つながりの確からしさ
おばが亡くなった報せを受け、人生ではじめて、ひと月に二度地元へ帰ることになった。私はおばがだいすきだった。
通夜では受付の役割を与えられた。会場に入ってすぐのところに、会議室で使うような長机とパイプ椅子が二脚並べてありそこに座る。長机のうえにお盆みたいな容れ物が置いてあって、弔問客がやってきて香典をいただいたら「ありがとうございます」とそのお盆に重ねる。その後すかさず「こちらをお持ちください」と言いながら、香典返しをひとつ手渡す。ただそれだけの仕事だが、世話になっただいすきな人を送りだす儀式の場にいて、わずかでも自分にやるべきことのある事実がうれしかった。
受付開始から通夜がはじまるぎりぎりの時間まで、弔問客はほとんどひっきりなしに訪れた。香典袋には住所と名前が書いてある。ときどき名前ではなくて「◯◯一同」みたいに団体名の場合もある。ご近所の人、かつての職場の同僚、おばが参加していたさまざまな「会」の人。ほかにも私にはわからないつながりの人がたくさんたくさん来る。おのおのが祭壇の上でにっこり笑うおばの遺影を眺め、目を細めてしずかに思ったり、一緒にきた人と懐かしんだりしていた。
隣で受付をしていた母と、おばちゃんってやっぱり人気者だったんだねーと言いあった。自分が死ぬときにもこんなにたくさんの人が来てくれるものだろうか。というか人が死んだことって、どうやってこんなに多くの人に知られるんだろう?
「人が亡くなったときって、お知らせの手紙とか出すの?」
「今回は出してないみたいだよ」
「じゃあなんで、こんなにいっぱい来るの?」
「救急車で運ばれたから、その後ご近所の方が様子を見に来て広まったり」
「ご近所以外は?」
「新聞のお悔やみ欄を見て来たんだと思うよ」
「え、お悔やみってどうやって……あ、こんにちは。はい、ありがとうございます、こちらをお持ちください……」
ひさびさに親に対して未就学児並みの質問攻めを食らわせている途中だったが、当然ながら周囲からは大人としての態度を期待され、それにしたがううちに疑問そのものがどこかへ去ってしまった。
その問いが再浮上して調べてみると、新聞の訃報欄というのは遺族または葬儀会社が代理で手続きして掲載されるようである。もちろんプライバシー保護の観点からあえて掲載しないこともできるが、どうやら私の地元では載せるのが慣習になっているらしい。だから“年頃”になった人たちは毎日きちんと訃報欄をチェックしているそうだ。なるほどなー。
それであることを思い出す。家族や友だちと、直に会って話しているときはすっかり忘れていること。その人が目の前にいないとき、たまにふと思い出すこと。広い世界で、この瞬間にこの場所でこの私がこの人と一緒にいることの、衝撃的、もろさ!
もちろんそれはみんなが気づいていることだ。この時世、ほとんどの友人の住所なんて知らず、多くの人の電話番号やメールアドレスも知らない。血のつながった弟でさえ、わざわざ本人に確認しなければわからない。頻繁にやりとりをするほうの友人でも、だいたいつながっているのはLINEかInstagramくらいのもので、漢字フルネームを知らないこともざらである。
いま、友人であること、知り合いであることとは、いったいどういうことなんだろう。別に住所や電話番号を知っているのが条件だとは思わないし、どちらも変えようとすれば変えられるのだけれども。なんかこう……つながりを絶とうと思えばすぐにでも絶てすぎる。ちょっとさすがに、身軽すぎやしないか。
いや私自身その身軽さを求めてきたのではなかったか。あんなにしがらみを嫌がって田舎の小さく濃密なコミュニケーションを抜け出そうと奮闘してきた人生なのに。学校で私をいじめた人たちや、それを黙認した教師たちとはもう絶対死ぬまで会いたくないのに。それなのに、かんたんに絶てないつながりにもあこがれ、思い立ってLINEで「友だち整理」するような人のことも理解しがたい。論理が破綻している。
でも人と人が無意味に出会いつながったことのかけがえのなさを、道を歩いて引っかかったクモの巣を面倒そうな顔で払うみたいに、造作もなく切ってしまっていいものだとはどうしても思えない。私は論理の破綻した人間なのだ。今後一生会わない人たちとのつながりを、奥の部屋の小さな引き出しにしまってある。もう二度と取り出さないとしても。
訃報欄について調べていたら、電波だけでつながっている関係の不確かさがとつぜん目の前に迫ってきた。きっと今後もなにかのきっかけで何度も迫ってくるだろう。そのたびに私はそのことをはじめて知ったかのようにびっくりして、不安になってしまうのかもしれない。
あの日たくさんの弔問客に礼を言いながら、おばの築いてきたつながりの確からしさを何度も感じていた。数学で「確からしさ」とは確率のことだ。人間関係の確率はどんなに確かに見えても見込み、可能性でしかない。どこまでいっても100%にはならず「確からしい」止まりである。それでも直接知らせていないのに、故人を気にかけ都合をつけ、寒い日に喪服をまとって方方から知人が駆けつけてくる確かな現実を、おばは私に見せた。私もおばのように生き、確からしいつながりをできるだけ確からしくしたい。
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