もしも、有り余るほどの時間があったなら
外を出歩かなくなって、お仕事がちょっと減って、時間がたっぷりと生まれた。
おそらくみんなそうだと思う。なす術もなく立ち止まって、ゆっくり、ゆっくりと時が刻まれていくのを全身で感じているんじゃないだろうか。
いつか、「もしも、有り余るほどの時間があったなら」と考えていたことがある。
朝活をして、会社に行って、移動時間は連絡とブログ執筆にあて、休日は副業をしていたとき。
まずは、アラームをセットせずに眠りこけて、二度寝もして、お昼ごはんとも朝ごはんとも言えない時間に、好きなものをつくってのんびり食べて、お腹が満たされたらまた昼寝をしながら漫画でも読んで、日が暮れてきたら散歩にでも行って、お気に入りの小説を携え、たっぷりのお湯で満たした湯船に浸かる。あたたまったら、アイスを咥えながらアニメを観て、眠くなったら眠る。
自堕落だと笑うだろうか。
本当にそんな生活がしたいと思っていた。もしも有り余るほどの時間があったなら、だらだらとしていたい。気が済むまで、って。
でも、不思議なことに、この1ヶ月でパソコンを開かなかった日はほとんどなかった。長年ブルーライトで傷みつけてきた瞳を癒すべきだろうと思いながら、キーボードを打つ指先を止めることができなかった。
悲しいけれど、これがきっと、わたしの「好きなこと」なのだと気付いた。
ライターをしながら、何度も文章を書くのを止めたいと思ったことがある。ロングインタビューの後の書き起こしを前にしたとき。慣れない専門用語をひとつひとつ調べていたとき。しっくりとくる見出しが思いつかなかったとき。文才がないんじゃないかと絶望したとき。
苦しくて悔しくて泣きながら、それでも文章を書き続けた。
今だって、別に書く必要なんてこれっぽっちもないのに、指先が文字を生み出していくのをぼんやりと眺めている。笑ってしまう。誰にも頼まれていないのに。のんびり好きなアニメでも観ていればいいのに。
もしも、有り余るほどの時間があったなら、人は心の底からやりたかったことをやるだろう。
この自粛期間は、自分の「好き」が露わになる時間でもあると思う。
「やりたい」と「やりたくない」を自分にはっきりと問いかけられるんじゃないか。
ずっと「やりたい」と口では言っていたけど、時間ができてもやっていない自分に気付くこと。
そういった意味では、このうえない自由だ。不自由な自由というべきか。
外へ出られない。家のなかでやるべきことを見つけていくしかない。裏を返せば、家のなかにいれば何をやったって良い。
有り余る時間のなかで、自分が浮き彫りになっていく。