生まれた瞬間の人間は明るい(2024年1月21日)
連れあいと、豊洲に住む友人の家に遊びにいく約束をしていた。彼女は私のまわりで「豊洲のタワマン」に住んでいる唯一の人材だが、私の脳内にある豊洲のタワマン住人像とはまったく異なるタイプだ。彼女が豊洲に住んでいることを思い出すたび、パブリックイメージというものがいかに雑で、事実と遠いものであるかを知る。
大雪予報だったので警戒していたが、空の色はいつも気まぐれで小雨。それでも、駅まで迎えにきてくれた1歳半になる友人の子のほっぺたを手の甲で軽く触れるとしっかり冷たい。冬だ。
子は人見知りがはじまっていて、よく知らない大人の顔がふたつも自分に向いているとこわくて泣いてしまう。こういうとき、私はなるべく本人の目を見ずそこにいるだけの人になり、私がいる状況にゆっくりと慣れてもらおうとする。対して連れあいは、案外積極的に絡んでいき、絡んでは泣かれをめげずにくり返していた。どちらの対応がよかったのかはさておき、しばらくすると慣れて笑顔を見せはじめ、一同が安堵した。
赤ん坊の一挙手一投足は場の空気をすべて牛耳ってしまう。その力は無条件に発動される。そんな存在がたくさん集まる保育園とはいったいどういうところなのか、私にはまったく想像がつかない。この、暴力的なまでの場の牽引力が一堂に会したら、マジでどうなっちゃうんだろう……。でもその引っ張りあう力が拮抗して、ちょうど互角の綱引きみたいに場がぴたりと収まってしまうものなのかもしれない。
私はよく子どもや動物を苦手だと思われてしまうのだが、苦手というよりはビビっているというほうが正確だ。雑貨屋で薄張りのグラスを手にとるような、真っ白のワンピースでワインを飲むような種類のビビり。この無垢な生き物をこの手でどうにかしてしまうのではないかといつも怯えている。そんなことではいけないと頭ではわかっているけれど、自分自身の繊細で感じやすい子ども時代の記憶があって、どうしてあげるのがよいのかわからなくなってしまう。
目の前の子に記憶のなかの自分を投影してだいじにだいじに扱っているなんて、なんだか情けない話だ。むろんこの子は私ではない。いつだったか「生まれてすぐ自殺したがる赤ん坊はいない」という話を人に教えてもらったことがあり、人間という存在の生来の明るさにはっとしたのだ。生まれた瞬間の人間は明るい。そんな生き物と対峙しているときくらい私も明るくいたい。そうだ。きっとこの子はまわりの人びとにこれ以上ないほど愛され、すこやかにたくましく育つ! 育っていくぅ!
友人が私の書いた日記本を読んでくれたらしく「すっごいおもしろかったんだけど」と目を丸くひらいて興奮したようすで話してくれてうれしい。私のことを知らない人が読んでおもしろいかどうかはどうだろうかという気持ちだけれど、でも友人だって私のすべてを知っているわけではなく、知っていることと知らないことの境目は難しい。
そういうことを友人と私が話し込んでいる横で、友人の子と私の連れあいは30歳以上の年齢差をものともせず友だちになっているようだった。あやしているようではなく赤ん坊とおなじ土俵で、しかしそれなりに大人としての気遣いをしながら居られるのは彼の特異な点だ。子に振り回されることを嫌がっていないというか、子の未知を全面的に受け入れている。
次に会ったときにはすっかり忘れられてるかなーと赤ん坊にとっての今日という日の取るに足りなさを連れあいと確認しながら帰宅した。「やっぱ豊洲のタワマンでかくて広かったね」からはじまり、口々に自宅の狭さに関する文句を投げあうも、だからといって別にどうするとかではないこの空間が安らぐ。
【よかったらお読みくださいシリーズ】
▼日記以外の読み物
▼はじめて自作の日記本『不在日記』を発売しました!(在庫僅少)
▼写真家の服部健太郎さんとやっている聞き書きプロジェクト
▼友人ふたりと読んだ本について書いている共同マガジン