2019/3/5の日記
終わった。
台本から始まって、約1年4ヶ月。自分の初のフィクション作品となる自主映画、しかも長編。その最終書き出しをつい今しがた今始めた。
僕は何を作ったんだろう。言葉でうまく言えない。いや、言葉で言えないようなものをこそ、作りたかったんだろう。長かった。自分の無力さ、才能のなさを思い知った。現場も仕切れず、ロクに演出もできず、あらゆるものが遅延していく。絶対に終わらないといつしか思った。去年の映画祭では半分だけ出すという苦し紛れな馬鹿さを晒す。編集中あらゆる機械が壊れる。親と生まれて一番激しい諍いを起こす。父は「こんなふうにおまえがアホに育ったなら、生きてても意味がない」と言い、子息は「ああ、死ねよ」と言った。安倍政権の標榜する三世代移住の素敵な事例である。何もかもがうまくいかず、どうしていいのかもわからずいたずらに時が過ぎてまた冬が来た。終わるまで、ついに1年もかかったのである。
今日3/4は、丁度料亭しまだで最終シーンを撮った日だ。
書きたいことがある。以下、例によって長文を認めるのを許してほしい。
なんたって、20年分の思いがある。苦い記憶がある。まだ僕は20歳だった。
映画学校の生徒たちで自主映画を撮ろうということになった。僕はその中で一番若く、キャラ的におまえしかいないということで、なぜかプロデューサーとは名ばかりのただのお世話がかりに任じられた。まだ実家には金があり、映画を作りたいという息子の淡い夢に貸してくれたのだが、作家を目指す彼は、脚本も、演出も、カメラも、編集も、先輩らの「まだ早い」の一言でさせてもらえなかったのだ。そのとても小さな自主映画は、苦心して近所の子供達を集め、知り合いを敵ボス役にし、故郷の公民館の一室に、巨大な美術セットを夜なべして作った舞台が、ラストシーンであった。その夜なべしていた中には、今やカンヌなどで大評判を受ける作家になった同期のFもいた。そしてその壮大なラストシーンを撮り終えたのであったが、他の撮り忘れた映像を再撮影している時、カメラマンをしていたインテリの先輩は、「あ」と言った。彼はラストシーンを撮ったminiDVテープに、上書きをしたのだ。以来誰もこの映画のことを触れなかった。僕は家に数十人のキャスト、スタッフを泊め、あらゆるところに頭を下げ、あらゆることをし忘れ、親の古い友人や、知人たちに激しく叱責された。撮影班や演出の人間が勝手に敷地に侵入したり、無許可で横暴な振る舞いをしたからだ。よく覚えていない。自分がやっていいと言ったのかもしれない。完全に自分のキャパを越え、ただひ弱なサンドバッグとしてやってくるものに顎をあげるのみだった。ボランティアで映画を手伝ってくれた同級生らは、音頭をとった僕に怒りの矛先を向けた。誰も庇ってくれなかったし、同情を寄せすらされなかった。その学校は、学校法人ではなく、講師たちは生徒らを、一人の作家として扱おうとした。一人前となった人間なのだから、すべての責任はその人間にある。だが僕はそうであるには余りにもガキであり、世間知らずであり、若造であった。その学校の応募要項には、「最強のインディペンデント作家になれ」と書いてあった。僕はただ親に大きな借りだけ作り、何を得ることもなく、演出も、撮影もできず、ただ人々の怒りを買った。そして自主映画というものに対して絶望と、諦めと、ある種のトラウマを抱いたのだと思う。オカンに捨て台詞のように言われた。「あーた、映画映画やゆうて、そんなんごっこやわ。ただの遊びよ。映画ごっこ」と。(本当は標準語で)あれから20年経った。僕は徳島にいて、一人でドキュメンタリー映画を作り、結婚し、子供ができた。脚本も、演出も、キャスティングも、撮影も、編集も、考えられるだけのことはした。これが自分の「最強」への一つの答えだ。だが今は一人ではない。まず現場に付き合ってくれた四人の俳優がいる。そのうちプロとして仕事にする人間は一人だけ、あとは全員素人である。
主演の 俵 野枝 (Noe Tawara) は、mixiで繋がった人だった。狐の仮面を被り、フランスで舞踊をしている姿が記憶に残っていて、それを頼りに今回出演を依頼した。なぜか僕の一番古い友人と高校時代インドネシアへの留学生で一緒だったという奇縁もある。東京に行き彼女の舞台稽古を見に行った。あまりにも凄まじい演技に言葉を失う。この「弓子」という役を演じられるのは彼女だけだった。
助演の 増永 秀男 (Hideo Masunaga)は、僕が創作行為のすべてを諦めてから、もう一度クリエイティブに戻りたいと思い、若い子らにまじって入り直したデジハリの隣のクラスの人で、喫煙所でいつも一緒だった。そして、僕が恥ずかしいにもほどがある、1分間の映像作品で、初めて撮った人である。衣装もメイクもいない。二人とも個人所有の服で、この現場を続けてくれた。僕は一切の予定調和を排除した。現場は即興と思いつきのみ支配する。録音は混乱し、撮影スケジュールはぐちゃぐちゃになる。よく生き残ったものだと思う。日本舞踊協会徳島支部の支部長である鳴門の花柳淳吾先生は、出演はおろかご自宅がロケ地となることまで了承してくださった。いろいろなものをご馳走になり、言葉にならない愛情を向けてくださった。湊幸子に出会っていなかったら、僕は「鳴門アローン」をこの人で撮っていたかもしれない。そして神山のルーザー友達、野原 洋介 (Myosuke Nakamura)は彼しかできないぶっ飛んだ演技をしてくれた。本当は彼が主役の物語を構想していたのだけど、仕事もあってちょい役ででてもらった。美月さんをはじめとする料亭しまだの芸妓のみなさん。「出世ばらいでいいわよ♡」と言って、出世しなそうな僕のためにただでさえ忙しい店内でロケをさせてくれました。ロケハンとスケジューリングを手伝ってくれた島田寿郎。録音の応援に来てくれた小松崎。結構出演してもらったものの、編集で全部カットしてしまった村役場の西川パイセン(まじでごめん)。激ムズのグールドに挑んでくれた橋本君。その他大勢のエキストラの方に出演してもらい、様々な店舗や交通機関の内外で撮影させてもらった。ここには書ききれないが、本当にありがとうございました。
撮影現場も、編集の現場もずっと音楽家のHidetoshi Koizumiさんが付き合ってくれた。彼はこの映画のために、5つの新曲を作り、僕のあらゆる愚痴や悩みを聴き、荒れた現場でとられた荒れた音を、何回も何回も静音してくれた。頼れる兄貴であり、友人であり、心の友だ(と勝手に思っている)。そして弟子のお でん (Shou Miyamoto)。元弟子というべきか。追い詰められ続けた自分はカッとなり、小さなミスを許さなかった。僕は多分、20年前の自分と重ね合わせていたのだ。そして当時の大人たちが僕を扱ったのと同じように、彼を扱ってしまったのかもしれない。「俺の邪魔をするな」と自分は言ったらしい。バカなこった。こいつなしではこの映画の現場は絶対に回らなかったというのに。この4人と南田宮の旧小池邸で雑魚寝しながら撮影したことは、自分の記憶に一生残るに違いない。疲労で文章がぐちゃぐちゃだ。4人とは、のえ、秀さん、小泉さん、おでんの4人。無論映画は金食い虫だ。そしてあらゆるロケ場所がいる。ここで二人の人物に特別の謝意を捧げたい。徳島に来て、はじめて夜の街に僕を連れだしてくれ、そして映画のプロデューサー役を買って出てくれた、栂岡 圭太郎 (Keitaro Tsugaoka)さん。そしてその栂岡さんが、繋いでくれた四究会の小泉卓也会長である。映画の舞台となた佐古出身で、そこで会社も営まれている小泉さんは、僕の頭のおかしい提案を、ことごとく深い度量で受け入れてくれ、即座に行動してくれた。愛してやまない小池邸は、彼の親戚の御宅であった。感謝してもしきれない。そしてこのお二人を筆頭にした四究会のみなさんからは、ただいな支援を頂戴した。自分にできるお返しは、少しでもいい作品を作ること。大コケするかもしれないけれど、自分は上に述べたように、できる限りのことはしました。魂を削りました。徳島における民俗学的な研究の大先達、檜瑛司さんの残した『阿波の遊行』というCDからお鯉さんの歌と、いくつかの歌を拝借した。ご息女の檜千尋さん、CDをプロデュースした久保田麻琴さん、越路よう子さんは快く承諾してくれた。本当に嬉しかったです。もっと色々な方に手伝ってもらったはずだが、徹夜中で頭が回らない。最後に原案を考えるところから、常に一緒に悩み、考え、支えてくれた妻と、題字デビューをした長男。この悶々たる期間満足に父に甘えれなかったであろう娘、そして一年前に死ぬほど喧嘩をし、20年前に完成しなかった作品の最初のスポンサーとなってくれた両親に感謝をして、このクソ長い嘆息を終えたいと思う。そうだ。20年経って、俺はまだ「ごっこ」をできたのだ。最高の、イノチガケの「ごっこ」。なんだか今から死んでしまうような文だ。だが映画の宣伝という戦いは、今日から始まるのだ。というわけで3/9、阿波銀ホールで会いましょう。
長岡マイル
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