雪国の幸福論

 この冬の雪は深い。年始に帰省する前からうわさには聞いていたが、実際足を踏み入れるとよくわかった。年に一度か二度、青森に帰るだけの私だが、ここ十年くらいはこんな雪の積もりかたを見ていない気がする。実家の庭に積まれた雪の山は二メートルをゆうに超え、窓からお向かいの家がすっかり見えなくなっていた。高く真っ白い壁が家のまわりをすっぽり囲ってしまって、家から出たことのない人間が存在したならば、この白の向こうに同じ世界が続いているとは思えないかもしれない。壁の外に人を喰う巨人がいるとか教えられたら、その人はきっと信じてしまうだろう。

 外に出ると、街じゅうあちこちにでっかいでっかい白の塊が我が物顔で鎮座していて笑えてくる。こんなに雪がスペースを支配しているのに!? 市民の生活がなんとか成り立ってるの!? 急にどんどんおかしくなってきて、笑いごとじゃないんだけど、なんか……すごすぎない??? それを運転席の弟(地元在住)に話すと「たしかに、冷静に考えたら異常すぎてウケるな」と言いふたりでしばらくすげえすげえと笑った。冬以外の季節にはがらんとして無駄に広すぎると思っていた道路や駐車場は、このためだったのかと思い知らされる。

 道幅もせまいが路面の方も大変である。行政による除雪作業が入っていない道を車で走ろうとすると、ジェットコースターの何倍もたちが悪い。酒を飲んだあと腹いっぱいまでラーメンを食べていたりしたらたぶん吐いちゃう。でこぼこ、の漢字は「凸凹」と書き、その字面を見るといつも凸の盛り上がりと凹のへこみの差というのはとても大きいなあと思うのだが、除雪されていない雪道のでこぼこは本当にそれくらい凸と凹のギャップが大きい。

 轍にタイヤがとられ、一度溶けた路面で前にも横にもすべり、みんな怯えるように車を運転している。徒歩みたいな速度になってふだん車で二十分の距離は一時間以上かかる。それでも徒歩だと寒すぎてやはり車に乗るしかない。たった数日の帰省でも、これはれっきとした自然災害だと思った。食材を手に入れるにも病院にかかるにも人に会うにも車移動の地域だ。気軽に車を出せないだけで行動は大きく制限されてしまう。

 昔から、なんでこんなに大変な場所に人は住みつづけるのかと思っていた。私は青森がべつに好きじゃなかった。不便さだけの話ではない。これまでに何度も田舎的コミュニティへの嫌悪感を書いてきたし、私にとって雪はそれを象徴するものになっていた。度重なるしもやけで壊死してしまった足指の表面の皮膚をなぞりながら、学生時代の私は高く白い壁に閉じ込められた世界から飛び出す日を待ち望んでいた。戻る気などさらさらなかった。地元愛が強い人を見ると、田舎ライフがうまくいった側の人生でよかったですねと冷ややかな視線を送ってきた。

 もちろん地元のことは、完全に嫌いとも言い切れない。いい人もたくさんいるし好きな店もある。「~ささる」とか、水が滴る表現の「たちたち」とか、標準語にはないニュアンスをもった好きな津軽弁もいっぱいある。雪のことだってそうだ。新雪を足でギュッと踏む感覚とか、いろんな音が吸収されてしんとなる感じがとても好きだった。早朝に通学路でひとり音楽を聞きながら雪に包まれた時間は大切な記憶だ。

 インターネットを見ていると、青森に住んでいて「この雪景色を美しいと感じるか、地獄と感じるか」「なぜ私はこんな場所に暮らしつづけているのか」と書いている人がいた。手ばなしに地元が好きとは言えない、かと言って大嫌いというわけでもない。この愛憎入り混じる感情はやはり私だけのものではないらしかった。ふわふわと空からやってくる雪をすこし愛でながら、だけど生活上はがっつり敵対しなければならないような入り組んだ思いを、とくに解決することもなく、その人はただ抱えたまま暮らしている。

 問題を解決しないまま持っておく、というのがどういうことなのか、私は近年ようやく考えられるようになってきた。何か問題があるときにそれをなんとかしようとするのを当たり前だ、そうしないことは怠慢だと思えてきたのは、それだけ私が選択肢の多い恵まれた環境にいたことと、それに無自覚だったことのしるしだった。そしてなにより無知だった。問題を解決しないままでいるというやり方があることを、私は知らなかった。

 青森の雪は、雨からかろうじて転じたような東京の雪とはちがい、軽く乾いている。外を歩いて雪まみれになったって、すぐに手でバサバサとほろえば(払えば)ほとんど濡れない。それに雪道歩きに慣れれば、すべって転ぶ事態もそこまで多くない。ポイントは足を一歩一歩、地面に垂直に下ろすこと。高校時代までで更新が止まっているが、こうやって雪をやりすごすノウハウを私もすこしは持っていて、それがなんだか誇らしい。私の父もお向かいのお父さんも、挨拶がわりに「ほんっとに困ってまるいな(困っちゃうよね)」と空を見上げて文句を言いあいながら、毎日何度も雪かきや雪下ろしをくり返している。青森に住む人たちは、雪を解決しようとなんかしない。いや実際は“できない”のだけれども、解決しないままそこで暮らしている強さに今はちょっとだけあこがれる。

 椎名林檎はかつてデビュー曲『幸福論』のなかで「時の流れと空の色に何も望みはしない」と歌っているが、音楽的才能のみならず、十代ですでにそのことに気づいていた達観に、この曲を聴くたび新鮮におどろかされる。現在のところの科学技術では、誰も時間を止められないし雨を降らすこともできない。だからそれを望みもしない。こう言ってしまえば当然だけれど、そういう幸福のありかたに私はずっと気がついていなかったんじゃないか。望むと望まざるにかかわらず降り積もる雪のなかで暮らす苦しみを、ただそこから飛び出すことであっさりと解決してしまった私が、今も青森に住んでいる人に「なぜここに住みつづけるんですか」なんて訊ねるのは、あまりに軽率なたわごとだと思った。

 でもやっぱり住みたくはないなあと自販機で買った熱いほうじ茶をすすりながら、新青森駅の冷え切ったホームで東京行きのはやぶさがやってくるのを心待ちにした。




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