという環境。
それは当たり前のことなのかもしれない。
でも、今のわたしはきっと、いちいちGoogle calendarのなかに組み込まないと、花に水すらやることができないだろう。
そんな人生はちょっとだけ虚しく感じるから、わたしも思いつきでなんでも行動していい日をつくりたい。週に1日でもいいから。
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