できていないことが露わになる
古武順子さんのリサイタルへ向けて、全ての曲目がなんとか形になってきました。
さらにそこからどれだけ質の高いものしていけるか、そんな段階に入ってきた頃の様子についてのお話です。
本気モードで発声に向き合いながら、リサイタルの曲の準備もしていくというのは、日々自分との闘いです。
この時期は、今まで上手くやれていたと思っていたことが、実はそうではなかった、ということが次々と明らかになっていくときでもあります。
多くの生徒さんたちは、いかに美しく歌うかということを教えられてきています。それは言ってみれば、ビルの基礎工事ができていない状態で、10階のリノベーションをしようとしているようなものです。
基礎である土台が整っていないうちから、美しく歌おうということばかりに気を取られていると、表面上を取り繕っただけの、小手先な歌い方にしかなりません。
小手先の歌い方というのは、粗を覆い隠すためのものです。技術のなさを、小細工で誤魔化してしまおう、というのが「美しく歌おう」の実体です。
たとえば多くの人たちがビブラートだと思っているものは、実際にはビブラートではなかったりします。ほとんどの場合が、喉の緊張を正しく保持できないために、揺れが起こっているだけに過ぎません。
偽物のビブラートで、なんとか音を繋いでレガートに聞こえるようにしたり、ピッチを調整したりしている人は多くいます。そして、一般にはこの小細工が上手い人が、歌の上手い人と評価されていたりします。
けれども、その小細工こそが「癖」そのものなのです。
だからこそ癖を取り除くためには、それが生み出されるに至った理由である、『自分をよく見せよう、失敗しないようにしよう、上手く歌おう』、といった虚栄心や恐怖心と向き合う必要があるのです。
レッスンで曲を深く掘り下げていくほどに、できていないこと、粗雑な部分が露わになっていきます。それは今まで覆い隠されて見えていなかったものが、見える状態になったということです。
けれどもそれは悲観的なことではありません。むしろ喜ばしいことです。それは、問題点を覆い隠していた癖が徐々に外れていっているということだからです。
順子さんが今までに超えられなかった壁というのが、まさにこの自分の問題点を露わにする、というところでした。いつも良くも悪くも、子綺麗に歌う癖があり、ボロが出るのを恐れて、本来の地の声そのままに歌うということがなかなかできませんでした。
子綺麗に歌うという癖が身についていると、それ以外の歌い方というのができなくなります。「綺麗に歌おう。」という考えは、自分を小さな枠の中に閉じ込めてしまうのです。
もちろん声楽家にとって、良い発声で美しく歌う、ということは大事なことですが、曲によってはそれだけではなく、さまざまな表現方法が求められます。
今回のリサイタルに組み込まれているスペイン民謡などは、地声に近い表現、喋るような表現、バラエティに富んだアーティキュレーションなど。声を使ってさまざまなことができなければ表現できない曲目です。
だからこそ今までの、無難に子綺麗に歌ってしまうという枠を超えて、自分の中にある色々な声の要素をひとつひとつ広げていく、ということが必要なのです。
『これで良いんですか?』
順子さんの中から本来の声が現れるたびに、彼女が言うセリフです。笑 それくらい、自分の中でなにか小細工をすることが当たり前になっているということです。
「これで良いんですか?」の後ろには、「こんなに雑に歌っても良いんですか?」という意味合いも含まれているようです。けれども、順子さんには雑に歌っているように感じていても、私の耳には全然雑に聞こえないどころか、なんならもっと雑に歌っても良いくらいのことだったりします。
遂に、今まで覆い隠されてきた課題点が露わになって、やるべきことがクリアになってきました。
そしてその課題は、リサイタル終了後への持ち越しとなる場合もあります。
けれども、前回のnoteにも書いたように、リサイタル本番がゴールではありません。本番はあくまで通過点のひとつに過ぎません。
今後への課題が見つかったことも、大きな収穫のひとつです。
『間違わないようにしよう。そう思っている時点で、もうすでに全てが間違っている。』
イリヤンの言葉です。
どこまで自分の中の壁を超えていけるか。順子さんの挑戦は続いていきます。
最後まで読んで下さってありがとうございます。
今日も良い1日を😊