神々の憂い #1 (全16話)
◆あらすじ
恋人に裏切られ、仕事も恋も同時に失った志方灯は、氏神様と崇める朱里七福神社で、ヤク爺という名の老人を助けた。ヤク爺は、古事記の神話になぞらえ、失恋したばかりの灯を励まし、助けてもらった礼にと不思議な力を宿すといわれる御朱印帳を贈り、地域密着型のコンビニ「七福マート」で働くことを勧めた。
しかし、この七福マートには、犯罪者のような風貌の怪しげな常連客がいて、ヤク爺も何やら闇を抱えている様子。
御朱印帳のもつ不思議な力とは?
人々に忌み嫌われながらも、懸命に運命を受け入れようと奮闘する者たちの物語。
◆本文
第一章
123,456円。
真新しいスマートフォンの画面に表示された預金残高を見て「わーい、きれいに数字が並んで縁起がいい」だなんて、一瞬でも喜んでしまった自分の能天気さに呆れてしまう。
たった今、志方灯は会社をクビになった。いや、あんな会社、こっちから辞めてやったんだし、悲観する必要はない、という強がりとは裏腹に、全財産がこれっぽっちだなんてあまりにも心許ない。
家賃の支払いもあるし、どんなに切り詰めて生活したとしても一ヶ月だ。一ヶ月で底をつく。かといって、家賃が安いところに引っ越したくても、引越し費用が捻出できない。
解決策が見つからないまま、どどどっと押し寄せてくる現実に焦燥感を煽られて、一時停止ボタンを押したくなる。
「はぁー、八方塞がりだぁー」
朱里七福神社でお参りをすませたばかりの灯は、境内のベンチに腰をおろすと、時間が経つのも忘れて、ひたすらスマートフォンの画面を凝視していた。けれど並んでいる数字に変化はない。当然だ。画面を睨みつけたくらいで残高が増えるものなら、誰も苦労はしないし、そんなことができれば、それはもう人ではなく神の技だ。ハッカーにでもなれば、神でなくとも容易くできるのだろうか。いや、それはもう、まごう事なき犯罪だ。神様がおわす神社で考えるようなことではない。
わかってる。
でも、今、灯の底に渦巻いているのは、退職した清々しさとは真逆のドロドロとした黒い感情や謀ばかりなのだ。
「あー、ヤダヤダ。貧すれば鈍するだ。神様に謝ろうっと」
灯は、せり上がってくる弱音を打ち消すように、わざと明るい声でそう言うと、重い腰を上げて、お参りを済ませたばかりの拝殿へと向かい、再び手を合わせて、邪悪な思いつきを神様へ詫びた。
――今日は神様に謝ってばかりだ。
今から約三年前、就職と同時に上京した灯は、仕事を覚えるだけでも精一杯な上に、初めての一人暮らしと、二十四時間、三百六十五日、慣れないことだらけで、ぽきっと心が折れそうになっていた。そんなときに、会社近くにある、この朱里七福神社を見つけたときは、故郷にいる祖母が会いに来てくれたようなほっこりとした空気に包まれた。
「灯、東京のアパートに着いたら、近くの神社に挨拶のお参りに行くんだよ。氏神様に守ってもらえるようにね」
実家を離れるときに、信心深い祖母に何度も言われていたのに、就職したての疲れ果てた体では、近所を散策する気力はなく、言いつけを守ることができていなかった。そんなときに、会社近くで、同じ『あかり』という名前を持つ朱里七福神社を見つけたときは、「ここだ!」と嬉しくなって、東京の氏神様と思うことに決めたのだ。
一人暮らしのアパート近くではないけれど、会社の近くということもあり、出勤前やお昼休みのちょっとした隙間時間にお参りができて、かえって都合がよかった。
なにをお願いするでもなく、日々あったことを報告する。ただそれだけで、日々のささくれだった心が凪いでいった。
就職して最初の二年は多忙ながらも、平穏に暮らしていた。なのに数ヶ月前から不運続きなのだ。それはもう厄病神にでも取り憑かれたのではないかと不安になるほどに、小さなことから大きなことまで、悪いことが重なった。
仕事でミスをするのは序の口で、いやこれだけでも十分なのだが、気分転換にと美容院に行けば、前髪を短く切られ過ぎるし、クリーニングに出していたお気に入りのワンピースは、色落ちして戻ってくる。痴漢に遭ったかと思えば、次はクレジットカードの不正使用が発覚。クレジットカードの被害については、保険適用でことなきを得たけれど、そのあとすぐに季節はずれのインフルエンザにかかって、昇給がかかったプロジェクトのプレゼンには出られずじまい。
どうにかして不運の連鎖から抜け出したくて、厄除けのお祓いを受けてみたりもしたけれど、効果はなく、最後のトドメとばかりに仕事も恋も両方一遍に失った。
ここまで不運が続くと、家に帰ったら火事でアパートが焼け落ちていただとか、上階の水漏れで、部屋が水浸しになっていただとか、家まで取り上げられてしまうのではないかという、よからぬ妄想に囚われる。
無意識にため息が漏れそうになり、神様の御前でそんな失礼があってはならないと、慌てて呑み込み、気を取り直して視線をあげると、向拝の左右にある木彫りの龍が目に留まった。
「昇り龍と降り龍」
ふいに片瀬慎二の言葉が耳に蘇った。
七歳上の慎二とは、灯の指導係として、入社後すぐに出会った。新人研修を終えたばかりの灯の配属先は、花形部署であるまさかの広報課。
煌びやかな社員に圧倒され、上京したての灯は、自身の野暮ったさに対するコンプレックスを拭うことができず、居心地が悪くてしかたがなかった。けれど良くも悪くも平々凡々とした慎二が指導係についてくれたおかげで、いつの間にか劣等感が薄れ、周囲に溶け込むことができていった。
慎二はとても丁寧に仕事を教えてくれ、何度同じ質問を繰り返しても、決して怒るようなことはしない人だった。
入社から半年ほど過ぎたある日、灯は取引先へ詫びを入れなければならないほどのミスをやらかした。そんな時でも慎二は、嫌な顔ひとつせずに、灯と取引先に出向き、一緒になって何度も頭を下げてくれた。
そんな日の帰り道に、ふたりで初めてこの神社へお参りに訪れたのだ。
「あそこに見える龍は、天に昇る龍の姿と、天から降りる龍の姿が対になっているだろう? 強運厄除の『昇り龍』『降り龍』として崇められているんだよ。 『昇り龍』は、参拝者の祈りや願いを神様に伝え、『降り龍』は、神様からの徳を参拝者に授けると伝えられているんだ」
「ここにはよくお参りに来るんですけど、初めて知りました。詳しいんですね」
「亡くなった祖母の受け売りだよ」
「おばあさま?」
「信心深い人でね。今の会社に就職が決まったときに、ここは、厄除けの神様として有名だから、必ずお参りに行けって、うるさくってね。でも一度も来れていなかった。だから、実は今日が初めてなんだ」
そう言って、照れ隠しのように、人差し指でポリポリと頬を掻く姿が、なんとも可愛いらしく思え、年上の男性を可愛いと思ったのは、この時が初めてだったように思う。
「志方さんと一緒にお参りできてよかったよ」
そう微笑んでくれた慎二に、不覚にも心を持っていかれた。氏神様と崇める朱里七福神社でそんなことを言って貰えるだなんて、神の導きに違いないと、背中に羽が生えたように舞い上がった。
けれどそれから程なくして、慎二に抱いた恋心にブレーキをかけざるを得ない情報が社内を駆け巡った。
「片瀬さん、婚約おめでとうございます!」
片瀬慎二が専務のお嬢さんと婚約したというのだ。
慎二の誠実で真面目な人柄に専務が目をつけたのだろう。
その日の広報課は、お祝いムード一色となり、いつもにも増して煌びやかだったと思う。なのに、灯の目には、映るものすべてが、色褪せてくすんで見えた。
芽吹いた恋心は、すぐに間引きされ、あっけなく砕け散った。
今にして思えば、あのときの残骸をそのままにせずに、跡形もなくすりつぶして、トイレの水にでも流しておけばよかったと心底悔やまれる。
苛立ちが頭の中をぐるぐるし始めたそのときに、バサっとハトが飛び立つ音が耳につき、ハッと意識が引き戻された。
「あー、また女々しいことを――」
頭を左右に振って邪念を払い、これからのことを思いながら歩き始めると、参道脇の狛犬のもとで、一人の老人がうずくまっていることに気がついた。
慌てて駆け寄ると、着古したような粗末な草色の着流しをまとった老人が、青白い顔で苦しそうに狛犬の台座もたれかかっている。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、老人は目を瞑ったまま軽く右手を挙げた。
よかった、意識はあるみたい。
「持病はありますか? 救急車を呼びましょうか?」
灯は鞄の中かからスマートフォンを取り出して、119に電話をかけようとすると、老人が灯の腕を掴み、首を左右に振った。
「……大丈夫じゃ」
しわがれた声。青白い顔色や息遣いからして、どう見ても大丈夫ではなさそうだ。
「ご家族をお呼びしましょうか?」
そう声をかけると
「み、みずを……」
と絞り出すように声が聞こえた。
そういえば、六月に入ってここ数日は、雨降りばかりで涼しい日が続いていたのに、今日は久しぶりに太陽がギラついて、己の存在を存分に主張している。しかも明け方まで雨が降ったせいで湿度が高い。気温と湿度が一気に上昇したせいで、熱中症を起こしているのかもしれない。
「わかりました。待っててくださいね」
灯は近くの自動販売機まで走り、水とスポーツドリンクを買ってきた。熱中症なら、まずはスポーツドリンクの方がいいだろうと、ペットボトルの蓋を開けて、差し出すと、老人はゴキュン、ゴキュンと豪快に喉を鳴らして一気に飲み干した。
こんなに一気に飲み干して大丈夫なのだろうかと心配していると、灯が手にしている水のペットボトルを物欲しげに見ていることに気づき、慌てて水のペットボトルも差し出すと、それもまた一気に半分ほど飲み干し、少し顎を上げて、まるでクジラが潮をふくように
「ぷはー、生き返ったー」と声をあげた。
「急に、そんなに飲んじゃって大丈夫ですか?」
思わず、声をかけると
「いやー、面目ない」
老人は広くなったおでこをペチンと叩いて、くしゃっと笑った。
「二日酔いの身で、こんな老いぼれが、暑いさなかにフラフラと出歩くもんじゃないのぅ」
お酒が残っている状態で、この蒸し暑さは、さぞかし、しんどかっただろう。とりあえず、顔色もよくなってきたようなので一安心だ。
「歩けますか? あちらのベンチは木陰ですし、風も通って涼しいですよ」
ついさっきまで座っていた大木の近くに設置されているベンチを指差した。
「すまんのぅ」
老人は飲みかけのペットボトルに蓋をして、そろりと立ち上がると、器用に杖を使って、小さな体をペンギンのようにヒョコヒョコと左右に揺らしながら、ベンチの方へ向かって歩き始めた。
灯も慌てて後を追い、一緒にベンチに腰掛ける。
「ほぉー、ここは、風が通って気持ちいいのう」
わずかに湿気を含んだ生ぬるい風が柔らかく頬を撫でていく。まるで老人の体を冷やし過ぎないよう労わるかのように優しくそおっと。
「なにか、嫌なことでもあったのかの?」
突然向けられた問いの意味が分からずに、頭の中に疑問符が広がった。
「ずいぶん長いこと、このベンチで険しい顔をして座っておったようじゃでの」
「もしかして、私がずっとここにいたから、座れなかった……、のでしょうか?」
「そうかもしれんのう」
「えっ……」
自分から訊いたくせに、あっさりと肯定されたことに驚きつつも、こんなお年寄りに無理をさせてしまったと、申し訳なさでいっぱいになった。
「冗談じゃよ」
老人はまるでいたずらっ子のようなニヤリとした笑みを灯に向けた。
「ほんとに?」
「すまんのう。わしゃ、助けてくれた恩人に、ひどいことを言うてしもた。戯言が過ぎたようじゃ。すまぬ。すまぬ。ほんに冗談じゃ」
「それならよかったです」
「豆大福」
ポツリと老人がつぶやいた。
「豆大福?」
「どうしても起始屋の豆大福が食べたくなってのう。起始屋へ行くには、ここは近道じゃろう? その行きしなに、お嬢さんを見かけたのじゃ。整ったお顔をしておるのに、眉間にシワを寄せて、まるで鬼のような形相をして座っておったでな。よう覚えておる。残念ながら、お目当ての起始屋は、今日は休みだったで、しょんぼりぽんで、この道を戻ってきたら、そなたは、まーだ鬼の顔をして座っておるじゃろ。気になったんじゃ。まぁ、その後すぐに、神さんのところにお参りに行っておったから、安心したのじゃが、今度はワシが倒れてしもた。面目ない」
老人は再びおでこをペチンと叩いて、くしゃりと笑った。
随分と愛嬌のあるご老人だ。
おでこには横皺が幾重にも刻まれているのに、ほっぺたはハリがあってツルツルピッカピカ、顎の下にはちょろりと白髭を蓄えている。
身に纏っているものは、一見して、年季が入っているものばかりで、生活に困っているのではないかとさえ思えたが、そこはかとなく清潔感が保たれているせいか、初対面にも関わらず、不思議と警戒心を抱くことはなかった。
「そなたは、心根の優しい女じゃのう。名はなんと?」
「志方灯といいます」
「アカリとな」
一瞬驚いたような表情を見せた老人は、「ここと同じ名じゃな。よい名じゃ」と言って、噛み締めるように、うんうんと頷いた。
「ありがとうございます。――あのう?」
「ワシか? ワシは、ヤク爺と呼ばれておる」
「ヤク爺?」
「見てくれが、厄病神に似ておるからかのう? 失礼な話じゃよ。まったく」
「ヤク爺って呼ばれ方、好きじゃないんですか?」
「ほほ、それがな、実は気に入っておるのじゃ」
「ならよかった」
「そんな風に聞いてくれたのは、灯殿が初めてじゃ。そなたは、優しいのう」
そんな言葉にチクリと胸が痛んだ。
「そんなことないです。優しくないんです。私――」
先ほど、しでかしてきた悪行がムクムクと顔をもたげ、居心地の悪さから、背中がムズムズとする。
「――私、ついさっき、会社を辞めてきたんです。付き合ってた人に、騙されてて――、会社中にひどい噂を流されて――、居づらくなって――、ほとんどクビに近い形で辞めることになって――。それで、最後の最後に、仕返しをしてきたんです」
「ほほっ、それはまた勇ましいのう。で、何をしたのじゃ?」
ヤク爺は、まるで連続ドラマの続きを催促するかのように、好奇心丸出しで身を乗り出してきた。
「潔白を証明するために、メールに証拠を添付して――、証拠っていっても、彼とのプライベートなメールのやりとりなんですけど、それを全社員に送りつけてきました」
「ほほっ、やりおったの」
「今頃、大騒ぎになっていると思います。でも、その元カレ……、私に濡れ衣を着せた人には謝りたくなくて……、神様に、復讐じみたみっともないことをして申し訳ありませんって謝ってたんです。きっと神様にも呆れられてると思います」
そう言って、はぁーっと深くため息をついた。
「ほほっ、そういうことか。よい、よい。気にせずともよかろうぞ」
「私のこと軽蔑しないんですか?」
「何ゆえ、軽蔑する必要があるのじゃ? 反撃するには反撃するだけの覚悟が必要じゃ。特に、相手が一度は惚れた男ならのぅ。我が身を傷つけてまで、反撃したのじゃろう? それに、そなたがやったことは、言ってみれば正当防衛じゃ」
「正当防衛?」
「そうじゃ、正当防衛じゃ。偽りを流布され、灯殿の人格がひどく侵害されたゆえ、正しきことを説いたまでのことであろう?」
「それは、そうかもしれないけど……」
「仮に灯殿が、仕返しとして、偽りを流布したのであれば、褒められたことではないが、真実を説いたのであろう? それとも腹いせに、偽りをばら撒いて、やり返したのかの?」
「違います、真実を知って欲しかっただけです」
「ならば、案ずることはない。神さんだって、話が分からぬやつではないぞい」
「――そうでしょうか?」
「おお、案ずることはない。それにの、神さんだって、実は色々とやらかしておるのじゃ」と言ってニヤリと笑うと、
「コジキは知っておるかの」と訊いてきた。
――乞食。
「ホームレスのことですよね……。でもそれって今はあまり使っちゃいけない言葉なんじゃないかと……」
思わず、声が小さくなってしまった。
ヤク爺は、「ワシの見てくれのことを言うておるのかの」と、むぅっと唇を尖らせて、ジト目で灯のことを見ると、
「神さんの話じゃよ。日の本で最も古い書物、日本書紀の類じゃ」と不満げにこぼした。
あぁー、古事記か。
甚だしい勘違いに思わず赤面する。
ヤク爺は、何を思ったのか、突然、古事記に綴られている天照大神の孫である五穀豊穣や商売繁盛の神様として有名な瓊瓊杵尊(通称ニニギ)にまつわる神話を語り始めた。
「木花咲耶姫のことは聞いたことがあるかの?」
灯は首を横に振る。
「そうか。コノハナサクヤヒメはのぅ、それはそれは、美しき乙女でのぅ、一目ぼれしたニニギは、出会ったその日に恋に落ちて、求婚をしたんじゃ」
――へぇー、神様でも一目惚れなんてするんだ。
「コノハナサクヤヒメも求婚されたことがよほど嬉しかったのじゃろうのぅ、すぐに、父神のオオヤマツミの神に報告したのじゃ。するとオオヤマツミも大層喜んでのぅ、面白いことを言いだしたのじゃ」
「面白いこと?」
「そうじゃ。ニニギの元へ姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせると決めたのじゃよ」
――ひえっ、妹がプロポーズされると、姉までセット!? まるでテレビショッピングの「今なら、お値段はそのまま、もう一つおまけでついてきます!」の世界だ。
「不思議かの?」
灯は素直に頷いた。
「今のもんには、理解できぬかもしれんのう。じゃが、太古の昔では、姉妹で同じ男の元へ嫁ぐことは、そう珍しいことではなかったのじゃ。コノハナサクヤヒメはのぅ、桜の女神で美と儚さの象徴、それに対してイワナガヒメは、その名の通り雪が降っても風が吹いても変わらない岩のような永遠性の象徴なんじゃ。美と儚さの象徴に永遠の象徴をそえることで、子孫が悠久に栄えるようにと、子孫繁栄を願う親心から、二柱一緒に嫁がせようとしたんじゃな」
――子孫が悠久に栄えるようにという願い。姉妹で、お互いの足りない部分を補っているのか。神様でも完璧な存在じゃないんだ。
「ところで、フタハシラってなんですか?」
そう訊ねた途端、憐れむように見られて、一瞬鼻白んだ。
「今の子は、知らんのかのぅ。日の本では、太古の昔より、八百万の神というて、世の中すべての物に神が宿っておると崇め、身近なもんに敬意を払っておったんじゃが、今はそうでないのであろうのう。悲しきことじゃ。柱とは、神さんの数え方じゃよ。人は、一人、二人。動物は一匹、二匹。鳥は一羽、二羽と数えるじゃろう? 神さんは一柱、二柱と数えるんじゃ」
一神、二神じゃないんだ。
「言われてみれば、昔、国語の先生がそんなことを言っていたような……、気がしないでもないような……」
「まぁ、今となっては、神さんを数えるような機会もないじゃろうから、知らぬのも無理はないのかのぅ」
ヤク爺の寂しげな物言いは、なぜか灯に神様の存在を強く意識させた。
「話がそれてしまったのぅ。続きじゃ。この姉妹のぅ、妹のコノハナサクヤヒメは絶世の美女だったんじゃが、姉のイワナガヒメは……、なんというか……、そのう……」
先ほどまでの軽快な口調から、急に言い淀み、どうしたのかと話の続きを待っていると「絶世の不美人だったのじゃ」と小声で付け足した。
儚さと永久、美人と不美人。対照的な姉妹か……。儚さと永久の対照はまだしも、姉妹で美人と不美人ってどんな思いだったのだろう。
「ニニギはのぅ、そんな姉妹を目の当たりにして、不美人のイワナガヒメを躊躇うことなくバッサリと追い返したのじゃ」
――えぇっ!? そんなのあり!?
「不服そうな顔をしておるのう」
「はい。とっても」
ヤク爺が追い返したわけでもないのに、恨みがましい目で見てしまう。
きっとコノハナサクヤヒメはそんなニニギとの結婚を毅然と拒絶し、破談になったに違いない、そう鼻息を荒くしていると、予定通り結婚したというので、体がのけぞるほど驚いた。
「えぇーっ、ほんとに結婚したんですか?」
「そうじゃ」
人を見た目で判断するような男と結婚して幸せになんてなれるのだろうか。
でも、普通に考えたら、好きになった男のもとに、姉と一緒に嫁ぐなんて、嫌だろうなとは思わなくもない。
ニニギが一目惚れしたように、コノハナサクヤヒメも一目惚れだったとしたら、
たとえ冷酷な一面があったとしても、それを凌駕するくらい好きになっていたとしたら、
姉は完全に邪魔者だ。
イワナガヒメにとって、追い返されたことは、案外悪いことではなかったのかもしれない、そう思うことにした。
一方、晴れてニニギと結ばれたコノハナサクヤヒメは、一夜の契りでめでたく懐妊したというが、ここでもまたニニギのクズっぷりが顕になった。
ニニギは、事もあろうに「一夜の契りで子を宿すとは信じがたい。浮気してできた子に違いない」と、にべもなく言い放ったというから目も当てられない。
はぁーーっ、サイテーだ。この男、もとい、この神……。
離縁だ、今度こそ離縁になったに違いない。そう確信した。
なのに――、コノハナサクヤヒメの思考は、斜め上を行っていた。
コノハナサクヤヒメは、不貞疑惑を晴らすべく産屋に入るや否や、出入口を塞ぎ「もしも、お腹の子が、あなたの子でなければ赤子はここで焼け死に、あなたの子ならば無事に生まれ出ずるでしょう」と宣言すると、自ら産屋に火を放ち、炎が燃え盛る中でお産に挑んだらしい。
産屋に火を放つだなんて、正気の沙汰じゃない。何より不貞を疑ったニニギにそこまでの忠誠を尽くす必要なんてあるのだろうか?
意味がわからない。
結果として、無事に三柱の男子神を産み落としたコノハナサクヤヒメは、見事不貞の疑いを晴らすことに成功したという。
これって喜ばしいことなのだろうか?
全くもって解せない……。
「どうじゃ?」
ヤク爺が意味ありげに視線をよこしたので、灯は心底嫌そうに、「サイテーですね」と、返事をした。
「そうじゃろう? 神さんだって、若き日には、失敗をしておる」
だから、気にせずともよい、きっとそう言いたかったのだろう。
「コノハナサクヤヒメはのぅ、今では子宝や安産の神様じゃ。一夜で懐妊して、燃え盛る炎の中で、三柱もの子を出産したのじゃ。適任じゃろう? 転んでもただでは起きぬ、とはまさにこのことじゃ。それからのぅ、縁結びの神様としてもご利益があるぞい」
「縁結び⁈」
あまりにも意外なご利益に、声がひっくり返った。
「何ゆえ、そのように驚いておるのじゃ?」
「えーっ! だって、相手は、あのニニギですよ。男を見る目がないというか、なんというか……、そんな神様が縁結びって……」
伴侶を見る目がないんじゃないか、と言いかけて、ぐっと呑み込んだ。流石に、神様に対してそんな失礼なことを最後まで口にする勇気はない……。
「ふぉっふぉっふぉ。愉快じゃ。よき、よき。灯殿は実に素直じゃ」
ヤク爺は笑っているけれど、とんでもなく罰当たりなことを口走ってしまったのではないかと、不安になる。
「朱里七福神社って、コノハナサクヤヒメも祀られていますか? 今の話を聞かれたでしょうか?」
神様の怒りを買って、これ以上不運が続いたらたまったものじゃない。
「気にせずともよい。灯殿、ひとつ心に留めおいて欲しいことがあるのじゃ。よき女というものは、情が深きゆえに、ダメな男に引っかかりやすいものじゃ。コノハナサクヤヒメも灯殿も同じじゃよ」
ヤク爺は小さな子どもに言い聞かせるようにそう言うと「大事なのは引き際じゃ」と付け足した。
「引き際?」
「そうじゃ。神さんだって未熟なころがあって今がある。ゆえに、たった一度、相手の嫌な面を見たからと言って決別しておったら、誰ともよき縁など結べぬ。じゃからといって、『この人は、私がいないとダメなの』などと盲目的に己の眼を曇らせて、ダメ男にのめり込んでも身を滅ぼすだけじゃ。成長せぬ男は放っておくに限る。引き際の見極めが大事なんじゃ」
「彼を切ったのは時期尚早だったってことでしょうか?」
「そうではない。大事なのは引き際じゃ。つまらぬ男に一矢報いたのじゃから、これでもうおしまい、ということじゃ。灯殿の中には、その男に対して、もう一矢報いたいとの思いが燻っておるのじゃないかのぅ?」
図星だった。
「灯殿、正当防衛は許されても過剰防衛は許されぬ。それはもう、防衛ではなくて、暴力じゃ。そんなつまらぬ男への恨みつらみの執着で、いつまでも灯殿の清らかな心を澱ませる必要などなかろうぞ。徳が下がるだけじゃ。引き際を見極めなされ」
ヤク爺の言葉は、熱々のホットケーキにじゅわりとバターが溶け込むように、固くなった灯の心に染み込んだ。
「同じエネルギーを使うなら、恨みごとではなく、良き伴侶を探すことに使いなされ」
灯は改めて朱里七福神社の境内を見渡した。もうじき境内の裏手は色とりどりの紫陽花に彩られるだろう。色鮮やかな紫陽花を浮かべた梅雨限定の花手水に、どれほど癒されたことかわからない。
秋になれば、朱印所脇の大きなイチョウの木は、鼻を突き刺すような腐臭を放ちながら、美しい金色の葉をこれでもかというくらいに侍らせて、雲ひとつない真っ青な秋空と黄金のコントラストで参拝者の心を鷲掴みにする。
真冬の雪化粧をした拝殿の美しさは、寒さを忘れるほどの神々しさを撒き散らし、春が芽吹く頃には可憐な梅、華やかな桜、艶やかなツツジと、毎月違った顔で出迎えてくれる。
静かに目を閉じると、朱里七福神社の四季折々の顔が鮮明に浮かんでくる。
春夏秋冬完璧なまでの八方美人。
会社を辞めてしまえば、ここへ来ることは滅多にないだろう。それだけが心残りだった。
「そうじゃ、灯殿。助けてもろうた礼に、これをもらってはくれぬだろうか」
ヤク爺は、手にしている使い込まれた深緑色の巾着の中から、おもむろに手帳のようなものを取り出した。
差し出された手帳は御朱印帳のようで、青紫の地色に金糸で月と花模様の刺繍が施されている。ヤク爺の身なりに反して、一見して値が張りそうな物に見えた。
「そんな、いただけません」
遠慮するように両手を振ったが、灯の膝の上にヒョイと御朱印帳が置かれた。
「灯殿にもらって欲しいのじゃ。これはのぅ、月召帳と言うて、摩訶不思議な力を宿す御朱印帳なんじゃ」
「摩訶不思議な力?」
「そうじゃ。必要な御朱印は三種類。それらを集めると、どんな願いも叶えてくれるそうじゃ」
ヤク爺はとっておきの話でもするように、ヒソヒソと声をひそめて囁いた。
「面白そうですね」
「じゃろう? こんな老体でフラフラ出歩いておったら、またどこぞでぶっ倒れて、迷惑をかけるやもしれぬ。じゃから、灯殿に託したいんじゃ」
「そういうことなら……。ありがとうございます」
灯が御朱印帳を受け取ると、ヤク爺は満足そうに頷いた。
「ただし、一つだけ約束事があってのぅ、決められた日に決められた場所で御朱印を頂かねばならぬ。指定された日、指定された場所以外で御朱印を貰っても、願い事は叶わぬそうじゃ」
「わかりました」
「詳しいことは、その中に書いてある。それからのぅ、これはお節介かも知れぬが、灯殿は職を失ったと言っておったであろう?」
「はい」
「隣駅に七福マートという萬屋があるのじゃが、やりたい事が見つかるまで、そこで奉公してみるのもよかろうぞ。あの店はよきところじゃ。ちょうど奉公人を探していると言うておったでのぅ」
慈しみ深い眼差しに、一瞬だけ、ヤク爺がお釈迦様に見えた。
灯は言葉が喉に詰まってうまく礼が言えず、代わりに立ち上がって深く頭を下げた。
「なんの、なんの、礼を言わねばならぬのはワシの方じゃ。助けてもろうて、ありがとうのぅ。それにこんな若いお嬢さんとおしゃべりができて楽しかったわい」
ヤク爺は、ニカッと笑うと、すくっと立ち上がり、ペンギンのように左右に上体を揺らしながら、ヒョコヒョコと歩き始めた。
「あ、あのう! またどこかで会えますか?」
灯はちんまりとした背中に向かってそう呼びかけると、ヤク爺は振り返ることなく、右手に持った杖を天に掲げ、バイバイと手を振るように左右に振って去って行った。
《続く》
【全16話】