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「おおきくなったらのーべるしょうをとるんです」

 ノーベル賞を獲るものだと思っていた。私の存在は、伝記になるものだと思っていた。「頭がいい」と認められたかった。
 まさか、自分が動けなくなる日が来るなんて思いもしないまま、私は無我夢中でシャープペンシルを走らせていた。


 大学教授の父と公務員の母は、どちらも頭が良く聡明で、家で飛び交うちんぷんかんぷんな法律や政治の議論は、私の幼い頃のBGMとして記憶と共に再生される。まだ読めない漢字がたくさんの法律書を手に取って、ううむ、と読んだふりをして唸っては、来年にはわかるようになるだろうと希望を抱いた。
 「さすがご両親の娘さんだ。」と褒められることが増えた。小学校のテストは90点以下を取ったことがない。買い与えられた学習漫画は片っ端から理解できるまで読み漁った。中でも科学の本と伝記に虜になった。ノーベル賞を獲ることで伝記になれるなら、私も獲る。そんな安直な考えで小学校の将来の夢発表会で声高らかと「次世代のキュリー夫人になる!」と言った。笑われたが、絶対に叶えられると思っていた。ノーベル賞に1番近いのは頭のいい大学。日本で1番頭のいい大学は東京大学。それなら東京大学の理学部に行きたい。そんな単純思考で私は中学受験をし、近所で1番東大に近い中高一貫校に入った。
 成績は2番目だった。どうしても越えられない1番はさておき、私は2番目であれど周りからは一目置かれる存在になった。しかし、中学生2年生で化学の授業が始まると、計算の多さから途端に科学への興味が薄れていった。それなのにレポートは毎回S評価で、こんなに理解していないのになぜだろうと思っていた。
 自分の好きな教科の好きな単元を並べてみる。国語の要約と作文、数学の証明、英語の英作文と翻訳、理科のレポート、社会の新聞スクラップ。どうやら私は文章というものが好きらしい。長い文章を書くと必ず褒められていたし、下書きやプロットなしで決められた文字数を一発書きする、なんて能力もあった。そんな能力のおかげか、中学3年生の時に、アメリカのシリコンバレーへの起業家育成研修の切符を手に入れた。最終的にコロナウイルスで無くなってしまったが、それは私に文系学問への意欲を煽った。初めて書いた進路調査、第一希望の欄に「経営学部」と書いた。その頃、私は将来若き経営者として、高層マンションに住むものだと思っていた。

 ある日、高校に行こうと朝の目覚ましを止めようとすると、体が動かなくなっていた。どこも痛くないのに、なぜか布団に縛り付けられたように体が重かった。涙がポロポロと何も思っていないのに溢れて、フラリと倒れてしまった。
 そんな状態でも学校に通った。しかし、当たり前のように成績は2番目から15番目になり、36番目になった。どうした?と生徒も先生も口にした。そして、一部の人間の嘲笑が大音量で耳を突き刺した。私は勉強ができない人間になった。そんな私が生きることを私自身が許さなかった。何度も人生を止めてやり直そうとした。みかねた親が病院に連れて行った。親と待ち合わせした早稲田駅のホーム、オレンジ色の壁の小児精神科。付けられた病名は「双極性気分障害」だった。

 何もできなくなった。できなくなった自分は死ぬべきだと思った。毎日起きて、最低限のカロリーを摂って、眠って、薬を飲んで、また眠る。死んでいるのと同じじゃないか。高校はやめた。通わなくてもいい高校で1番になった。簡単すぎる卒業単位をとって、高校を卒業した。大学には行かなかった。行けなかった。時折近所のスターバックスに寄って、馬鹿みたいに甘いフラペチーノをゴクゴクと飲みながら本を読んでいた。キラキラした店員に舌打ちしそうになりながら、あんなキラキラ大学生にはなれない、と思っていた。
 それでも自分の劣等感が捨てきれず、高校2年生から細々と予備校に通っていた。志望校のところに、相変わらず自分のプライドに合わせた超難関校を書いて2年が経った。高校を辞めている私だ、予備校の集団授業など受けられるわけがない。どんどん足が遠のいて行った。
 それでも唯一、好きな授業があった。古川先生の現代文の授業だった。古川先生の教え方はとても的確で、頭にスッと入ってきた。ある日、古川先生はどうしてそんなに文章を深く読めるのだろうと気になった時、配布されたプリントの一部に先生の読書の趣味のことが書かれているのを見つけた。おすすめの本の欄に「現代思想入門」とあった。次の日に買って読んでみると、自分の見てこなかった世界が広がった感じがして心地よかった。これが、私と哲学の出会いである。

 志望校の「経営学部」を消して、「文学部哲学科」と書いた。しかし、前述した通り現役では受からなかった。でも哲学を学びたかった。将来役に立たないからと言われても、やってみたいことのひとつになった。「書くことが得意なら小論文で受ければいい。慶應義塾大学の総合政策学部ならやりたいことなんでもできるぞ。」そう言われて一般でも推薦でも挑戦したがそこには入れなかった。1年浪人した末、私は第三志望の大学に入ったが、病気は完治せず、2ヶ月で辞めた。

 こんな文章を書きながら、私は今慶應義塾大学のテキストを開いている。私は慶應義塾大学の哲学科、もっと言うと通信課程の文学部第一類に再入学した。もっともっと言うと、もうすぐスターバックスに入社して1年が経つところだ。もっともっともっと言うと、私は今文章を書くこともしている。賞も時折いただける。私は、通信ではあるものの、スターバックスで働く文章力に長けた大学生になっていた。人生のどのタイミングでも、考えもしなかった。

 科学のような根拠のある考えが大好きで、回りくどいから嫌いだった哲学のような考え方は、人生を強制的にゆっくりにされた時、何故か大切にしたくなった。
 キラキラチャラくて嫌いだったスターバックスの店員も、私の元気がない時にそっと添えてくれたメッセージを見て少し見方が変わった。段々と、彼らに憧れを抱くようになった。
 noteに出会って文章を書き始めてから、文章を認められる機会が増え、だんだん自分の自信を取り戻していき、やはり人生において文章は欠かせない存在となった。

 小学校の将来の夢に「東京大学に入る」と書き、発表会で「ノーベル賞を獲る」と叫んだ少女は、生き急いで転び、何度も人生を諦めた。志望校の紙を破れそうなるまで書き換え、何度も何度もプライドを折られ、それでも果敢に自分の能力を信じて挑戦し、自分の人生を模索した。
 思っていた形ではない。決して頭のいい人間として認められたわけではない。しかし、小学校の頃の私が見たら期待外れかもしれないけれど、私は今意外と楽しい生活を送っている。有意義な回り道であった。のんびりコーヒーと哲学の生活に浸り、ゆっくりと生きている。

 今はノーベル賞のトロフィーなどいらないから、誰かとゆっくりコーヒーを飲む時間を大切にしたい。

#想像していなかった未来

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