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絶賛対照実験中

最近、人といるとひどく疲れるのだ。
自分の時間がないと、空間で一人の時間がないと、
気が狂いそうになる。
自分の機嫌を自分で取れなくなる。

私の中で、コロナの残した弊害は大きかった。
好きな人とだけ、本当の意味で気の合う人としか
関係を築かなくていい時間が長かった。
そしてその環境に私は完全に飼い慣らされたと思う。
ぬるま湯だったのだ。

大学時代、サークルの仲間と海外に行ったとき、彼らの何気なく口にする一言が許せなかった。
先週末、会社の仲のいい数名で海外に行ったとき、何故そんな発言を平気でするのか?と思って、心が沈んだ。

人とずっと空間を共にすることで、
自分の心に余裕がなくなっていく実感はある。
付随して人の発言にひどく過敏になっている自覚もある。
だが、人とずっといる、ただそれだけではない気がする。

街の匂いを嗅いで、「くさい」
物価を見て「安い」
食べ物を食べて「まずい」

私も時には口から出ていることもあるだろう。
言葉は正直で、吐いた言葉は戻らない。

ただ、私達が観光で行っているその国に、
平気で「くさい」「安い」「まずい」、
そう言っている国に、
生活をしている人達がいる。

その空気の匂いが生活の一部の人がいる。
その物価の中で精一杯生きている人がいる。
その国の食べ物を「おいしい」と思って食べている人がいる。

どうして私達はこんなちっぽけな想像を働かすことが出来ずに
平気でこんな言葉を吐いてしまうのだろう。

知らない国だから、日本語分からないだろうから、
じゃあ思ったことを何でも口に出して、いいわけがない。

「そんなことを言わないで欲しい」
「日本語が分かる人が近くにいるかも知れないのに」
「あんな発言をする人と同じグループだと思われたくない」

特に、「あんな発言をする人と同じグループだと思われたくない」
その思いは強い。

そういった発言をする人に対して
咎める勇気もない小心者のくせして
「私はそんなこと言ってなくて、この人たちと考えは違ってて」
そう必死に心の中で弁明する。

「自分の事を思いすぎる。
でも実は自分を思うことが自分を滅ぼすこと。
人を思うことが、本当は自分を思うこと。」
2代目桂枝雀さんの言葉だそうだ。

分かってはいる。自分可愛さで、
自分の事しか見えていない。

今年の夏は、大学時代の友人たちと台湾に行く。
少なからず、上記で述べたような発言は迂闊にしない人達だ。

そんな友人たちと行く国でも、私は
同じことを思うのだろうか?

これが私の疑念。
「誰かと旅行に行くともれなくこういう気持ちになる」のか
あるいは
「信頼している仲間との旅行なら楽しめる」のか

自分の時間をもてない旅行の空間で、
今度の私は何を思うのだろう。

自分がおかしいのではない、そう思いたい。

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