父の子供の頃、戦争の思い出
私は比較的、父母が高い年齢に差し掛かってから生まれた子供だったが、2人とも典型的な敗戦育ちだったので、、、太平洋戦争の記憶を直接持っている最後の世代の子供だ、、、と言えるかもしれない。
私の父は、東京、北区の出身だったが、父の父の父、、より前のシジマール家の人々は、、代々熊谷に住んでいた。明治維新で、職を失った父の父の父の父、は、わずかに残った財産を浪費して暮らし、それを数年で使い果たしたが、その数年後に父の父の父、私の曽祖父が生まれたころには、当然かなり生活が苦しくなり、、シジマール家は絵に描いたような貧しい暮らしをしていたらしい。その貧しい家に生まれた私の祖父は若くして、、というか、、15才で和服の組紐職人の丁稚に入った。道明、という、2022年の今も組紐を作りつづけているお店で働いていたらしいが、そこは横山大観がよく注文に来て、ちょっとした絵を描いては小僧だった祖父に色紙をくれていたという。しばらくとっておいたのが、祖父の家はのちに火事になってしまったので、その色紙も、焼失した、と聴いた。ちなみに、家は全焼したものの、誰も命に別状なく、怪我もなく済んだのは、シジマール家にとって不幸中の幸いだった、と思う。 祖父はその後、数年の修行の後、独立して自分で組紐を作って卸す仕事を始めた。昭和の初め頃のことだった、という。祖父が品物の納品で渋谷に行くと、まだ、本物のハチ公が生きていて、すでに、「亡くなった主人を待っている、、」というので有名だった、、というから、ハチ公というのはそのくらいの時代だったんだなー、、と、銅像を見るたびに思う。
ちなみに、この組紐の仕事は、うちの父も幼い頃からやらされていて、祖父の組紐だけで5人食べていくには到底間に合わないくらいに貧しく、、父は、自分の学費を稼ぐために、ものすごくたくさんの組紐を作ったらしい。父が選ぶ糸の配色は、祖父のものよりも人気があり、注文がよく入る傾向があったという。そんな中、デパートの催事で、どうしても、父が作成した配色の組紐の実演販売をしてほしい、と依頼があり、祖父からも、「いいお金になるから行ってこい、うちの宣伝にもなるし、、」と頼み込んだが、デパートの一角で人目に晒されて一日中組紐を作る、それだけは恥ずかしすぎるから絶対に嫌だと、断固拒否し、父はお金に苦労はしていたものの、最後までこのバイトには応じなかったらしい。
その後、大学を出て、普通にサラリーマンとなった父は、組紐を作ることはなくなった。それでもいまだに、当時の組紐の道具が残骸のように私の家にあるのだけれど、、、私は組紐は一切できないばかりか、、和服もほとんど着たことがないまま、組紐に縁無く大きくなったので、シシマール家の組紐の技はこうしてたった二代で途絶えた。
父の小学生時代の写真を見ると、私の幼い頃によく似ていて、血は争えない、と痛感する。父の少年時代は、小学校=国民学校のことだったわけだが、当時は太平洋戦争の真っ只中で、群馬県のN温泉に学校中で集団疎開していた。田舎だから比較的食料があったか、、といえばそんなことはなく、配られる乏しい食事だけでは到底足りなかった父は、東京にいた両親から送られてくる、わずかなおやつをひそかに寝床に隠して少しずつ食べていたという。が、あるときそれがきれいに全て無くなっているのに気づき、クラス1のいじめっ子に、一度おやつを食べているところを見られたことがあった父は、それだけでその子を疑い、大喧嘩に発展したらしいが、もちろん証拠がなかったため、後味の悪い結末になった、という。
そのうち、東京の祖父母から送られてくる食料もだんだんわずかになり、、、ついには何も送られてこなくなった。父は、迎えに来てください、と何回もハガキを出したらしいが、返事はなかったという。そうこうするうち、父は、長引く栄養失調で、体調が極度に悪化、ついに東京の親元に戻されることになった。東京は空襲が頻繁になり、、1944年11月以降は、、敗戦までに106回、東京は空襲に遭った、というから、戦火は激しかったはずだが、父は帰れるのがものすごく嬉しくて、空襲の恐ろしさはあまり気にならなかったという。そして、東京に戻って2週間あまり、3月10日、の日のこと、、、、、もともと、父のいた北区は東京のはずれだったので、それまで空襲があったときでも、被害はあまり出ていなかったらしいが、この夜だけは、火の手が家のすぐそこの横丁まで迫ってきて、木造家屋ばかりだった一帯はひとたまりもなく、家の上には真っ赤に燃える空が広がっていて、絶え間なく吹いてくる熱風に身の危険を感じたという。あまりの空襲の激しさに、「毎回こんななのー!!?」と驚いて私の祖母にたずねたら、祖母も「こんな空襲は初めてだ。。」という。それでも、空を飛ぶ米軍機に、地上から大砲で迎撃しているのが見えて、真下から見ると命中しているように見えたらしいが、飛行機が落ちることは決してなかった、という。戦争が終わって、ずっとずーっっと後になって、それら日本の大砲の性能を検証するテレビ番組で、横方向から再現した映像を見て、全く高度から何から、お話しにならないレベルで、日本の迎撃は無駄撃ちばかりで、全然届いていなかったことをその時になって改めて思い知った、、という。
こうして目と鼻の先にまで火の手が迫って、夜が明けたら、辺り一面、真っ平らな焼野が原で、かなりの人々が焼け出されたものの、父の家までは火は来ずに済み、父はそのまま東京に留まり、8月15日を迎えた。玉音放送は、私の祖父母と、父の兄弟3人とで聴いたらしいが、何を言っているのかさっぱりわからなかったものの、祖父が「日本が負けたんだ。」と言ったので、敗戦を理解したらしい。この時の話は、父からは2回くらい聴いただけだったけれど、、、なんか聞くたびに、私もそこにいたような感覚に陥るから不思議な感じがしたものだった。私が、この話を聞かされたとき、気になって父にたずねたのは、ラジオで、「敗戦」とわかって、シジマール家のみんなが泣いたかどうか、だった。、、父の記憶によると、、父の家と、薄い木の板一枚で仕切られていたお隣では、「日本が負けたのよ。。」と、お母さんと娘さんとで泣き崩れていたらしいが、、シジマール家の人々は涙をこらえるでもなく、特に強い感情に襲われることもなく、誰も泣かなかった、、ということだった。。なんか、、この話は、シジマール家っぽいな、と子供心に思った。
父はこのとき、小学校4年だったが、同級生の中には、兵隊にならずに済む、ということが、嬉しくて嬉しくてしょうがない子もいたらしい。これはきっと、「ぼくは、兵隊になって死ぬのだ」、、という一種類だけの生き方に定められているらしいことに非常なストレスを感じていた子供がいた、、ということなのだと思う。それが、敗戦で、急に、「それ以外の生き方もできる」、ということになって、その凄まじいプレッシャーがとれた喜びを語っていた子がいたのだな、、、ということに、私はしみじみとした。肝心の父は、、といえば、その子の話を聞いて、自分はまだ、そこまで人生というものを深く考えてなかったことに気づいた、という。父の感じ方を聞いて、「兵隊にならずに済む」、、と鋭く感じた子とは違い、やはり、シジマール家の人々は、凡人ぞろいなんじゃないかな、、、とも思ったのだった。父は、「神の国日本は不敗だ」、、等と学校でも聞かされて、それをそのまま信じていたが、「でもどうやって勝つのかな?」、、という素朴な疑問はあったものの、負けたら負けたで、「まあそんなものかな」、、と受け入れてしまったという。なんか、ここらへんの、何にも考えてないメンタリティは私にも強く受け継がれているような気がした。
そもそも、そんな神の国日本の運命よりも、もっぱら父にとって大問題だったのは、「戦争が終わったのだから、これでN温泉には当然帰らなくて済む、、」と思っていたのが、「東京の校舎も焼けたし、まだみんなが集団で帰るには準備が整ってないから。。」というので、翌年まで、引き続き授業をするために、再びN温泉に連れ戻されたことだった。「戦争が終わっているのに、疎開先に再び戻されたのは、拷問のようだった、、」、、という父だが、、戻ってみて驚いたのは、件の、クラス1のいじめっ子だった子が、空襲で親を亡くし、家も焼け出されてしまったら、クラス1のいじめられっ子に転落していたことだったという。。この話を初めて父から聞かされたとき、私は小学生だったのだが、、人間関係の不思議さを感じたものだった。。「クラス1のいじめっ子」が、力関係において転落したら、「クラスで2番手のいじめっ子」になるんじゃなくて、「一番下のいじめられっ子」になる、、なんて、、、、。しかし、子供のときは、不思議だな、と思ったこの話も、大きくなって、私自身の子供時代を振り返ったときに、やっぱり子供の世界に特有の過酷さを物語るエピソードが一つ一つ思い出されてくると、やはり不思議でもなんでもないことだったんだなあ、と、段々と腑に落ちるようになっていったのだった。。。
。。。しかし、なんで、突然、父から語られたこんな古ーいエピソードの数々を、ここに書く気になったのか、、自分でもよくわからなかったのだが、、、多分、これもリュープリンの影響なのかもしれない。。。と思っております。私は、40歳を過ぎたころから、「自分は子供を持たない人生になりつつあるな、、」と感じ始めていたのが、ここへきて、リュープリンで、確実に、子供のいない人生を送る運命になったことを今更ながら受け止めていくなかで、「父や母から聞かされた話、、というのを語り継ぐ相手がいないこと」を無意識に強く思うようになっていたのかな、、、と思います。だから、上に書いた話の数々は、もしも、私に子供がいたら、おそらく語って聴かせたかった類の話だったから、ここに書きたくなったのかも、、と思い至ったのでした。
駄文を長々と、最後までお読みいただき、ありがとうございました。。!