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「分ける」と「分かる」
突然ですがみなさん、中高生時代の先生の雑談を覚えていますか?
嫌なことだとか、面白い話だとか、色々だと思います。
私が特に記憶に残っているのは「学ぶ」と「真似る」の話ですね。
何事も真似なければ学習は始まらない。
いつ、誰に言われたかまでは怪しいんですが、英語の先生だったと思います。
音読の話と一緒にされたのは覚えていますね。
ところで、「分ける」と「分かる」のお話を知っていますか?
赤ちゃんが「真似することで学ぶ」様に、
人間は言語で世界を「分ける」ことで「分かる」ようになるという話です。
分別がつくとも言いますね。
自分は言語学は分かりませんが、評論文とかでよく出そうな題材です。
例えば、日本語ではお米を赤飯や白米などと区別して表現しがちですが
英語圏では、基本的にはriceですよね。
また、虹が7色だったりそうでなかったり民族差があります。
私は区別と差別の境界にこれが関わっていると思います。
何故差別が起こってしまうのか?
ある価値観や集団を認識するとき、
私達は何らかの形で「分ける」のです。
その「分け方」は誰かと同じ時もあるし、違う時もあるでしょう。
特に権利や義務、倫理観に関しては他者から影響を受けつつも、自分なりのアレンジが加えられています。
この分け方が違う、中でも
「これ以上は分けられないだろう」
と確信している部分を、他者が
「まだ分けられるだろうor分け方が違う」
として否定した時、それが区別か差別なのかの
議論が起こったり、‘差別’が起こったりするのだと思います。
生まれや育ちにより形成されてきた仕切りを変えること、
いわゆる“差別”をなくすことは
難しいとよく分かります。
でも、希望はあると思います。
仕切りを変えることは容易ではなくても
私達はそもそもの自分の仕切りを「真似して」作ってきたので、
少なくとも真似はできます。(外国語、プログラミング言語学習もそうだとおもいます)
不可能だと理解しても、理解は不可能ではないと思うんです。
これから先、自分がそうやって足掻き続ける人間であることを望むし、
noteでそれを皆さんと一緒に進んでいきたいと心から思います。