ジャズ私小説 That old feeling
7年ほど前だろうか、近所のカフェに週5くらいで通っていた時期がある。
読書をしたり、譜面を書いたり、酔い冷ましにテラス席でアイスコーヒーを飲んだりこの頃からちょっとした物書きをやるようになったのでノートPCを持ち込み考え込む事もあった。
このくらい頻繁に通うと僕のような特徴に乏しい顔の人間でも店員さんに顔を覚えられ、自然と挨拶を交わすようになる。
その店員さんの中にいつも笑顔で僕に話しかけてくれる小柄な可愛らしい女性がいた。
その日の天気の事や僕がかけている眼鏡の事など、ただ僕は極端な人見知りなのでいつもすぐに会話は途切れてしまうのだが。
親しげに話しかけてくれるのが素直に嬉しかった。
ある雪が降る酷く寒い冬の日、僕は都内で酒を軽く飲んだ後に読みかけの本を読もうといつものカフェに入った。
いつも賑やかなカフェも雪の日ともなれば客は数人ほどで広々とした店内は閑散とし、暖房がよく効き洒落た音楽が流れコーヒーの香りが立ち込める店内は、雪が降り続く窓の外とは別世界のようだった。
短髪の清潔で感じが良い店員さんが「コーヒーを熱くしましょうか。」と訊いてくれた。
その気持ちが嬉しく、僕はいつもより熱いコーヒーを受け取り席に座ったものの、猫舌の僕は熱いコーヒーに口をつける事が出来なかった。
大好きな物が目の前にあるのに手を出すことができない、なんだか僕の人生を象徴しているように思えた。
しばらくするといつも僕に話しかけてくれる小柄な女性が暇を持て余したのか僕の座る席の傍に訪れた。
当たり前の挨拶から天候の話やお互いの自己紹介、僕が読んでいた本の話。
雪が降り続き雑踏を白く染めるのを窓越しに見ながら、僕と彼女は色んな話をした、酒が入っていた僕はいつもより少しだけ饒舌だったかもしれない。
その日を境に僕は彼女とよく話をするようになった、と言ってもアルコールを摂取していない時の僕は酷く無口なので主に僕は彼女の話の聞き役だった、彼女はよく話しよく笑った。
僕たちが親しくなってから幾つかの季節が流れ、彼女は少しずつ大人の女性への階段を登り、僕は中年への階段を転げ落ちていった。
あるよく晴れた春の日の昼下がり、僕はいつものカフェで読書をしながらコーヒーを飲んでいた。
僕を見つけた彼女がいつもの笑顔ではなく少し真剣な顔でうつむき気味に僕の側に歩み寄ってくる。
(いやいや参ったねオジさん、これってもしかしたらもしかすんじゃないの。)
(いやいやこんなところでオジさん照れちゃうよ、参ったねこりゃ、ついに身を固める時が来たか....。)
僕の傍にきた彼女が唐突に口を開いた。
「わたし今日が最後のお仕事なんです、今まで沢山お話しできて楽しかったです。ありがとうございました。」
ガビーン!という昭和な効果音が僕の中を響き渡った。
普段からあまり感情を表に出さない僕のような人間は、こういう時に強い。
僕は心の中で号泣しながら表情は冷静を装い、今までのお礼と労をねぎらい彼女と握手をした。
窓からは春の柔らかい日差しが降り注ぎ、少し目を潤ませる彼女は初めて会った時よりずっと大人の顔をしていた。
今でもそのカフェでコーヒーを飲んでいるとふと彼女の面影を思い出す時がある、でもその面影はいつもカプチーノの泡のように儚く静かに消えてしまうのでありました。