行きつけのおこがましさから抜け出して
大学生のころ、私は社会学を専攻していて、エスノグラフィー(民俗誌)やライフストーリーを中心とした質的研究が好きでした。初手からアカデミックな感じですみません。「質」の対には「量」がありますが、量とは数値化されたデータのことで、私は社会の、数値で読み取れない部分にとても興味がありました。かんたんに言えば、誰かが生活する場に入っていって一緒に過ごしたり、話を聴いたりして、社会やそこで暮らす人びとのあり方を探るようなことにハマっていました。
ところで、2023年6月から「さんたつ by 散歩の達人」にて1年間書かせてもらったコラム連載「あの人の行きつけ」が先日で終了となりました。1年間続けられたのは読者のかた、ゲストのかた、さんたつ編集部やその他支えてくださったみなさまのおかげです。本当にありがとうございました。
「あの人の行きつけ」は毎回私が気になった方にお声がけして、行きつけの飲食店に連れだしてもらい、一緒に飲み食いしながらお相手の暮らしや仕事についてじっくり話をお聴きする企画でした。『散歩の達人』で書くからには生活史的な側面だけでなくお店紹介も必要でしたが「誰かにとって大切な店」には情報としての価値もあるということで企画が通りました(感謝)。
飲食店と人とのかかわりをとおして、自分の知らない東京の暮らしにさわりたい、いまの都市生活がどんなふうになっているかを立体的に捉えたいと思っていました。毎月違う人と会い、話をして自分が何をどんなふうに感じるのかにも興味がありました。
連載中、12名のかたにご協力をいただきました。医師や弁護士から、デザイナーやオペラ歌手まで、なるべく幅広い職業のかたにお声がけしました。そのなかで2023年10月に登場してくれた酒場ライターのパリッコさんが、お店を紹介するときに「行きつけなんておこがましいんですけど」と前置きしていたのが、印象に残りました。
私には、行きつけなんておこがましい、の意味がよくわかりました。この連載を立ち上げたとき、私自身が行きつけの店をもっていないと自称していた理由もたぶんそこにあったのです。他に「飲食店の行きつけを作らないようにしているので、ごめんなさい」と取材を断られたこともありました。この、行きつけに対するちょっと過剰かもしれない敬いや抵抗感はどこから来るんだろうかと、毎月いろんなかたにお会いするなかで考えていました。
何ヶ月か続けるうちに、そこに来る他のお客さんとのあいだで生まれうる関係性が原因ではないかと思うようになりました。「ここ行きつけなんだ」と公言することは、そこへ来店する多くのお客さんのなかで、自分こそが常連客であると宣言するものだと、行きつけという言葉にそういうニュアンスを感じとっている。それは飲食店のもつ土着性と関係があると思います。
もっと前からもっと頻繁に通っている人が他にいるから、おこがましい。常連の輪に入ったらめんどくさそうだから、行きつけを作らない。どちらの感覚も私にはとってもよくわかるものでした。行きつけの店という言葉は、土着性をまとっている。それが畏怖や拒絶につながっているのです。
インターネットで「行きつけの店」と検索してみると、行きつけの店の作り方という記事がいくつか上がってきます。そこでは、ある飲食店を行きつけにするために「3日連続で通う」「ひとりで行く」などの店主に覚えてもらう工夫がいっぱい書き連ねてありました。店側に認識されていなければ行きつけではないとする前提は、行きつけ=常連のイメージを強く与えます。
いっぽうで、実際に取材を続けるなかで「行きつけ」をもっと気軽に使っているかたもいました。頻繁に行くわけではないお店を紹介してくれた人もいるし、ただ食事がおいしいとか、雰囲気がいいとか、暮らしのうえで便利だとかで選んだ人もいます。そういう人たちと会って話して、私は連載をはじめる前より「行きつけ」をかなり気楽なものとして捉えられるようになりました。店主に覚えられていなくたって、行きつけは行きつけ。行きつけに他者の承認はいらないのです。
行きつけ、に似た言葉で「かかりつけ」というのがあります。病院に用いる言葉ですが、最近ではこっちのほうがしっくりくるのかもしれないと感じています。多くの人は、かかりつけの病院をいくつか持っていると思います。風邪をひいたらX内科、虫歯ができたらY歯科、花粉の季節はZ耳鼻科というふうに、症状に合わせて行く先を変えながら、困ったときに頼りにする病院がいくつかある。
病院について「かかりつけとはおこがましい」とか「かかりつけを作りたくない」と感じることって、あまりなさそうじゃないですか。食事をしたり酒を飲んだりする店もそれでいいのだと思います。今日は胃が疲れてるからこの店にしようとか、誰かと話したいからあの店だとか、自分の“症状”に合わせて店を選んでちょっと元気になって帰ってくる。行きつけの店とはそういうものだったのです。
正直なところ、田舎暮らしではこんなふうには行かないでしょう。お店に来る人もお店の数自体も都市より限られているぶん、行きつけ=常連の構図が強くなりやすそうです。だからこそ、田舎の人間関係のせまさに嫌気が差して東京へ来た私は、行きつけの店をもっていなかったのだと思います。
でも少なくとも都市の生活では、「行きつけ」に対する土着的なイメージをもう少し薄めて考えてもいいのだと思えました。取材を受けてくださった12人のうち、現在進行系でお店の近くに住んでいる人は5名でした。残り7名は、店の所在地とは無関係にその店に通っているのです。12人の、12通りの行きつけとの関わりかたがあり、それは本当に多様でした。
冒頭で社会学の話をしましたが、この連載で私が都市社会の何たるかをわかったわけではありません。だけど大学卒業以来10年ぶりに、人の生活にわざわざ分け入って話を聴くことをしました。それで自分のなかにあった行きつけ像がちょっと崩れて、新しい見かたにたどり着くことができました。連載前は「行きつけをもたない私」でしたが、今は行きつけがいくつかあるなと思います。あと、純粋にいろんな人からいい店をたっくさん教えてもらえたよろこびが大きい! このような機会をもらえてうれしく思います。
実は編集部のかたから、この先も「あの人の行きつけ」続けませんか? と言ってもらっていたのですが、諸般の事情により元々予定していた1年のタイミングで一旦終了させてもらうことにしました。とにかく、はじめてのコラム連載をしっかり1年間続けられてよかったです。改めてみなさま本当にありがとうございました。
【よかったらお読みくださいシリーズ】
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