芸術と狂気



人類の大発明品、ピアノ。

目に見えない空気のきらめきや、暗い宇宙の深淵、はたまた、登ったこともないような高い山から見た展望、切なさを滲ませた夕陽、神秘的な喜びや、胸を突く悲しみ、はたまた日常の倦怠まで、なんでも表現できるすごい楽器。

しかし、いつの頃からか、ピアノの中には生きた魔物が棲むようになったみたいです。というか、魔物が棲んでるからこそ、この世の森羅万象を表現できるのかも知れないわけですが。。

ただ、この魔物は誰にでも現れるわけではなくて、呼び覚まして引き当ててしまった人にだけ現れるんですね。。

ピアニストという仕事に就いている方々は、皆、この魔物と対話されている方々かと思います。しかし、この魔物も、有名な巨匠なら必ず現れるかというと、そういうわけでもないように思います。また、誰かの演奏に一度現れたからって、頻繁に現れてくれるわけでもないように見受けられます。ある意味、有名なコンクールで優勝するより、ピアノから魔物を引き摺り出す方が難しいのかもしれない、と思ったりします。正直、私がピアノ音楽を聴きに行きたい気持ち、というのは、この、生きた魔物を見てみたくて、という思いがある、と感じています。私たちのような凡人が探しても絶対に見つけられない、実物を見ることは叶わない生き物。。カメラにも映らないから、当然写真も存在しないわけですが、、魔物の心に通じるような呪文がひらめくピアニストの演奏には、うわわわ!出た〜!ギャーッ!いる〜!!!って瞬間があるんですね。なので、個人的に、そういう魔物を探索していない、安心安全なところで弾いてる、魔窟に引き摺りこまれていないようなピアニストは、あまり好きじゃないです。 

そして、Yさんのリサイタルは言うまでもなく、あの、生きた魔物が棲息する、私たちが分け入ることのできない、魔窟の探索そのもの、、たとえ自分が聴き慣れた曲目であっても、常に、未知なる世界を垣間見るような怖さがちょっぴりあるのでした。もちろん、そんな世界を垣間見たくて行っているのに、いざそれが繰り広げられる瞬間になると、「これ以上鑑賞するなら、こちらも一緒に危険を冒して冒険しなくてはならない」ということに気づくのです。
  
これは、昔から自分のブログとか、いろいろなところに書いたことがあるのですが、よく、「芸術家と狂気」を結びつける発想というのがありますけれど、私は断固、その発想は否定したいところです。私たち凡人からすると、芸術家のインスピレーションが尋常でない感じがするので、そういう発想が出てくるのはなんとなくわかるのですが、精神科の病院に長年勤務している身の上としては、「狂気と芸術」には、さほどの親和性はない、というのが実感です。ではなぜ、そんな発想が生まれるか、というと、、やっぱり、素晴らしい芸術というのは、受け手であるこちらが、ちょっぴり心を狂わされてしまうところがあるからなのだ、と思います。そう、芸術家が狂気じみているんじゃなくて、芸術を通じて、こちらがちょっとした狂気に感染させられるのです。ピアノに棲んでる魔物を引き当てるような演奏には、聴いているこちらの心を狂わせるような何かが生じてくるように思います。どんなにかしこまった空間でも、魔物が出てきたが最後、気づいたら鼻づらを掴まれて、魔物の思うまま、自在に心が引き摺り回されているのです。もちろん、引き摺り回されるのは不快な体験ではなく、実は心があらゆるくびきから解き放たれて、自由になる瞬間でもあります。私が心惹かれるピアニストは、皆、音楽家でありながら、降霊術、呪術の使い手のような才があるように思います。

 

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