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ミラクルな生徒さん

昨日イリヤンが私の生徒さんの歌声を聞いて、小さな声でこう呟いていました。『ミラクルだよ。』と。

続けて、『君の中にこんなに素晴らしい声と、音楽が眠っていたなんて。』と驚いていました。

私が彼女を指導し始めたのは、今から12年前のことになります。当時の私はフランコの下で学びながら、ようやく発声が落ち着いてきたかな、という頃で、歌の先生としては駆け出しの時期でした。それ以来10年以上、彼女は週に1回のレッスンを受け続けています。

彼女について簡単に紹介すると、私に習い始めた当時、彼女は20歳になったばかりでした。音楽家になりたいというわけではなく、音楽大学にも行っていませんでした。けれども音楽に憧れがあって、毎週教会でオルガンを弾いたり、コーラスで歌ったり、音楽を純粋に楽しんでいたようです。その後も音楽家になるという道は選ばず、現在はニューヨークで中学校の先生として働いています。

そんな彼女を指導する上で、私の中にも迷いや葛藤がありました。彼女は音楽家になりたいわけではありません。普通の先生だったら、簡単な発声練習をして、彼女が歌いたい曲を歌えるようにして、彼女を喜ばせたり満足させたりするのだと思います。でも私はそれをしませんでした。一時的に楽しい時間を提供しても、それは彼女の歌が上達することにはならないからです。

そこで私は、プロの音楽家を育てるのと同じように指導しました。なんならそれ以上に厳しく。彼女が良い声の持ち主であることはわかっていたけれど、教会で合唱を歌っていたときの癖が根深く、変わっていくのが難しい生徒でした。

けれども根気強く、体の使い方、喉の使い方、イタリア語の発音、音楽表現、演奏におけるマナーまで、全て教え込みました。サウンドを生み出す直前の体の使い方だけで、40分くらいかけたことも何度もあります。

毎週レッスンを受けていても、彼女は学業が忙しく、練習時間がほとんどとれない時期もありました。プロになろうという目的がなければ、音楽へ注ぐ時間は、優先順位が下がるのも当然です。週に1回私と歌の練習をする、それくらいのモチベーションだったと思います。けれども彼女にとっては、遊びではなく真剣に音楽に向き合える良い時間だったのだと思います。

私の中には、プロにならないのにこんな細かな基礎を学んだところでなんになるんだろう?という気持ちもなかったわけではありません。でもそれは彼女が選べばいいわ、と思っていました。嫌ならやめればいいと思っていました。

彼女が出産をするとなったとき、『あ、これが歌を離れるタイミングなのかな。』と思ったこともありました。仕事に加えて子育ても始まったら、きっと趣味の歌に使える時間もなくなるだろう、と。私もそれで良いと思っていました。ところがすぐに、『出産しました。歌のレッスンをお願いします。』と彼女は連絡してきたのです。私がニューヨークを離れてもそれは変わらず、オンラインでレッスンを継続してきました。


音楽家を目指す人にとって、基礎を学ぶということは、多くの苦労を要するプロセスです。けれども彼女にとってはそれが、「ただただ楽しいこと」だったようです。私はそれに毎回驚かされていました。多くの生徒は、できなくて落ち込んだり、悔しがったり、イラッとしたりします。けれども彼女にはそれが一切ないのです。なんなら私の方が、彼女に対して怒ることがありました。そこでも彼女は、言われたことを淡々とやる、という姿勢でした。

彼女に欲がない、というのも良いことでした。彼女にとっては歌が上達しようがしまいが、人生が揺らぐようなことではありません。今できることをただやる、一生懸命楽しんでやる、という心の余裕が彼女が成長できた理由だと思います。

12年の間には、うまくいかない時期、絶望的な時期の方が多くありました。レッスンを聞いていたイリヤンが、『彼女には歌は無理だな。今世ではまず歌えるようにならないだろう。』そう言っていたこともありました。悪口ではなく、これが彼女の限界なのだろうと。私もそう思っていました。

それでも私が彼女の指導をやめなかったのは、彼女がとても気持ちの良い人だったからです。純粋で正直な彼女と過ごす時間は、私に良い影響を与えてくれました。なにより、私の指導力がグンと上がったのは彼女のおかげです。笑 できないことをできるようにするための言語化が上手になりました。

イリヤンも彼女に、『路子が今君に教えていることは、彼女がフランコから習ったことだけじゃないよ。路子が編み出した独自の方法で教えているんだよ。』と言っていました。12年間の間に、彼女だけではなく私も成長したということです。


昨日彼女が、素晴らしいサウンドとテクニックで、イタリア歌曲を歌い上げているのを聞いて、感動してしまいました。そこで、すぐさまイリヤンを呼んで彼女の歌声を聞いてもらいました。

「プロと言われてる人なんかよりもずっと上手いね。」とイリヤンは言っていました。「僕はハッピーだよ。君のためにもハッピーだし、君の家族のためにもハッピーだし、路子のためにもハッピーだよ。」と。

けれども、ここからが新たなスタートです。ここからようやく音楽を理解するということが可能になるからです。

そして、ここでもイリヤンが彼女にいつもの言葉をかけていました。

『昨日を繰り返してはダメだよ。今日という日を新しい気持ちで過ごしていきなさい。』と。

この言葉の意味が理解できるようになったとき、私たちは大きく成長できるのだと思います。

今日はこの辺りで。
最後まで読んでくださってありがとうございます。




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