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本を買う場所と気持ちの関係性/「旬」の話

町の書店が消えていく。

そのことを切なく、そして一大事だと感じる人はどれくらいいるのだろうか。

最近はメルカリで本を買うのが一般的である。

新品を書店でチェックし、メルカリで中古を購入する。

そんな姿を書店でよく目にするし、私もその一人であった。

だが、その行動をしたのはたったの2回。

今はまた、書店で本を買うようになった。

なぜか。

たしかに安く同じものが買えるのはありがたい。

しかし、手元に届いたときのなんともいえない温度差。

書店で本を手に取り開いて「読みたい」とときめいたときの気持ちと、手元に本が届いたときの気持ち。

そこにはかなりの温度差がある。

実店舗でものを買う方が幸福度、満足度が高いということとも関連しているかもしれない。

が、それ以上の何かが関わっている気がしてならない。

以前、吉本ばなながテレビ番組で次のようなことを話していた。

本を書くときには、「今これを書いて」と声が聞こえる。そのときすぐ書けばいいのだけれど、忙しかったりして書けないことがある。しばらく時間が経ってからようやく書こうとすると、その声は「もう遅いよ」と言う。書く内容には「旬」みたいなものがあって、それを過ぎるともう書けなくなってしまう。

言葉は少し違うが、このような内容だった。

目には見えず形のない何かが、吉本ばななの小説を生む。

そのときにしか書けないものを吉本ばななは「旬」という言葉で表した。

書店での温度差について考えたとき、ふと吉本ばななのこの話を思い出した。

本にふれた書店での気持ちは「旬」なのではないだろうか。

書店にいた自分と、メルカリで購入し届いた本にふれたときの自分は、別の人間だ。

細胞は入れ替わり、考えや価値観、気分、気持ちなど何もかもが違う。

書店にいたときの自分には必要だと感じたものも、数日後には必要ではなくなっている。

その日の自分はそこにしかいない。

出会えたかもしれない本や体験、感動は二度と戻ってこない。

だとしたら、書店にいた自分の気持ちはもっと大切にしたらよいのではないだろうか。

そして私はまた、書店で本を買うようになった。

原田マハの『<あの絵>のまえで』を手に取った。

これが今の「旬」らしい。

町から本屋が消えていく。

蔦屋書店や紀伊国屋。

今私の住む地域にある書店にどうか消えないでほしいと心から願う。

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