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放課後のマクドナルドの味を知らない私は
はじめに
何度も何度も、この文章を書いては消して、書いては消して、を、繰り返しました。書き始めたら涙が止まらなくて、震えが止まらなくて、息は浅くなり、心臓がぐちゃりと音を立てて脈動し始め、どうしても途中で諦めてしまうからです。そのくらい私にとって、この感情や記憶を文字に起こすというのは体力がいる。だから、私はずっと自分自身から目を背けてきました。
昔から言語化は得意な方だからこそ、自分の感情が脳内で鮮明な語感で残ってしまうのが嫌でした。吐き出せたらもっと楽なのに、と思っていたけれど、少なからずそれで嫌な思いをする人が一定数いるということを知っていたので、いや、「知ってしまって」いたので、話すことができませんでした。この文章を開いてくれている人は、それを覚悟の上で開いてくれていると信じて、私はサークル帰りのバスの中、揺れる画面に少し酔いながら、幾人からの好意が切り捨てられる覚悟と、好奇の目が向けられるかもしれない恐怖と、それでも自分のことが少しでも公になって欲しいというエゴで、フリック入力をしています。
読者の皆様へ。この文章は自己満足です。記憶は完全に悪い方向に捻じ曲げられています。完全なる私の自己中心的な欲望で書き始めたこの文章を最後まで読んだ時、どうか私のことを「かわいそう」と言わないでください。いつものようには見れなくなるかもしれないけれど、覚悟の上で書いています。私が言葉に詰まる理由も、息が途切れる理由も、変に馴れ馴れしい理由も、全部ここに書きます。最後には私のことを、「それでもかわいい」と言って、心の中で私の頭をぐしゃぐしゃ撫でてください。それだけで、私はこの5年間が、無駄にならない気がするから。
真面目よりもずるがしこさが面白い
幼い頃から完璧主義で、大真面目な人間でした。与えられた宿題、公共のルール、期限、期日、お酒の一滴、タバコの香り、全てにおいてルールを守って過ごしてきました。保育園の頃から、偉いね、すごいねと褒められていました。だって、どんなルールも破らないんですもの。偉いね、偉いねと言われた私は、真面目に生きることこそが、人生において大事で、大成功の秘訣だと思っていました。今思えば間違いではないのですが、その頃私は気づかなかったのです。偉いね、と言ってくれている人間は、全員大人だってことに。
同年代、というと分かりづらいのですが、要は一般的な若者はそういったルールをずる賢く掻い潜り、それを楽しんだり、自分の中の優越に浸ったり、友人と楽しい時間を共有していたようです。私はその感覚が理解できなかった。小学校高学年ともなれば、私と周囲の若者との間には認識の乖離がありました。先生に怒られるのは怖いし嫌だからルールを守る私と、先生に怒られてもいいから自分の楽しいことをやって、指導には反発して友人たちと愚痴を言い合う若者。楽しいのベクトルも倫理観も違いました。
少しずつスクールカーストのような、階層のようなものが現れ始めた頃、上位にいたのは何故か(と、当時は思っていました)ずる賢い若者でした。彼らはとても楽しそうに学校に通って、生活を謳歌していました。当然ながらルール遵守で彼らに気に入られていなかった私は、クラス全体で先生に怒られた時に先生を呼び出す係、提出物の期限をまとめる係、幾つもの問題を起こしたことをうまく隠して報告する係でした。今思えば都合のいい話です。でも私は、それでも私は、いつもあんなに馬鹿にしてくる彼らが少しでも私にお願いしてくるのが嬉しかった。だから、大人に頭を下げました。自分の責任だと言いました。そうすれば、上位の若者はありがとうと私に言ってくれたから。頼れるね、と今では笑顔とは思えない表情で。
頭がいい、頭はいい
中高一貫校に通っていた私は、そこそこ勉強ができました。そりゃあ、予習復習のルールを守り、宿題をきちんと出し、テストもめちゃくちゃちゃんとやっていたので。定期テストは大体10本の指には収まる程度の成績でした。
そんな私をみんな頼ってくれました。たくさんの同級生にいろんな教科を教えました。みんな「ありがとう!」と言ってくれたから、やり甲斐がありました。勉強をきっかけに増えた友達もたくさんいました。
でも、私はいわゆるグループのような、固定の友達と出会うことができませんでした。みんな、なんとなく話せるけど、なんとなく話しづらい、というようなスタンスをとっていたからです。修学旅行の班を決める時、「この子と同じは嫌だ」と泣いた女の子の取り巻きに、「彩ならいいよね?」と入れられたことがありました。私は自我を持つことが許されなかったし、自我を持ったら殺される、そんな思いは頭にこびりつき、どんどん発言できなくなっていきました。
ルールの掻い潜りを楽しめなかった私は、輪の中にも入れてもらえず、楽しさの共有もさせてもらえませんでした。いつの日か、若者と話す時はこころにグッと力を込め、必死に話題を噛み締めて、この話題でどんな会話がどのくらい展開されるかを予想しながら、恐る恐る口に出すことが多くなりました。
「学校来いよ^_^」
ある朝突然、学校に行こうとした時身体が動かなくなったのです。学校には授業もあるし行きたいはずだったのに、布団に体がこびりついて動かない。そんな日々が1週間続きました。自己嫌悪でどんどん気分が落ちていったのを覚えています。
診断結果は、躁鬱病でした。
完璧主義の私は一度行けなくなった学校に復帰することはなかなか難しいことで、あの、2限が始まっている教室の後ろのドアをガラリと開けた時、ジトっと絡みつく視線に耐えられませんでした。
そんな中、定期テストの時期になり、勉強不足の私は足の指を合わせた順位にも入りませんでした。
「髙橋どうしたの?」
若者はニヤニヤしながらこちらを伺っていました。なんでだろう。なんで勉強ができないんだろう。悲しかったです。悔しかったです。そして、それを引き金にまた学校にいけなくなりました。
久々に行ったコンピューターの授業。体調不良で倒れてしまった私を皆見て見ぬふりをしていたこと。私のTwitterの監視アカウントが作られていたこと。私と仲が良かった友人が、人選ミスだと言われてしまったこと。体育祭は、自分のいない時間に集合写真が撮られ、お揃いのうちわは写真の輪に入ることなく机の上に置かれていたこと。体育祭のTシャツの寄せ書きには、こう書いてあったこと。
「学校来いよ^_^」
もう全部が限界になりました。
学校が大嫌い、若者が大嫌い、若者が話す内容もわからず、私は逃げるように学校を辞め、1人で生活するようになりました。
消えない青春コンプレックス
今でも私は、制服姿の若者を見るとドキっとします。あの頃の記憶が蘇るだけでなく、私とは話せない「若者」にひれ伏さなければいけないという焦燥感で心が落ち着かなくなります。そして、若者を若者として謳歌している彼らに、大きな劣等感、コンプレックスを抱きます。
「私が歩めなかった学校生活、私が歩めなかった人間関係を全て歩んでるんだ」
そう思って悲しくなります。私にはもう帰ってこないあの数百数千の時間は今どこに流れているのでしょうか。
「可哀想だね」と言われることが増えました。可哀想な人間になれば、私は1つのキャラクターとして生きられることを知りました。だから、自分で自分を可哀想だと自称するようになりました。悲劇のヒロインになることは、反感を買う反面、みんなが守ってくれる、そう思ったからです。青春コンプレックスは消えないロープのあざとなり、私は全日制の大学を諦めて通信制へと行きました。
チャイムの音、授業の話
全日制大学のお笑いサークルに入った私は、大学構内を出入りすることが多くなり、大学生、「若者」と関わることも増えました。今でもチャイムの音を聞いたり、授業終わり団体で出てくる生徒を学内で見ると、ヒュッと心のあざに冷たい風をかけられたように、足がすくんでしまいます。
サークルの若者なんて、本当に全員キラキラして見えます。目の前にすると声が出ない。だから擬態するのです。「若者」に。気軽に声をかけ、話題を少しずつ察知し動き、ただただ、迷惑と不快感を与えないように動く。サークル終わりはいつも、剥がれた仮面の破片を拾いながら、ゼエゼエと息を切らしていました。
私はどうやったら若者になれるのでしょうか。名前を覚えてもらっただけじゃ仲良くなれないらしい。そんなことを知ってから、私は人と仲良くなる方法に苦しみ始め、どんどんどんどん頭が痛くなってきて、またサークルを離れようか悩んでいます。私にとっては、いつ攻撃してくるかわからないなにかに囲まれて、とんでもなく怖い状況の中、必死に、手探りで、自分というものを誇示しているということ。苦しいよ、と、思います。
それが今の全てであり、これからのすべてになりうるかもしれないこと。
おわりに
ただただ、友達が欲しかった。同じくらいに育った人間と、隣で肩を並べて語らう時間なんて私には与えられませんでした。今、それが欲しくてもがいています。でも、うまくは行かなくて、自我を殺しても自我があると言われ、悪口なのかいじりなのか、私には分別のつかない言葉を投げられ、信じれると思った人に過度に懐いて離れられ、それでも自分が「やりたい」を求めて、始めたのが学生芸人です。
病気が可哀想とか、境遇が可哀想とか思って欲しいわけではなくて。ただ、ただ、なんで自分が上手く話せないのかを言語化したかった。なんであんなにグループに怯えてるかを、懐くといやに馴れ馴れしいのかを、言語化して残しておきたかったからです。
私のこれからが、少しでも若くて青いものになると信じて、痛くて尖ったことをしてみる。それが、高校時代家から出られなかった私への、唯一の若さの還元方法だから。